【落語台本】會津(あいづ)

紀瀬川 沙

第1話

▼新橋駅 駅舎近くの植込み


【皆さんは、1888年の磐梯山噴火という災害を聞いたことはありますでしょうか。それは、1888年、明治21年7月15日に起きた噴火災害です。なになに、Wikipediaによりますと、その噴火にともない山体崩壊が発生し、磐梯山の峰の一つであった小磐梯は全面的に崩壊し消滅した。その後、北麓に岩なだれが起こり三つの集落が埋没した。それは水分を含み泥流と化して、長瀬川流域に大きな被害を出した。また東麓を襲った爆風、土石流によっても大きな被害が出た。この噴火によって477名が死亡したとされる。この物語はそんな年の入梅の頃、新橋ステーション前の曇天重苦しい植込みから始まります】


親方    「おい、もたもたすんな。早くしろ。次の車が来たらまたごったがえしちまうんだから」

力之介   「はい、親方」

先輩    「合点」

親方    「まったく、旅装のやつらにキョロキョロしながら下を通られちゃ、仕事になりゃしねぇ。梅雨の雨とおんなじ鬱陶しさだ」

先輩    「そうですね。おう、力之介、あれ取ってくれい」

力之介   「ちょいとお待ちを。はい」

先輩    「ああ、ああ、この型のはさみじゃねぇよ。剪定したいんじゃねぇんだからよ」

力之介   「すみません。これでいいですか?」

先輩    「そうそう」

親方    「おうい、力之介、刈り込みばさみをよこせ」

力之介   「はい、ただいま」

親方    「力之介、向こうの小さい橿の右側が膨らんでるだろ。見えるか?」

力之介   「ええ、親方」

親方    「ああいう仕事をしてちゃ一人前にはほど遠い。お前ならどうできる?」

力之介   「あたしに切らせてくれるんですかい?」

先輩    「はは、お前にはまだ早いよ」

親方    「さだめし、あの橿はお前がやったんだろう?」

先輩    「う、そうがす。この木が終わったら直そうかと」

親方    「いい、いい。ちょうどいい機会だから、力之介だ。え、どうだ?」

力之介   「あたしなら、あの橿は・・・」

先輩    「お前にできるかどうだかね。わかるか?わからんだろう」

親方    「うるさい。黙ってろ。さあ、どうだ?」

力之介   「膨らんだ右を削いでもいいですが、そうすると、秋に後ろのもみじの邪魔をしそうで。新橋の駅から見た時に、ですね」

親方    「ほう、で?」

力之介   「思い切って右だけでなく左も削いで、今よりもう一回り小さく据えてみようかと思います」

先輩    「ふ~ん、どうだかどうだか」

親方    「ほう。そのやり方はいいかもしれん。肝心の、そのこころは?」

力之介   「いや、何も大それたことはありゃしません。去年の秋、志麻とここを通った時に見たもみじの真っ赤なさまを覚えていただけで。もう一度考えれば、それよりももっと近くにこないだまで満開だった桜もありました」

親方    「うむ、そうだ。今この目の前の時だけじゃねぇ、植木ってのは」


【二の句を言いかけた、梯子の上の親方に、突然下から甲高い声が届きます】


親方の奥さん「なぁにを禅の坊さんみたいなこと言ってんだね」

親方    「ちっ、男がまじめに語ってる時に。もう戻ってきたのか」

親方の奥さん「呉服屋さんが次も頼むよ、って言ってたよ」

親方    「絣は?」

親方の奥さん「あったよ。いいから、そんなことしてるあいだに、今に品川のほうから車がきちまうよ」


【親方の奥さんが言うように、ステーションから少し離れた植込みにも耳をつんざくような鉄と鉄のぶつかる音が聞こえてきます。さらに、それにまじって聞こえる汽笛と風に乗ってくる黒煙】


親方    「あ~あ、来た来た」

先輩    「どうしますか?」

親方の奥さん「車の客が降りてきたって何を邪魔になるのさ?続けられるよ」

親方    「違うんだよ、切るだけなら、いくらでもできらあ」

力之介   「・・・・考えながらが難しいのです」

親方    「そう、りき、そうだ、そう。考えながら切るのが大事なんだ」

先輩    「ごもっともです。言ってんのは力之介じゃなく、親方だぞ」

親方    「降りてくる客も半刻もすれば散らばってくだろ。それまで休憩だ、休憩」

親方の奥さん「あっ、そうかい。梯子から降りてくるのはいいが、こっちの陸の仕事が増えるよ」

親方    「・・・・。行くぞ、力之介」

力之介   「どこへですか?」

親方    「あの小さい橿のところだ」


【これまでの会話を聞いていると、どうやら親方と力之介は植木屋の仕事についてまだまだ話し足りないようで。ちょうどそこへ、駅舎からくだんの乗客の波が吐き出されてきます。親方と力之介が足早に行こうとしたその時、今度は駅とは逆の、有楽町の方角から一人の娘が駆け寄って参ります】


