第2話
イルルークは、多くの平民が暮らす区画である。
聖霊信仰が根強く残るシルヴァベトス王国の首都、イノシュにある貧困街から少し外れた場所にあり、治安が良いとは言えなかった。
貧困街は首都にある国王直轄地を守る為の高層防壁により、日が差す時間が短く薄暗い場所で、日中は人気もまばらである。
ここに住む者達の多くは、時代の移ろいと社会的分業の中でいつのまにか差別の対象とされた、汚物処理、畜肉のと殺、遺体の埋葬などを請け負う人々であった。中には、流れてきた他国の兵士もひっそりと暮らしているという。
その側近くにあるイルルークも、その影響を受けている場所がある。
ミカエラはイルルークにあるサリードの部屋で目覚めた時、彼が寝ていた場所で冷たくなっている敷き布を触り、ため息を吐いた。
―――またしても、黙って消えてしまった。
彼はもう、イノシュの貧困街にある宿場に行ったに違いない。
「…いい加減、担当を代えてもらいたいわ」
思わず枕を握りしめる。
今回は出勤先が近いからと本人は喜んでいたが、ミカエラは嫌だった。
真面目な彼は、どんな時も休む事なく仕事にいく。いつまで宿場の護衛をする契約になっているかはしらないが、早くそれが終わって欲しい。
あそこは肢体を露わにして男を誘う遊女が
サリードは警備隊員として、荒事、刀傷沙汰を収めるくらいだ。
際立つ男前ではないが、すっきりとした顔立ちで、何より男らしく体格も引き締まり、上背もある。今の警備隊の中でも存在感を放っていた。
後ろで緩く結んだ髪は、銀細工のような輝きを合わせ持つ美しい朽葉色で、立ち姿も目を引かれてしまうだろう。珍しい色ではないが、勤務中の彼を一目見れば、胸がときめいてしまう娘や婦人がいても全くおかしい事ではないように思っていた。
しなやかな動きで立ち回り、婦女に礼儀正しく、紳士である。
しかし、悪人には容赦もない。
あの野生の獣のような瞳に鋭さが宿ると、研ぎ澄まされた神経が空気を伝ってあたりに伝播するのだ。
彼の気高い精神は、悪事を働く者はもちろん、怪しく近寄ろうとする者を一切寄せつけない空気を放ち、場を支配する。
何者にも犯しがたい領域が、彼の周りにある。
…まさに、天来の聖のように。
自分はそれを誰より知っている。
彼は孤高の存在だった。
何者にも真に心許さず、なびかない。
だがそれが何よりミカエラを強く惹きつけたのだ。
他のどんな男とも違う。
勇猛な精神を持ち、正義、倫理を重んじ、確かな信念も持っている。
そして、自分の知る誰より、心傷ついた者や弱者に優しかった。
真の強さとは何なのか、それをきっと彼は知っているのだ。
知り合って6年以上経つが、今でもそんな彼に惚れ惚れしている自分がいる。
そんな事をぼんやり思っていても、1人きりの寂しい部屋に、彼の中に自分の居場所が無いという現実を突きつけられた気分になる。
「私は貴方ともっと一緒に居たいのよ…」
理想との乖離。
期待を裏切られ、一気に気分は落ち込んでしまうのだ。
呆然と寝所に横たわったまま、
これ以上どうしたら良いのだろうと只々考えずにはいられない。
なぜなら、二人の関係は、進むどころか後退し始めている。危機的状況だ。
時折、どうにもならない壁のようなものが、2人の間にある事がやるせない。
どうやら近頃敬遠されている事ははっきりと勘違いではないように感じる。
いつからか、こうなってしまった。
けれど何が原因なのか、分からない。
両親だろうか。
両親は自分たちより貧しいサリードの事をなんとなく良くは思っていない。
そうは感じているが、付き合いを止めはしない。
ミカエラも、サリードと彼らを会わせたりするが、これといって関係が悪いわけではない。それなりに認めてくれている。
ミカエラはサリードと一緒になる事が1番の幸せだと思っているし、サリードと生きていきたい気持ちを、両親は知っているはず。
一体、何が彼を頑なにさせているのだろうか。
もしかして、他に気になる人でも出来たのだろうか。
(まさか、ね)
もしそうだとしても、彼は優しいから、あからさまな態度はしないかもしれない。
もう恋人になって3年だ。
それなのに、手をつないだり、肩を引き寄せられることだって、数えるほどだ。
一緒に暮らそうとか、結婚したいとか、そんな素振りもない。
いい加減、ここまでくると自信をなくしてしまっていた。
(何が駄目なのかはっきりしてくれたらいいのに…)
本当はもう、ミカエラの事など好きではないのだろうか。
色々な想いが込み上げて、思わずわななく唇をひき結んだ。
(…なんで)
どうして彼はいつまでも心を見せてくれないのか。
いつになれば、ミカエラの事を力強く抱きしめてくれるのだろう。
もし、ある日突然、好きじゃないと言われたら?
もう来ないでくれと拒絶されたら、自分はどうなってしまうだろう。
…今のままでは、そんな日が来ないとは言い切れない。
(そんなのはイヤ…)
彼の事を忘れて生きるなんて、できるだろうか。
……心から好きになった唯一の人なのに。
考えただけで、次々感情が走り出して、胸が苦しくて、息が思うように吸えない。
例え彼が別れを告げてきたとしても、きっと泣き叫んで拒絶してしまうだろうと予想できた。
離れたくない、別れたくない、と。
ミカエラはこぼれそうな涙を、上を向いて必死に耐える。
(どうしてこんなに苦しくなるのかしら)
誰かを愛する事が、こんなに見苦しい事だとは思いもしなかった。
ただ愛する人に愛されたい。
彼が他の誰かに微笑みかけて幸せそうな顔をするのを想像しただけで、濁流のような激情が込み上げる。
でも、それは決して悟られてはならない。
サリードにそんな考えを知られたら、自分勝手さに幻滅され、重たい女だと思われてしまうだろう。
己の内の醜い感情を持て余している…。けどまだ抑え込める。まだ我慢しよう。
耐えなければ。
せめて今は、彼にとって負担にならないようにしていよう。サリードにだけは嫌われたくない。
ミカエラは今日もそう確かめるように誓う。
暗い考えに凝り固まった眉間を伸ばすように両手で擦ると、気持ちを切り替えて寝台から降りる。
動かすことが出来ない彼の気持ちを前に、必死で自分を慰めること以外、今のミカエラに出来ることはなかった。
そうして始まった1日を、彼女は何事もなかったかのように過ごしたのだった。
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