第2話

▼茅場町 三軒長屋


【前のお話から三日後のことであります。梅雨寒の一日の終わり、粗末な長屋の外ではしとしとと雨が降り続いています。外はもうすっかり暗くなっていて、雨に濡れる紫陽花も、物悲しく鳴く孤蛙も、闇に溶けて見えません。雨音と雨漏りだけが、か細い蝋燭に薄ぼんやりと照らされる室内を訪れるのみ。その室内にはこれもまた不景気な顔をした二人】


志麻    「本当によかったの?あなた」

力之介   「ああ、いい」

志麻    「でも、売れてよかったわね」

力之介   「ああ。古めかしい文具を購う好事家は今の御代にもいるのだろう」

志麻    「いい人の手元に渡ればいいわね」

力之介   「ああ、そうだ。きっと、そうさ。もう我が家の手を離れたんだ。きっぱりと」

志麻    「ええ」

力之介   「父上も喜んでくれるであろう」

志麻    「ええ」


【前のお話で、会津に帰るために質屋へ行くと言っておりました。どうやら売れたようで、めでたく?折悪しく?二人は東京から会津までの路銀を得たのでしょうか】


志麻    「でも」

力之介   「ん?」

志麻    「ごめんなさい。嫌なことを言うつもりはなかったのだけれど」

力之介   「足りず、か」

志麻    「・・・・」

力之介   「致し方あるまい。お前には路銀に足りるようだったら売ってこいと言いつけたものの」

志麻    「ごめんなさい。旅のお金もわからず。世間知らずで」

力之介   「よい。仔細を見積もれというのがどだい無理な話だ」

志麻    「お父様にもなんて言ったらいいか」

力之介   「もうよいと言っている。もうやめよ。やむにやまれず、涙を呑んで路銀に換えようとしたその心、それだけでよいではないか」

志麻    「・・・・(咽び泣く)」


【どうやら会津まで帰るのには足りなかったようで、良いのか悪いのか。その時、延々と続く雨音のなか、戸の外がばたばたと何やら騒がしくなります。次いで長屋の戸を粗暴にたたく音】


親方の奥さん「ちょいと、ちょいと。力之介さんたち、いらっしゃるかい?夜分遅くにごめんなさいね。ちょいと」

志麻    「あら、この声は?」

力之介   「奥さんだな」

志麻    「あっ、はい、お待ちを。ただいま」

力之介   「出れるか?」

志麻    「あらやだ、泣いていたから顔が」

力之介   「お引き取り願うか?」

志麻    「うぅうん、もう大丈夫。はあい、どうぞ」

親方の奥さん「ごめんなさい。いや、ひどい雨ね。びっしょり。なに、急にごめんなさいね。近くを通ったものだから。寄らせてもらおうと思って」

志麻    「ありがとうございます。おひとりで?」

親方の奥さん「え、ええ」

力之介   「こんな夜分に珍しい。おひとりとは、いろいろと物騒な世相ですんで」

親方の奥さん「え、ええ。まぁ、いいじゃない。気になって、あ、いや、ちょうど別の用もね、ほら」

志麻    「そうですか。ちゃんとしたものも出せませんが」

親方の奥さん「あら、いいのよ。何もいいの、本当に」

力之介   「それではこちらの気が済みません。志麻、何がある?」

志麻    「たしか良いお茶があったわ。でも、夜にお茶も、ねぇ?」


【突然の来客にふためく若い夫婦。苦しまぎれにお茶でもてなそうとしますが、良いお茶だったのは昔の話で、今じゃお世辞にも良いとは言えない代物。しかも時はもう寝入ろうとする夜の頃合いのこと。来訪する奥さんのほうもどこかぎこちなく。ここから夜の江戸茅場町に、会津磐梯山が近づいたり離れたり】