志麻    「よかった、力之介さん、ここにいらっしゃったのね。探した。もう蒸し暑くなっちゃって大変」

親方の奥さん「あら、志麻ちゃん。どうしたの?そんなに急いで。これで汗でもふいて」

力之介   「どうした?仕事をしてるところなのはわかるだろう」

志麻    「いや、ごめんなさい。でも、それくらい急ぎのことで」

力之介   「なんだい?」

志麻    「親方様と奥様、今だいじょうぶですか?」

親方の奥さん「もちろんよ」

志麻    「ありがとうございます。実は、力之介さん、今日、うちに電報が届いて。会津のお父様の調子が悪いのですって」

力之介   「なに、ここ数年、前より丈夫じゃないとは聞いていたが、悪いってどれくらい?」

志麻    「文面では何か病ということではなく、危急じゃないようだけど、一日の半分は臥せているそう」

親方の奥さん「あらあら、心配だねぇ」

親方    「お前、里に兄弟縁者は?」

力之介   「兄弟はみな亡くなっていて。親戚は多いですけれども、みな年寄りばかりで」

親方の奥さん「それは大変ねぇ」

親方    「おやじさんは、たしか、会津藩の」

力之介   「ええ、もとは会津藩の中士の家でした。家は磐梯山の近くです」

親方    「苦労なされたんだろう」

親方の奥さん「会津は大変なこともあったから。もう一昔前の話さね」

力之介   「ご一新からはもう何もない暮らしで。あたしが生まれた頃にはもう素寒貧といったありさま。それでも、あたしを育てあげてくれました」

親方の奥さん「仕事もいいが、田舎に帰って顔見せてあげなよ。いいだろう?お前さん」

親方    「ああ、もちろんだ。植木なんてのは命あっての物種だ」

力之介   「ありがとうございます。志麻、電報には至急帰ってこいとまではなかったんだろう?」

志麻    「ええ、はい、それは」

親方    「馬鹿野郎め。向こうも慮りで、そんなこと言えないんだろうよ。金なら大丈夫だぞ」

力之介   「いえ、帰るならあたしのほうで工面します」

親方の奥さん「志麻ちゃんも、力之介さんに付いて行ってあげなよ。新婚なんだから、顔を見せて、せっかくだから旅もしてさ。志麻ちゃんも同郷だったろう?ふるさとのお山も懐かしいさね?」

志麻    「え、ええ。でも、力之介さん」

力之介   「何はともあれ、今日ここの仕事が終わったらすぐ帰る。長屋で電報見ながら話そう、志麻」

親方    「おいおい、何を悠長な。俺の話を聞いてなかったのか。お前の今日の仕事はもう終わりだ。今すぐ帰りな」

力之介   「え、でも」

親方    「でもじゃねぇ。どうせこの人ごみじゃ駄目だ。見ろ、もう植木にゴミやら手折れやら。仕事になりゃしねぇから。あとは俺とこいつでやる」

先輩    「合点。力之介、親方もこう言ってくれてんだ、行けよ」

力之介   「ありがとうございます」

志麻    「ありがとうございます」

親方の奥さん「あたしも一緒に戻って、力になれれば」

親方    「おう、頼む」

力之介   「ご迷惑お掛けして申し訳ありません」

親方    「こちとら自分からやってんだから、礼なんざいい」


▼茅場町 三軒長屋


【夕方にこの三軒長屋の真ん中に帰ってきた力之介と志麻の夫婦。それからすぐに電報を読んだうえ、善後策を相談し始めます。が、それから今まで、もうすでに夜もとっぷりと暮れちまったっていうのに、結論は出ていない様子。会津は磐梯へ帰るべきか帰らざるべきか、それが問題なのでしょう】


志麻    「どうしましょう?」

力之介   「・・・・」

志麻    「お父様の具合はだいたい分かったでしょう?お見舞いに行ってあげたいでしょう?」

力之介   「もう何年も前の、心の臓の発作のときと似ているなぁ」

志麻    「ええ。だいぶ弱ってしまっているようで。お顔を見せてあげる?」

力之介   「仕事のほうは、親方もああ言ってくれてる。旅費の工面のほうはどうだ?」

志麻    「今の余裕のままでは全然」

力之介   「物を売るしかないか?」

志麻    「ええ。着物でも帯でも」

力之介   「いや、これはすべて俺の家のことだから。俺の物から探す」

志麻    「何をおっしゃってるんです。もう結婚したんですから、私も同じ。それに、私も会津に帰りたくなりました。そうだ、この櫛もそろそろ飽きてしまったし」

力之介   「本当にありがたい。ただ、売るとしたらあれだろうな」


【そうつぶやくと、力之介は長屋の小さい狭い棚を開けて、古めかしい矢立を取り出だします。矢立とは、筆と墨を武士が携帯するために用いた用具のこと。昔からいい素材、いい技法で作られた物が多く、昨今は骨董の価値の高まりが評判であります】


志麻    「それは大事な」

力之介   「ああ。昔、父上が京で会津中将様から下賜された物だ。黒谷の陣で身辺警護奉っていた頃の物だそうだ」

志麻    「でも、いいのかしら?」

力之介   「何かあった時のためと譲り受けて会津から持ってきて今に至る。元をたどれば父上の名誉の品。いま、この理由で金に換えても、どこにも誰にも負い目はあるまい」

志麻    「ご立派な」

力之介   「申し訳ないが、明日の朝にでも、これを持って質へ行ってきてくれるか?」

志麻    「はい」

力之介   「値は分からぬ。たとい足元を見られようとも、会津までの旅費に足りていればよい。足りていなければ、面目ないがまた相談しよう」

志麻    「ええ」

力之介   「それで万事整えば、親方と奥さんに言って、この梅雨の晴れ間を見てすぐにでも」

志麻    「私たちのふるさと会津へゆきましょう」

力之介   「それじゃあ電報を送っといてくれ。父上の様子がわからないから、お隣の商家・清水屋にでも」

志麻    「はい」


【明治の東京の真ん中で、貧しいなかでも親孝行せんとする若く仲睦まじい夫婦。令和の今の御代にも泣かせるじゃありませんか。ただ、今の我々は既に、この1888年、明治21年7月に会津磐梯山の近くへというのは具合が悪いと分かります。さて、この清貧な二人の将来はいかに。次回のお話にて】

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