第10話 やってくる男3
「なにの匂いなの? とりあえず、狼耳はしまって」
私はつないでいない方の手で、ぴんとサラの耳を弾いた。上質の
「いっぱいの男の匂いだ……。旦那様もいるみたい」
サラは、相変わらず顎を上げ、くんくんと匂いを嗅ぎながらも、私の手をつないで、玄関に向かう。
厨房を出て、食器保管庫を抜け、玄関ロビーが見えた頃。
音を立てて、扉が開いた。
「ゲストルームを準備させます」
最初にホールに飛び込み、背後に向かって声を張ったのはハロルドだ。
端正な顔に、今は焦りが浮かんでいる。その真横にぴたりとついているのは、チャールズだ。いらだたしげに鎧をがちゃがちゃ鳴らしている。
その後ろから。
5人ほどの騎士がひとかたまりになって入ってきた。
みな、紫色のサーコートを着ている。辺境伯の騎士団だ。中央にいる青年をどうやら抱えているようで、「大丈夫でございますか」とか、「スザンカの城に着きましたぞ」とか声かけをしている。
「ホールの椅子をお使いください」
ハロルドが手近な騎士に声をかける。
騎士はうなずくと、玄関奥に拍車を鳴らして進み、すぐに猫足の椅子を持ち上げて戻ってくる。さすが、というか。軽々と運ぶその様子に、ちょっと感心する。
「どうぞ、こちらへ」
騎士は椅子を差し出し、どうやらそこに誰かを座らせているようだ。
なんだろう……。
そう思っていたら、チャールズがハロルドに顔を寄せているのが見える。
「それがしが、お嬢様についておりましょうか?」
耳打ちしているが、チャールズの姿が見えているのは、ハロルドだけのようだ。
不自然にならないような仕草で頷いている。
「どうしたの?」
思わず、声をかけてしまった。
決して大きな声ではなかったし、だからといって、彼らに聞こえない声ではなかったと思う。
その証拠に、ハロルドは驚いたように私を観たし、騎士たちも顔をこちらに向け、不審そうに私と、そしてサラを見やった。
「なにか、あったの?」
私はその、たくさんの瞳をジロリと見返し、ハロルドに向かって声を発する。
胸を張り、顎を引いた。肩幅に足を開き、騎士たちを睥睨する。
チュニックを着ていようが、木靴を穿いていようが、納得はしていないが、私はこの屋敷の女主人だ。
荒々しく乱入し、場を乱すことは許さない。
私が。
スザンカの女主人であるマリア・ハイデンベルグが、この場を、屋敷を仕切るのだ。
「義兄上が体調を崩されてね」
ハロルドは私をみつめて、ふわりとほほ笑む。「心配をかけたね」。そう声掛けをした後、騎士たちに瞳だけ向ける。
いや。
騎士に囲まれて座っている、一人の男性を、見たのだ。
第一印象としては。
ずいぶんと『崩れた』ところのある男性だ、ということだ。
着ているものは値の張る衣装だったし、飾り釦やスカーフなんかも洗練されている。
顔立ちだって悪くない。
どこからどう見ても、高位の貴族。そう見える。
だが。
全体的に。
なんだか退廃的な雰囲気を持った男だった。
長すぎる前髪のせいだろうか。
三白眼のせいだろうか。
酷薄そうな口唇のせいだろうか。
だらしなく、背もたれに上体を預けて私をぶしつけに眺めているせいだろうか。
なんだか、この男は、『崩れて』みえた。
ハロルドと対照的だ。
良くも悪くも、ハロルドは「完璧」だ。
左右対称の顔。
均整の取れた体躯。
柔らかな髪と、うるんだような肌。
黙ってさえいれば、天使かとおもうような「聖的」な美しさを持っている。
「マリア」
ハロルドが私の名前を呼ぶ。
「なに」
私は応じた。
「一度、我が屋敷で休憩いただこうと、お連れしたのだよ」
「では、ゲストルームの準備を」
サラに視線を送る。
並んで手をつないでいたのに、いつの間にか彼は使用人らしく私の背後できちんと控えていた。
「かしこまりました」
教則本どおりのしぐさでサラは礼をすると、優雅な足取りで階段に向かう。こつり、こつり、と鳴るサラのヒールの音に、「マリア、ということは……。奥方様か」、「お噂は聞いていたが」と騎士たちが小声で耳打ちする声が混じった。
そのサラと入れ違うように。
「いきなり騒がせて申し訳なかったね」
ハロルドが私に向かって歩いてくる。
チャールズはハロルドから離れ、その場で控えることにしたらしい。騎士たちを監視するように眼光鋭く彼らを見据えている。
「いえ、大丈夫よ」
私はできるだけ優美に微笑んで見せる。
騎士たちの視線を感じたからだ。
もちろん、私はこの婚姻に納得はしていないが、体面的には、「ハロルドの妻」だ。その役割を演じなければならないことは理解している。
ハロルドは満足そうに目を細め、それから私の頬を両手で包む。ちょうど、騎士たちには背を向けた形で、私の額にキスを落とした。
「絶対に、ひとりでは義兄上には近づかないように」
ハロルドは唇を離す刹那、そうささやいた。
澄んだ彼の呼気は、なんとなく冷気を帯びているようで、私は姿勢を正して、小さくうなずく。「いい子だ」。ハロルドは、くすりと笑うと、私の頬から手を離し、無駄のない動きで私の隣に立った。
彼が差し出す腕をとり、二人でデービッド様に近づく。
「紹介が遅れました、義兄上」
五人の騎士を従えて椅子に座るデービッド様に、ハロルドは目を細める。
「妻の、マリアです」
ハロルドの言葉に合わせ、私は片足を引いて頭を下げて見せる。
「ハイデンベルグ伯の娘、マリアです。ご挨拶が遅れました」
デービッド様から声がかかるまで、一応頭を下げておく。「こちらこそ」。掠れた声に、私はそろりと顔を上げた。
「デービッドだ。世話になる」
静かな声が鼓膜を撫でる。
途端に。
視線にぶち当たって面食らった。
真正面からのデービッドさまの目つきに。
ひるみそうになるのは。
ひとえに。
気持ち悪かったからだ。
熱を帯びた視線、というか。
粘着的な視線、というか。
ハロルドはよく私を見つめて「食べてしまいたい」というが。
彼の場合、半分は『からかい』だ。
ぎょっとしたような顔の私を見て「その反応がかわいい」とかいうところがある。
だけど。
残りの半分は、『本気』なわけで。
その本気の裏にあるのは、当然、『そういった行為』であって。
そこを。
ハロルドの場合、絶妙な加減と配合で「逃げ道」を用意してくれる。
だけど。
ちょっと。……なにこいつ……。露骨なんですけど。
私は思わずハロルドをつかむ腕に力を籠める。
正直に言うと、鳥肌だちそうだ。
絡みつくような視線から逃げ出したい。服から出ている素肌の部分が不快だ。
完全に、「そういう対象」として私を値踏みしている。
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