丁字路と空地と

常陸乃ひかる

帰宅と匂い

 時に、【匂い】と聞いてなにを連想するだろうか?

 例えば、ひとつのお利口りこうさんな回答を置いておくとすると、

【季節を一気に吹き飛ばし、ある一コマを想起させる妄信的な記憶】

 というのが小ぶりで、どこかペダンチックかもしれない。

 俺の鼻には、悪性腫瘍のようにこびりついた匂いがある。何年経っても忘却しきれず、ふと閉眼すると、そこはかとなく渦巻いてくるあの香りは、装いを変えた風向きよりも、住宅街の金木犀キンモクセイよりも、意中の女子の冬服よりも快楽を覚える。

 あの日の俺は匂いに恋をし、匂いに絶望した。哀れなる思春期の一ページである。


   * * *


 高校二年の候だった。俺は、クラスメイトと四方山話よもやまばなしに精を出してしまい、いつしか最終下校時間を告げる鐘を聞いていた。いそいそと帰宅準備をやっていると、見回りに来た教諭に叱られてしまったが、友人とは下校途中の交差点で、「またあした」なんて笑って別れた。

 そこからはひとりぼっちでの帰宅である。けれども、縛りがなくなった自由な下校時間でもあった。残り二十分ほどの帰り道、コンビニに寄ったり、ノラネコの散歩をストーキングしたりして、俺はダラダラと歩を進めていた。

 さて。自宅まであと五分という距離で、普段は通らない住宅街に足を向けてみることにした。なにかに着眼したわけではなく、どこまでも好奇心だった。あっちの通りはどんな光景で、どんなルートで自宅に帰れるのだろうか、なんて具合。要するに、不束ふつつかな子供が寄り道をする精神とまったく一緒だったのだ。


 自宅から三キロメートルも離れていないのに、ちょっとばかり見知らぬ道に入るだけで、異国に来た気分にさえなる。現に、左右に見えるのはどこもかしこも狭い間口と、見知らぬ表札と、昭和から変わらない電柱と――。俺は佐野さんとか、杉山さんとか、様々な夕飯の匂いの合間を縫って、家を目指した。

「えーと……あっちの道から来たから、この空地あきちを右に曲がれば家の方向か」

 すぐ先。正面から見て、カタカナの『ト』の字をした丁字路ていじろがあり、俺はそこを右に折れて、何歩か前に進んだ。ふと背後へ目をやると、空地の狭い間口の奥――その敷地では、蓬々ほうほうとした雑草が力強く天を向いていた。長い間、ここの土地は売れずに残っているのだろう。

 そう思うと、一画だけポツンと取り残された土地は別世界のようで、快い秋風しゅうふうく時間なのに、空地だけがおどろおどろしいダークトーンに見え、『売地』の立札が彼岸ひがん此岸しがんの狭間とさえ感じた。

 このままあの空地に目を向けていれば、魂ごと身体が吸いこまれるに違いない。現代の怨霊が棲んでいるのだ! ところで怨霊とは、全体どういうナリをしているのだろう? フィクションでよくある『どうも、幽霊です』と律義に名乗り、かつ服も着ており、割と話も通じる人型の知的生物なのだろうか。

 なんとも滑稽こっけいだ。


 そう思った途端である。

 俺の杞憂やら慄然りつぜんやらを吹き飛ばしたのは、一言で『良い香り』だったのだ。鼻をくすぐる柑橘かんきつの香水だ。

 それはもう、至近距離で嗅いだことのない――やや正確に言えば、クラスメイトの女子たちでは醸し得ない、『大人の女性』の香りで――例えば、少し茶色の混じった黒髪を肩甲骨くらいまで伸ばして、身長は一六〇前半で、フェミニンなファッションをしたスレンダーなOLがつけていそうな香りだったのだ。

 恰好はきっと、白いインナーにグレーのカーディガンを合わせ、膝より一センチばかり短いベージュのスカート、およびナチュラルストッキングを穿いていて、薄桃色のローヒールを鳴らしているのだ。『出来る女』のオーラによって男を寄せつけない立居があるのに、ふと見せる二十代のあどけなさに隙が垣間見える。

 薄唇に乗ったピンクベージュのリップ、また両手には、肌の色と大差ないナチュラル系のネイルを施しており、社内でギリギリのお洒落を楽しむ女性らしさと、あざとさを感じさせる。

 そんな女性が近くに住んでいて、生活しているのだ!