親方の奥さん「もういいって言うのに。ああ、まあ、ありがとう」

力之介   「雨の滴もようやく消えて。さて、何のご用でしたか?」

親方の奥さん「いや、近くを寄ったからね」

力之介   「お気遣いありがとうございます。ただ、こんな夜半にこんなところまでですか?」

志麻    「奥様のお知り合いでもこのあたりに?」

親方の奥さん「はは。お見通しかどうかはわからないけれども、あまり誤魔化さないほうがおふたりのためかもね」

志麻    「はて?」

親方の奥さん「いや、こんなに遅くなったのは、主人が酔っ払って寝込んでしまうのを待っていたからなの」

志麻    「はて?」

力之介   「志麻、よい」

親方の奥さん「あれよ、あれ。まぁ、なんというか。昨日ね、御徒町のお栄さんと会ってね、偶然」

志麻    「おばあ様にはいつも良くしてもらってます」

親方の奥さん「おばあさんも、ほら、噂が好きでしょう。それで、聞いちゃったのよ」

志麻    「何をですか?」

力之介   「志麻」

親方の奥さん「それが、あなたたち二人が、会津に帰るのに大事な家伝のお宝まで売って、それでも足りないってこと」

力之介   「そんなことを。いや、お恥ずかしい限りで」

親方の奥さん「ごめんなさいね。その場はただの噂だったのだけれど、ついこないだのステーションでのこともあるから。あたしね、いてもたってもいられなくてね」

力之介   「誠にありがとうございます。お気持ちだけでも」

志麻    「嬉しい限りです」

親方の奥さん「そんな、心配とお礼だけじゃ何も解決しないじゃない。そこで、よ」

力之介   「えっ?」

親方の奥さん「え、じゃないよ。水臭い。いてもたっていられなくなって。これを、はい」


【と言葉も手短に、気前よく若夫婦の前に差し出す札と銭。暗がりでもざっと見るに大金であるのが明らかな札と銭。あまりにも急で、絶句する若夫婦の二人。故郷で臥せる親への孝行を一日でも早くと思う心に、のどから手が出るほど欲しいところ、ぐっとこらえて】


力之介   「いやいや、これは。これは受け取ることはできません」

志麻    「え、ええ。だめです」

親方の奥さん「いいの、いいのよ。それに、これはただあたしの心だから」

力之介   「親方もなんて言うか」

親方の奥さん「やめてちょうだいな。あの人はいいの。何度も言うけど、あたしの心だから。二人には、会津へ行ってもらいたいのよ。お父様にその顔を見せてあげて」

志麻    「奥様」

親方の奥さん「強く強く押さないと、どうせ受け取らないでしょう?ね、この通り。何も気兼ねすることはないから、どうぞ受け取ってくださいまし」

力之介   「そんな、そんな。でも、なぜ?」

親方の奥さん「ふふ。自身の話になってしまうけれどね、あたしも明治の最初の頃、東京へ北国からやって来た身でね」

力之介   「そうだったのですか」

親方の奥さん「主人とはひょんなことで上野で会ったのも、もう十数年も前のお話ね。ちょうどそのすぐあと、北国に残してきた身内が病に倒れてしまって」

志麻    「え・・・・」

親方の奥さん「ちょうど、あなたたちと同じよ。でも、あたしは戻れなかった。そこが違うところ」

志麻    「なんてこと・・・・」

力之介   「そんなことがあったのですか」

親方の奥さん「あたしのことなんかよかったのに。でも、少しは分かってくれた?せめて親身にならせてちょうだい。あなたたちには、あんな悲しい目は見てほしくないのよ」

力之介   「なんと申し上げたらよいか。親切なお気遣いを、誠に、誠にありがとうございまする」

志麻    「本当にありがとうございます」

親方の奥さん「どうか行ってくれるわよね?」

力之介   「こうなっては、ええ、もちろんのこと」

志麻    「ありがとうございます」

親方の奥さん「よかった、よかった。こんな夜分に雨に濡れながら来たかいがあったというものだわ」


【親切な目的を達した奥さんは、それからお茶も一口だけで済ませ、挨拶も早々にまた雨夜の路傍へ消えてゆきます】


力之介   「行って来いと言ってくれる親方もそうだし、今はこうして奥さんにも。助けられてばかりだな」

志麻    「ええ、深く感謝しないとですね」

力之介   「ああ、ありがたい」

志麻    「親方様に内緒で、こんな夜にもかかわらず、ねえ」

力之介   「これはまた戻ったら、いっそう奮迅して働かないと、恩が返せん」

志麻    「ふふ、頑張りましょう」

力之介   「ああ。そうだ、質の金にこれを足したものを、ちゃんとしまっておいてくれ」

志麻    「はい。たいそうな額になりましたもの。きちんと」


【旅にかかるお金は、期せずして若夫婦の手元にそろいましたようで。力之介と志麻は梅雨寒にも冷めない人の情に後押され、ふるさとへと近づきつつあります。応接の片づけと、もちろん大事なお金の保管をしたのち、二人は眠りに就きます】


