第11話 やってくる男4
ごくり、と生唾を飲み込んだ時。
ハロルドが腕を解く。
え、とハロルドを見上げた。
振りほどかれたのか、と。
不安定に揺らぐ腕に、軽く衝撃を受ける。
頼りない気持ちに泣きそうになる。
だが。
同時に、ぐいと腰を引き寄せられた。
次に、足が浮く。
檸檬に似た香りが濃く私を包む。
力強いハロルドの腕を感じる。
「……へ……?」
声が漏れた。
ぷらん、と足首が揺れて
ようやく。
自分がハロルドに横抱きにされているのだと気づいた。
「あまりにも可愛すぎて」
聞きなれたハロルドの声が
「この数月、誰にも見せずに屋敷に閉じ込めておりました」
いうなり、私の頬に唇を寄せる。呼気がくすぐったくて目を細めた。
「わたしの大事な小鳥です。まだこの地にも、人にも慣れておりませんので、視線だけでも驚いて飛びだってしまう」
ハロルドは、おどけたように騎士たちに笑いかけた。同時に強くゆすったものだから、私は拍子に「ひぇ」と悲鳴を上げて彼の首に取りすがった。
「なるほど」、「確かにこの鄙には珍しく美しい鳥ですな」、「ハロルド様がお手の中で囲われるのもわかる」
騎士たちは場の空気を読み、調子を合わせてそんなことを言う。ハロルドは軽妙に笑って騎士たちにうなずいて見せた。
「野生の美しい小鳥なのです。強い気配を感じると、すぐにどこかへ飛んでいこうとする」
困ったものです、と笑いながらも、その声は徐々に硬化していく。
おや、と私が彼の顔に視線を転じると。
冷ややかに。
凍てつくほどの威力で彼はデービッドさまを見ていた。
「心の牙はどうぞおしまいになってください」
顔はほほ笑んでいるのに。
ハロルドの、
目も、声も。
ぞっとするほど鋭利だ。
……こんな顔もするのか……。
驚くとともに怖気が走った。
私がいくら悪態をついても、笑って受け流している姿しかみていないせいで、チャールズがいくらハロルドのことを「武芸達者」と言っても、お世辞だとしか思ってなかった。
力強い腕も、私とは全然違う大きな体も。
それは、「男だからこんなものだろう」と思っていたが。
『決して、旦那様のお傍を離れぬよう』
業者の声が鼓膜を震わせた
私は反射的に、ぎゅっとハロルドの首に回した腕に力を籠める。
本当に、この人のそばは安心かもしれない。
「そのように警戒せずとも」
掠れた、どこか投げやりな声が首周りを廻って消える。
私はハロルドに抱かれたまま、声の主を見た。
「この状況で、どうやって小鳥に牙を剥け、と?」
デービッド様はぐったりと上半身を背もたれに預けたまま、ふざけたような態度で首をそらし、舌を出して見せる。
「そんな元気があれば、視察を続けている」
自嘲めいた笑いに、騎士たちが素早く視線を交わしているのを見た。
本当に具合が悪いのか、これは演技なのか。なんだか、そこを見極めようとしているようにも見える。
そういえば、自分の、騎士団を連れてきていない、のよね……。
騎士たちが着ているのは、辺境伯の騎士を示す紫色のサーコートだ。デービッドさまの騎士団ではないのだろう。
護衛、というより。
その目つきは「監視」のように見える。
多分。
村娘の件をまだ、辺境伯は警戒しているのだ。
だから、デービッドさまつき騎士団の随行を許さなかったのだろう。
「ハロルド」
私はそっと彼にささやく。
「ん?」
ハロルドはいつもの柔らかな視線を私に向けた。
「サラの様子を見てきます。デービッドさまも早くゆっくりなさりたいでしょうし」
「そう、だな」
ハロルドは私を床におろしながら、するりと視線をチャールズに向ける。承った、とばかりにチャールズはうなずき、鎧を鳴らして階段に向かう。
私に代わり、サラの様子を見に行くのだろう。
だが、彼の足が階段にかかった時、二階廊下からリーがしずしずと歩いてくるのが見えた。隣にいるのはサラだ。どうやら、二人で整えていたらしい。
私はほっとしてハロルドを見上げる。彼も柔和に微笑み、デービッドさまを見た。
「ゲストルームにご案内しましょう。どうぞそこでお休みください」
「そうさせていただく」
デービッドさまは、ぞんざいに右腕を上げる。一瞬きょとんとしたが、どうやら肩を貸せ、ということだったらしい。騎士の一人が腰をかがめ、腕を首に回して立たせるための補助をする。ずいぶんと手がかかる御仁だし、その態度も横柄だ。
「屋敷に馬車はないのだが……。姉上の屋敷に連絡をし、馬車を回していただくほうがよろしかろうか」
その様子を見て、ハロルドが一番年配らしい騎士に声をかけた。
「……そう、ですな」
騎士は顎髭をしごきながら、つぶやく。慎重に。厳密にデービッドさまの具合を見極めようとしているのだが。
「そうしてくれ」
ぶっきらぼうにデービッドさまが答える。続いて「吐きそうだ」と言ってうめき始める。視界の隅で何かが動いたと思うと、たらいを持ったサラが疾風のように階段を駆け下り、デービッドさまに差し出した。さすがだ。
デービッドさまはそのたらいを片手で奪うと、本当に吐き出すので私もうろたえる。
「お、お医者様を呼ぶ……?」
てっきりなんかこう。
視察がいやで仮病でも使っているのかと思っていたが、そうではないらしい。私はハロルドを見上げるが、彼はぞんがい興味の薄い顔で、「様子を見よう」とか言っている。
「では、われらは一度、シトルリン家に報告に向かいます」
年配の騎士は顔をしかめてそう言い、一番年若い騎士を指さし、「同行しろ」と命じた。
「申し訳ありませんが、デービッド様をしばらく」
年配の騎士は深々とハロルドに向かって頭を下げた。
「お気になさらず」
ハロルドは柔らかく笑んで首を横に振ったが、するりと視線だけを階上に向けた。
たぶん、ゲストルームに向かったデービッド様を窺ったのだろう。もう姿は見えないが、その眼には警戒があふれている。
「くれぐれもご注意ください」
そんなハロルドに、年配の騎士は声を低めて言う。
「なにを考えておられるのか、我々にもわかりませぬゆえ」
言葉の内容に戸惑う。なに。やっぱり仮病だってこと?
「騎士たちを張り付けておりますが、万全のご用心を」
その後、ちらりと私を見るから、おもわず飛び上がりそうになった。
「奥方に気を付けられますよう」
騎士の言葉に、そっち系の護衛も兼ねてましたか、あなたたち、と暗澹たる気持ちになった。
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