03_いてはならないものがいる

 奈緒は結局の所、まだ具合が良くならなかった。夢でああもうなされてしまうのだから仕方がない。通学路、投稿時だってアレがうつろな視線を向けてくるのだから仕方がない。


 終わるはずだったのに、終わらないつきまとい。奈緒が校門をくぐる瞬間もその目は逃していなかった。


 ところがどうしてだろう、帰路につく時はそこで待ち構えてはいないのである。同じ部活のクラスメートとともに学校を出た奈緒はビール腹の姿がないことを確かめるが、しかし顔を緩めることをしない。奈緒は知っているからだ。


 気がついたら、背後にいる。理由なんて分からなかった。理屈なんて分からなかった。いっそのことずっと振り返ったまま帰ってやろうかと考えたこともあったが、奇人じみた発想を実行に移す程度の勇気はなかった。


「ねえ、話聞いている? すごくぼうっとしているけれど」


 クラスメートから言葉が急に降り掛かってきて、奈緒ははじめて自身に話しかけられていることを知った。


「ごめん、よく聞いてなかった」


「ここ最近ずっと具合悪いよね。そのせい? もしかして今具合が悪くなっているとか」


「今は大丈夫だから、それで、何?」


 体調不良を都合よく使って話を聞けば、クラスメートの問いかけは巷で囁かれている噂についてだった。いや、噂と言うか、見聞きしたことの又聞きのような話。


「奈緒だってやられたんでしょ? あのストーカー。最近急に見なくなったけれど、あれ、事故にあったみたい」


「へえ、そうなんだ」


「それがひどい事故らしくて、無残な姿だったらしいよ。あれはもう助からないだろうって。自業自得よね」


 知っている。


 奈緒は心の中に湧き上がる感情を押し殺してうなずいてみせる。


「これからあんな目に合わないで済むんだからせいせいするね――奈緒?」


 奈緒は頷いた姿勢のまま立ち尽くしていた。頭を動かしたのがいけなかったのかもしれなかった。奈緒はその瞬間、視界の隅に捉えたのだ。何かを。形こそはっきりしなかったものの、それが放つ気味の悪さに総毛だった。


 動けない。


 立っている場所のみが安全地帯で、周囲は地雷原。はびこるのは地雷よりもタチが悪かった。奈緒は自身とそれの世界へ引きずりこまれそうになってゆく。


 肩を掴む生暖かい感触。


「本当に大丈夫?」


 クラスメートの言葉に世界が霧散した。奈緒の鼻の先に友人がくっついてしまいそうなほど接近して顔を覗き込んでいる。世界が友人で一杯になった。ほんのちょっぴり制汗剤の匂いがした。


「うん、大丈夫」


「やっぱりさあ、ファミレスに行くのは今度にしない? ほら、具合が悪いんでしょ? 見るからにだもの」


「そんなに具合が悪く見える?」


「だって顔が青いよ。人間ってこんな色になるんだってくらい」


 顔を話した友人はカバンに手を突っ込んだ。取り出すのは手鏡、持ち手のなくて丸いものだった。友人が鏡を向けたけれども、奈緒にはよく分からなかった。鏡で見慣れているせいなのか、友人が言うほど色が悪いと感じられなかったのだ。


 体がふらつく。急に片脚の力が抜けたようになって転びそうになった。奈緒は倒れまいとしたところ、鏡に顔が向いてしまった。意図は一切なかった。体が自然にそうなったとしか。


 鏡の中の世界。円の中にビール腹の上半身が映った。ビール腹はまっすぐ正面に向かって指を指してきていた。うつろに思えていた目は、にごりながらもはっきりと奈緒に向けられているようだった。


 奈緒はとっさに目を背ける。急に激しくなる鼓動。


 奈緒は自らの手のひらを見下ろした。

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それでもなお 衣谷一 @ITANIhajime

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