第1話 苦悩の日々

 早朝、ゆっくりと目蓋を持ち上げたサリードは、隣で眠る美しい女ひとを見つめていた。

 細く白い指が掛け布から覗き、サリードの肌着の裾を握っている。


 朝特有の冷えた空気の中、外の往来が気にならないほど静かな室内に、彼女の寝息だけが聞こえる。


 

 微睡の中の、この儚いひと時。


 (…あぁ、もう一度眠ってしまいたいな…)


 彼は、言葉で言い表せないほどの安息の中にいた。


 

 そろそろ、いつものように日が昇りはじめる時間だ。


 窓の擦りガラスから入るぼんやりした薄明かりが、彼女のなだらかな額と頬を薄っすらと照らしている。

 この長い睫毛に縁取られた目蓋が開く頃、自分は隣にはいないだろう。しかしこうして姿を目に焼き付けるように眺められていると知れば、恥ずかしがるだろうか。




 サリードの朝はいつも早い。

 警備隊員の彼は、率先して早朝や夜間の勤務に入っている。

 その方が、給金がもらえるからだ。


 朝、多くの人が動き出す頃、同じ様にサリードの1日も始まる。


 昼頃まで働き、昼食後は夕方まで眠ると、体を動かして軽く軽食を取る。

 そして人々が寝静まる夜、また仕事に出かけるのだ。

 今度は深夜から太陽が登り始める明け方までだ。

 そこで一度職場を離れ、朝食をとるものの、その後は寝ずにまた職場に行く。

 たまに今日の様に夜勤は休むが、それをずっと続けてきた。

 成人である16歳で育った家を出て、もう9年の月日が流れた。

 

 早起きも慣れたもので、もう苦痛ではない。

 遅く寝ても、自然と決まった時間に目が覚める。


 とにかく休まず仕事をして、金ができたら早くこのイルルークを出て、もっと環境の良い場所に移り住みたい。

 ……それが彼の考えであった。



 (…次はもっとイノシュの中心部付近に住めたらいいが…)

 小さな溜息を漏らすと、天井を見つめる。


 引っ越しには金が必要である。しかし両親から離れて暮らしている彼は、対して多くも無い給金から、年老いた2人にもわずかばかりだが生活費を援助していた。だからなかなか貯まらない。


 そもそも警備隊といっても、立派な王国専属警備隊ではない。

 猥雑な賭博場や治安の悪い粗悪な場所を警備しなければならない事も頻繁である。怪我をする事もあるし、八つ当たりをされ、悪口雑言を叩かれることもある。安月給で、時には命の危険を伴う護衛などもしなければならない。

 精神的にも肉体的にも疲れる。

 

 

 貧しさとは、時に人を追い詰め、辛い決断を迫り、心を疲弊させる。

 しかし、どんなに困っても、離れて暮らす両親に頼った事はない。

 だから家を出たばかりの若い頃は、サリードとて食うに困るたび、なんでもやった。

 なぜなら、彼らは本当の両親ではないという思いがちらつき、どうしても頼れなかったのだ。


 それを知ったのは物心ついた頃、すぐだ。


 顔も覚えていない母親の祖父母だと聞かされた。


 実の両親は、サリードも覚えていない程小さな頃に死んだようだった。

 死に方は知らないが、災害で亡くなったという。

 

 (…まあ、思い出す事もない…)

 災害で亡くなった両親はここから離れた他国で暮らしていたというが、なぜ自分だけ助かったのかは知らされていない。

 はっきり言って、よく分からないまま時が流れた。

 そのくせ、自分だけ助かって生き残ったのだという孤独感は消えることがなかった。



 それでも生きねばならない。


 そしていつも、幼かった自分の一人ぼっちという孤独感は、誰も満たしてはくれなかった。


 ……だが。

 (今はミカエラがいる)


 永遠に続かなくても、そんな寂しさを忘れさせてくれる存在が現れたのだ。

 サリードは、朝のこの幸せな時間を、今だけは誰にも奪われたくないと思う。

 疲れた心と身体に、唯一、彼女の存在が平安をもたらしてくれる。

 自分は、1人ではないと。


 そして、眠る彼女の、慈愛にみちた穏やかな空気は、彼をいつも神秘的な気分にさせた。


 ―――そう。


 このか弱き女性が、まさしく今のサリードを支える1本の大木であった。

 


(だが、君の希望は叶えてやれそうにない…)


 こうして時折勝手にやってきては、一緒に眠る事を望む理由。

 つまり、彼自身、自分は許されているとわかっていた。しかし、絶対に彼女の身体に触れなかった。


 彼女に興味がないわけではない。

 彼女の他に想う人がいるわけでもない。


 だが、冷めていた。


 自分を取り巻く現実のすべてに。


 悲しい事に、冷めている自分を、どうする事もできなかった。

 

 彼女と結ばれて、その先どうなるのだろう、と。

 

 そもそも、自分が誰かを幸せにできるとは思えない。

 いまだって、必死に生きていても、何一つ彼女を幸せに出来る物が得られない。

 平民で、それも生まれも分からず、貧しい。地位もなく、金もない。

 それが覆ることなどない。

 

 だから、たった一つの大事なものがあっても、諦めて手放した方が良いと、常々思いながら暮らしてきたのだ。

 

 自分の人生の先を考えると、必死になって何かを得ようとしたり、希望を持つ事は、無駄のように感じられた。

 

 

 サリードは天井の傷だらけの梁をぼんやり見つめながら、思わず目を閉じる。

 考えとは裏腹に、眼裏に彼女の純真な笑顔が浮かんでくる。


 彼女の鳶色の眼はいつも生命力に満ち溢れていて、気づけばいつも自分を優しく見つめて微笑む。


 出会った頃から随分経ったが、美しさに磨きもかかり、女盛りだ。

 正直、サリードにはもったいない人なのだろう。

 他人に言われるまでもなく。


 わかっている。

 「…言われなくても」


 自分はこれでいい。

 これ以上、望むまい。


 これからも、何度も心に刻み込むだろう。

 



 彼女を起こさないようにそっと身体を起こすと、寝台をおりた。

 椅子にかけていた隊服を取り、肌着の上から着付ける。

 いつものように、長めに作られた腕の裾を仕上げに折り曲げると、自然と気が引き締まり、雑念が消えた。

 長い1日の始まりである。



 そっと扉まで来て眠るミカエラを一度だけ振り返ると、彼は迷わず部屋を後にした。

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