後編
休日、中央線沿線にある鴻上の自宅に赴いた。――教えてもらった住所には、新築の庭付き一戸建てが
土地成金の
少し離れた大木の陰から覗いていると、四十前だろうか、鴻上らしき長身の男が庭に出てきた。
……この男が血縁上の父親か。まるでバスケの選手みたいだ。こんな大男が相手じゃ、抵抗などできない。鴻上にすれば、赤子の手をひねるがごとしだ。なんて、卑劣な男だろう。私は
「おーい、ナオコ。トマトが赤くなってるぞー」
……ナオコ?
「あ、ホントだ」
小学五、六年だろうか、肩までの髪にピンクのカチューシャをしていた。
……これが、娘のナオコか。母と同じ名前は偶然か?
鴻上は、ナオコと家庭菜園を楽しんでいた。
……私から電話があった連絡が、鴻上の母親から入っている可能性は大だ。ましてや、母親似の私が顔を出せば、鴻上に警戒される。さて、どんな手を使うか。
「あなたーっ、菜緒子がっ!」
鴻上の妻、
「も、もしもしっ」
香津子は
「……お母さん?」
「な、菜緒子っ! 大丈夫なの? 今どこ?」
「……おばあちゃんち」
「えーっ。……なんで?」
「なんでって、おばあちゃんに会いたかったからよ」
「ぶ、無事なのね?」
「お母さんこそ、どうしたの? あわてちゃって」
「誘拐されたかと思って……」
「誘拐? なんで?」
「だって、帰りが遅いから」
「帰りが遅くなるのはたまにあるじゃん。友だちんちに寄ったりして」
「そうだけど、なんか胸騒ぎがして」
「もう、早とちりなんだから。ね、お父さんに代わって」
「あ、はい」
「もしもし、菜緒子か? ――ん? 話?」
鴻上は、千葉にある自分の別荘に車を走らせた。――急いで鍵を開けると、
「菜緒子ーっ!」
慌てふためきながら名を呼んだ。
「お父さん、ここっ!」
声のした応接間に行くと、荷造り用のロープで手足を縛られた菜緒子がソファに座っていた。
「ど、どうしたんだっ!」
鴻上は慌てて菜緒子に駆け寄ると、ロープに手をやった。
「女の人に誘拐されたの」
「えーっ! どんな女だ?」
「こんな女よ」
鴻上の背後から声をかけた。ビクッとした鴻上が振り向いた。包丁を手にした私に怖じ気づくと後ずさりした。
「き、君は……」
「どうしたの? 私の顔に見覚えがあるみたいね」
私は瞬きのない目を鴻上に据えた。
「……なお……こ?」
「気安く呼ばないで。あなたに手込めにされた土田奈央子の娘、未来よ」
鴻上は、更に目を見開いた。
「覚えてないなんて言わせないわよ。二十年前の夏休み、田舎の川で遊んでいた母を犯したくせにっ!」
「嘘だっ。知らないっ!」
「娘の前だからってとぼけるつもり?」
「いや、そうじゃない。ほんとに記憶がないんだ」
「……記憶がない?」
「ええ。僕が記憶喪失だと知ったのは、東京の病院で診てもらってだ」
「……記憶喪失?」
「田舎に居た頃、精神に障害があったらしい。それはのちに知ったことだ。だから、当時のことを覚えていないんだ」
「……覚えていない? でもさっき、私を見て奈央子って言ったわ」
「奈央ちゃんに似てたから。幼馴染みの奈央ちゃんとはよく遊んだ。仲が良かったんだ。……僕の片想いだったけど。だから一瞬、奈央ちゃんだと思って。記憶がなかったのは、高校二年の夏休みの数時間だけだ。
「……」
(精神障害・記憶喪失・幼馴染み・片想い……。つまり、高校二年の夏休みの数時間だけ精神に異常を来した鴻上が、片想いだった幼馴染みの母を犯した。そこに悪意がなかったとしたら……。じゃ、私の怒りは誰に向ければいいの?)
ピーンと張っていた背筋から芯が外れたみたいになって、私は座り込んだ。
「お父さん、この人に謝って!」
突然、菜緒子が怒鳴った。
「えっ?」
「たとえ記憶がなかったとしても、この人のお母さんにひどいことをしたのは事実でしょ? この人に謝って!」
「……」
鴻上は
「……ミライさん、どうか、この僕を許してください。いや、僕は責められて当然です。どんな仕打ちでも受けます。だから、娘の菜緒子だけは助けてやってください。お願いします」
鴻上が深く頭を下げた。
「ミライさん、私からも謝ります。どうか、お父さんを許してやってください」
涙を溜めた菜緒子が頭を下げた。
「……どうして、私の母と同じ名前なんですか? お嬢さん」
「えっ? ……こいつの母親が聞いたら怒るかもしれないけど、好きだったあなたのお母さんの名前を貰いました」
鴻上はそう言って、照れるように目を伏せた。
その言葉を聞けた私はホッとして、自然と笑みが溢れた。すると、菜緒子が私を見て、ニコッとした。私の中に、ゆったりと流れる川のせせらぎを感じた。
母は、鴻上だと知っていながら、親にも明かさなかった。なぜか? 母もまた、幼馴染みで仲良しだった鴻上に好意を持っていたに違いない。いずれにせよ、私の体には、鴻上の血が流れている。複雑な気持ちだが、心の紙に明確に書かれていた“憎しみ”という活字は、ほとんど見えないまでに薄れていた。
あれから時々、菜緒子と会っている。お茶をしたり、映画を観たり。――妹の菜緒子と。
終
濁った血 紫 李鳥 @shiritori
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