2064

放睨風我

2064

私は人類最後の一人になってしまったらしい。


荒唐無稽な話だと思われるかも知れない。当然だ。私だって、ほんの数ヶ月前に誰かが同じことを言っているのを聞いたとしたら「あっ……ちょっと危ない人だ」と思って、そっと距離を取るだろう。穏やかな笑顔を浮かべながら、なるべく刺激しないようにスッ……と立ち去ることだろう。だから、私がそう思われるのも仕方ないことなのだ。


それでも事実は事実として、私は終わりの記録をここに残しておこうと思う。ここに至るすべてのものごとも、決して現実的とは言えないのだけど。



◆◆◆◆◆



はじめは小さな種だった。


毎日毎日新しい情報が現れては消えていく奔流の中で、ほんの小さな不思議を取り上げる記事として、人々の記憶にほんのちょっと腰掛けて、そのまま忘れ去られていく程度の出来事になるはずだった。


何か小さな植物の種らしきものが、雨に混じって降ってきたというのだ。


小指の爪ほどの、黒い黒い楕円形。宝石のように輝くそれは、ある時、世界のいくつかの地域で雨に混じってぱらぱらと降り注いだ。その硬い種子は運悪く落下の直撃を受けた人に軽い怪我をさせたこともあったけど、多くの場合、人々は雨に濡れててらてらと輝く黒い種子を地面に発見することになった。


それが種子だとわかったのは、地面に埋めてみた人間が少なからずいたからだろう。映えてくるのはどこにでもある雑草に見える葉っぱで、あまりのつまらなさに、植物としてよりも、空から降ってくるという希少価値を持つ種、として知られるようになっていった。



見つかった種子は、二千と飛んで六十四個。



植物学者は、それを生物史上どの植物とも似ていない新種だと断言した。


軍事評論家は、それをテロリストによる生物兵器だと警戒を促した。


芸術家は、それを奇跡の権限と捉えて数々のアートを生み出した。


気象学者は、それをファフロツキーズ現象の一種だと語った。


投機家は、それを貴重な宝石として高値で取引をした。



そして私――つまり平凡な女学生は、家の庭に降ってきたその種を前にして途方に暮れていた。


あれは確か夏の夕方で、豪雨がぱたりとやんだあとだった。リビングから庭を覗いたみっくんと私は、お父さんが手入れを欠かさない青々とした芝生の上に転がる黒い種を見つけたのだった。その頃には雨と一緒に天から降ってくる謎の種はメディアを賑わせていて、売れば小金持ちになれるとか、秘密結社が奪いに来るとか、何個集めると願いが叶うとか、いろんな噂が飛び交っていたものだ。


黒い種は雨に濡れてつやつやと輝き、リビングの窓越しに眺めながら、たしかにあれは宝石みたいだ、と私は考えていた。


「……どうしよう、あれ」


私の呟きに、みっくんは即答した。


「植えよう!」


みっくんというのは私の弟で、小学生である。小学生男子という生き物は、このように眼と耳から入ったものがオツムを経由せずにツルリンと口から滑り出してくる。昔のクラスメイトもそうだったし、あの天使のように可愛かった弟も気がつけばこうなってしまったのだ。


さらに付け加えるならば、小学生男子はどこまでも有言実行である。自身の行動を宣言したかと思うと、もう次の瞬間には裸足で庭に飛び出していた。タタタタタ、と駆けて種を拾って、みっくんはそれを高々と掲げた。


私は外履きを履いて、うっとりと種を眺めるみっくんに近寄った。掲げられている黒い種はよく見るとチョコンと赤い出っ張りがある。まるで何かのボタンのようだ。テレビやネットで見る種にはなかったように思う。これは何だろう?もしかすると、また違う新種なのかも。


「ねぇみっくん、ちょっと見せて」

「えー?うん……いいよ」


しぶしぶと手を差し出すみっくんから種を受け取り、そっと赤い突起に触れてみる。


「――痛ッ!」


瞬間、棘が刺さったような痛みが走り、すぐに手を引っ込める。指からは血が出ている。なにやってんの、とみっくんは私から種を奪い取る。


……いま、種の方から、刺してきたように見えた。


そのささやかな私の疑問は、みっくんの手によって庭の花壇の中に種と一緒に埋められてしまった。



◆◆◆◆◆



天から降ってくる種の騒動は、一ヶ月も続いただろうか。そろそろ世間がお祭り騒ぎに飽き、毎朝花壇を覗き込んで眼を輝かせていた小学生男子の好奇心もとっくに枯れ果てていた頃だ。


そのとき、私はソファに寝そべって携帯ゲームで遊んでいた。日曜日の午後。テレビにはワイドショーがだらだらと流れていて、そこではニュースキャスターが専門家と、何やら真剣な顔で討論していた。


私たちが見つけた種はまったく芽を出すことなく、土の下でシンと静まり返っていた。みっくんはつまらないと興味をなくして、私は、あの赤いボタンみたいなものは、種が傷んでいた証拠だったのかもと何となく考えていた。


ワイドショーの会話を聴くともなく聴いている。


「それでは、あの種には二種類あると」

「二種類といえばそのとおりですが、関係性としては女王蜂と働き蜂に近いものです。女王の役割を果たす種はおそらくひとつしか存在しませんが、未だ発見されていません。我々の研究によると、これまで確認されている種はすべて【働き蜂】だったのです」

「なるほど。しかし、どうして未だ見つかっていない【女王】があることがわかったのでしょう?」

「発芽した【働き蜂】の種は、すべて特定の信号をずっと待ち続けている【受信機】であることがわかったのです。あの天から落ちてきた種は、女王からの命令を待ち続ける兵士だったのです」

「女王の命令とは、いったいどういうものなのでしょう?何か特殊な、電波などでしょうか?」

「おそらく女王は――」


ソファから身を起こして庭に目を向けた私は、あの種を植えた場所からいつの間にか真っ赤な花が生えていることに気がついた。


「狩りの号令をかけるのです」



◆◆◆◆◆



その花は、キイキイと甲高い音で喋った。耳を切り裂くような声が叫んでいたのは、天まで届くほどに叫んでいたのは、激しく深い人類への呪詛であるように思われた。


世界各地に植えられ芽を出していた【種】は、女王からの信号を受信した。既存の生物体系とは全く異なるその植物は、信号に従って毒素を生成した。それはまたたく間に世界に広がった。空気中に拡散し、水に運ばれ、雨として街に降り注ぎ、人間に死をもたらした。その毒素は人間以外の動植物には無害なものであった。


父と母は職場で亡くなったと知らされた。みっくんは花をやっつけると言って庭に出て、そのまま倒れて動かなくなった。


私は増え続ける死者と混乱する世界を、部屋の中からメディアを通じて見ていた。人々は外に出るなと叫び、水を飲むなと叫び、何か奇跡を求めては、救いを求めるものから死んでいった。私の赤い突起に刺された指は花のキイキイいう声にあわせてズキズキと痛んだ。


庭の花は、昼も夜もなく何日も何日もキイキイと鳴き続けていた。窓越しであってもまるで思考を塗りつぶされるようなその音波は、私の正気を奪い去るには十分だった。


「……」


今朝、その音が止んだ。鼓膜の奥にはずっと、花の鳴く音がこびりついていた。

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