「まあ、すべて俺の想像だけど……」

 もはや妄想に恋してしまいそうだった。思春期真っただ中の、お盛んBOYとしては、苦悶に等しい正常たる行動なのだが。

 その晩。俺は布団に入るなり、『あの匂い』を芸能人とか歌手とか、アニメキャラとか――思いつく適度な女性と照らし合わせて、叶わぬ恋と知りながら、妄想を繰り返した。The男子高校生。


 翌朝。いつもより五分ばっかり家を早く出たのは、あの匂いを感じたかったから。

 普段とは遠回りになる通学路を使用したのも、あの香りを感じたかったから。

 俺は例の空地に早足で到着し、丁字路の中心に立ち、昨日同様空地に振り返ってみるとどうだろう、想像どおり『あの匂い』がしたではないか。俺を妄想のオフィスへ誘った柑橘フレッシュ――それを二日も連続で嗅げるなんて、運命と言わざるを得ないのではないだろうか。俺はそれだけで幸せだった。二度三度と深呼吸し、爽やかな悦へと浸っていった。

 それから数分、見知らぬ女性の匂いを――他人には嗅がせたくない執着さえ描きながら強く取りこみ、去り際にまで背中で匂いを感じながら通学路を進んだ。今日は、あの匂いが鼻孔に棲みついたまま一日の授業に臨めそうである。

 まったく、誰がどこから醸しているのだろうか。例えば、あそこに家を建てようとしている資産家が土地を見に来て、その残り香が漂っていたとしたら? いや、それにしては残りすぎである。パルファムも仰天の持続時間だ。

 もし、万が一、それが俺の想像どおりのお姉さんで、ひょんなことからお近づきになれたら、もう――もう――!

「フフッ……」

 本日の終礼。クラスメイトは俺の顔を見て気味悪がっていたに違いない。それだけ公害をまき散らしていた自覚がある。


 その日の放課後。

 昨日、今朝――さて、三度目のわくわくタイムの到来である。俺は欲情を抑えきれず、友人とは教室で別れ、学校を飛び出すと、あの匂いがする丁字路へと駆けていった。ここまでトントン拍子だ。もしかすると、次は当人が『居る』かもしれない。

 が、この日の下校時は違った。丁字路には、たまに路肩に転がっている猫の死骸のような異臭が漂っていたのだ。昨日とは打って変わって、とんでもない臭いに変貌したものだ。おおよそ、非常識な輩が近くに生ゴミでも大量投棄したのだろう。

「はあ……ったく、困った輩が居るものだな……! はぁ、はぁ……おえっ」

 どこかの誰かが捨てた異臭のせいで、愛しき年上女性の匂いが嗅げなかったではないか。俺が振り返ると、決まって空地から爽やかな匂いがするというのに。

 全力ダッシュをしてきたせいか息が上がって、否応なしに臭気を取りこんでしまう、悲しい文科系の性。

 本日は期待した分だけ落胆が大きくて、帰宅してすぐ就寝の準備をしてしまった。あの異臭を忘れるために、今朝の香りを目一杯思い出しながら――モゾモゾ。


 丁字路という現実界から。

 狭い間口という境界線をまたいで。

 空地というサンクチュアリへ。


 さらに翌朝。通学路。

 今日こそは彼女の匂いを嗅ぐぞ! と息巻いて丁字路と空地へ向かった。が、先日とは異なり、『におい』がした道には人垣ができていた。加えて、丁字路の隅にはパトカーが数台止まっているではないか。地方公務員の紺色コスチュームも見える。

「ポリスメンが居る。事件かな……」

 近づくにつれて、なにが起きているのかが明らかになってゆく。

 例の空地の入口には黄色いテープが張られ、雑草で茂った奥にはブルーシートが窺えた。俺は登校の意志なんて捨て去り、付近の野次馬の会話に耳を傾けて状況の確認を急いだ。

「殺人現場なう☆ っと」「事件? 殺人?」「撲殺よ。おとといの夕方!」「遠目から写メ撮るか」「呪われっぞ」「ちょーくっせー吐きそう」「男女のもつれ?」「二十前半の女だと」「警察がOLって言ってたじょ」「メンヘラの自殺だろ」

 ――しばらくして、この周辺のアパートに住む、二十代前半の女性――OLの死体が、空地の奥から発見されたという情報を入手した。


 俺の体が、心が――見る見る冷や汗をかいていった。

「え? あっ……もしかして俺が嗅いでいたのは、その女性の……」

 俺が脳内で恋をしていた相手は実在した? そこにずっと居た?

 理解するにつれて戦き、咄嗟に体を背けてしまった。妄想なんてちゃちな、ごっこ遊びではなかったのだ。その女性は浮世から乖離し、

『誰か見つけて……』

 と言わんばかりに、『におい』を使って存在をアピールしていたというのである。


 つまり俺が匂いを感じた時点で、もう死亡していたということだ。二日目の朝はまだ死臭がせず、二日目の夕方くらいから本格的な腐敗が始まったという具合だ。

 そうして現在――振り返れば、俺が恋焦がれていた女性がある。確実にあるのだ、心も体も吸いこんでしまいそうな磁力をもって、呼んでいるのだ。

「やはり妄想じゃなかった! 俺が振り返るたび、そこに彼女は居たんだ! ずっと、じっとして――俺を待ち続けてたんだ! なんだ、なーんだ!」

 我知らず俺は、流動する全身の血液を感じ、熱くなった身体で高笑いした。野次馬から白眼を向けられてもなお、乱心を抑えられなかったのは、不思議と悲しさとか、恐怖を打ち消すための強がりとか、チープな感情操作のせいではなかった。

 願望成就、これに尽きた。


                                   了

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