【二人も町も、みな寝静まった夜の夜中。ここ三軒長屋の軒下に、怪しい人影が何やら物音は静かに息遣いは荒く近づいて参ります。それこそこんな時間にはもう客も誰ひとりいないはず。その黒い人影の携える風呂敷のこんもりとしているさま。人目を忍んで辺り一帯を流す泥棒です。長屋周辺で物盗りが出るという注意喚起は、このところ町内の回覧板でも触れられておりました。ちょうどここで、人影が軒下の桶に袖をあてて、その転がる音がカランコロン。このやかましい音に、眠っていた力之介が眠りから覚めます】


力之介   「ん?おう?志麻?なんだ?おい、誰だ、外にいやがるのは」

白浪    「ちっ、逃げるか」


【もとより狭い長屋ですから、偉丈夫の力之介が起き掛けに駆け寄ってもすぐに外に出れる具合で。泥棒とすると、逃げる間もなく家人と鉢合わせ。力之介の手が肩をむんずと掴んで離しません】


力之介   「待て。何奴だ?」

白浪    「ええい」

力之介   「おっと、あぶねぇ。この、歯向かう気か?」

白浪    「放せば何もせん」

力之介   「放さなかったら、何かするってか。押し入り強盗の分際で、たいそうなことを言いやがる」

白浪    「放せ」


【掴む力之介も普段からの力自慢。相手が光り物を持っていないとわかると、力任せの戦いに打って出ます。両者、押したり引いたりの力比べ。少ししたところで、力之介が泥棒を力いっぱい投げ飛ばします。なんとその方向は、長屋の外ではなく奥のほうだったのはとんだアクシデントで。これには疲れ切って眠る志麻も飛び起きます】


志麻    「きゃぁ。なに、なに、力之介さん。きゃぁ」

力之介   「す、すまん、志麻。こいつ、泥棒だ」

志麻    「なんですって。この、えいや」


【投げ飛ばされて、変に床に叩きつけられた泥棒へ、寝起きながらも志麻は近くの物を次々に投げつけます。茶碗、お盆、包丁まで投げつける。昔習った薙刀が功を奏したことはないでしょうが、すべて命中で泥棒はもう起き上がれません】


力之介   「志麻、志麻、もういい。危ない」

志麻    「だめよ、とっちめてやらなきゃ」

力之介   「いい、いい。度を過ぎるとこれもいけない。包丁なんて当たったのが柄だからよかったものを」


【普段見せない荒ぶりの妻を、這う這うの体で抑える夫。泥棒はというともう動きません。長屋には、しばらく忘れられていた梅雨寒と雨音がよみがえります】


力之介   「け、警察だ、警察」

志麻    「はい、ただいま。こ、交番でいいのかしら?」

力之介   「交番となると遠いな。まずはお隣に助けを乞おう」


【志麻が息荒く、外へ駆けて行こうと一応の身づくろいをして傘に手をのばしたその時、にわかに嘔吐く志麻】


力之介   「どうした?具合でも悪いのか?」

志麻    「あ、いや、実は」

力之介   「なんだ?」

志麻    「あ、いや、あのう」

力之介   「なんだい、どっか悪いところがあるなら、早く言ってみな」

志麻    「実は、このところ急に吐き気が来ることが多くて。どうやらあれみたい」

力之介   「あれ?流行りの風邪か?」

志麻    「もう、違うわよ。どうやら、お子が」

力之介   「なに、本当か?お、おおお」

志麻    「うふふ。でも、こんな時期に、どうしましょう?帰らないといけないのに」

力之介   「帰る?いや、何も今すぐに帰らなくてもよかろう」

志麻    「大丈夫かしら?」

力之介   「大丈夫だ。老い先短い親より生まれ来る子だ。そうだ、あのお金だって、この子のために用立てたほうが、なあ?」

志麻    「うれしい。ではちょっと行ってきますね、すぐ戻ってきますので」

力之介   「行く?その体で遠く会津までは無理だろう」

志麻    「いやいや、何言ってるの。交番じゃない」

力之介   「そうだったか。ん、いや、交番は遠いから、まずお隣にと。いやいや、違うな、泥棒は当分俺が組み敷いておく。お隣より交番より先に、産婆のところへ行って来い」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【落語台本】會津(あいづ) 紀瀬川 沙 @Kisegawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