02_夢一夜
こんな夢を見た。
奈緒は立っていた。一切の脈絡のない場面の始まりだ。あたりは黒い。暗い、と言わないのは自身の手や体をその視界に収めることができるからだった。床も壁も天井も真っ黒なのか、あるいは空間そのものが真っ黒なのか。まさか、奈緒そのものが光っている?
奈緒にとってみれば取るに足らないことだった。疑問にさえ思わなかった。何となくこの状況が、当たり前のように感じられた。
さて、急に黒い場所に放り出されたわけだが、奈緒の心に浮かぶのは『行かなくては』という思いだけだった。どこへ行く? どっちがどっち? 目で確かめても目印になるものが分からないにもかかわらず。鼻をすすってみても特徴的な匂いがないにもかかわらず。
奈緒は迷うことなく踵を返した。
真逆の方向へ体を向けても、やはりそこにあるのは黒だった。足を踏み出す度に聞こえる靴底の音は発せられるやいなやいずこへ吸収されてしまった。音が跳ね返ってくる気配はない。歩いた音はどこかへ去ってしまう。だからこそ、自らの放った音が印象的に聞こえるのである。
自らが放ったのとは異なる音もまた、奈緒の耳にははっきりと聞こえる。
音がたちまち消えてしまうがため、音の一つ一つが鋭さを持って耳に飛びかかってくる。奈緒の足から飛んでくる音と、わずかに遅れて奈緒を捕まえんとするそれは背後から聞こえてきた。奈緒が発するものに比べたら幾分か小さかった。
必ず遅れてやってくるそれは奈緒が立ち止まると慌ててなりを潜める。その場に直立して目を閉じれば無音の世界に沈んでゆく。独りでに足音が動き始める様子は見られなかった。
一歩だけ進む。
遅れて足音が弾けた。
背中の毛穴という毛穴がぶわあっと広がって、汗がにじみ出てくるのを感じた。奈緒は音だけで理解してしまった。頭の中の想像では背後の空間がワイヤーフレームで組み立てられてゆく。地面を表す格子が広がってゆく。数メートル離れたところに突如せり上がるものがあった。曲線で形作られるそれは人の姿。ひどく腹を出っ張らせた姿をしていた。
見える。見える。見える。振り返れば白いワイヤーフレームが消えて黒い床が露わになった。振り返れば振り返るほど白い線は空間へ溶けてゆく。
ワイヤーフレームと視界との境目が人型の造形に近づいてゆく。
振り返られなければ良いものを。奈緒はもはや自らの行動をコントロールできなかった。
見える。見える。見える。ワイヤーフレームの上に通学路で見たビール腹の色が重なってゆく。黒い空間に灰色のスーツは異様に眩しく見えた。所々についた赤い涙型の模様の鮮やかさ。通学路で見る醜い姿よりもはっきりと捉えることができてしまう。
真っ赤な顔は梅干しさながらだった。何となくアルコール臭がしているような気がした。シワの深い顔の中にある小さな穴は目だろうか。うつろに見えていたそれは黒い空間の中では漆黒に見えて、人間が持つものには思えなかった。
奈緒はそれと正対する。ただ正面にそれを捉えているだけなのに嫌な汗が頬を伝った。逃げてしまえば良いものを、彼女は逃げられなかった。脚がすっかりすくんでしまった。手に握りこぶしを作れば、力みすぎて皮膚が白みを帯びてしまっていた。
逃げ場のない恐怖。それと奈緒の二人だけ。助けを呼べる状況ではなかった。
それがかすかに動いた。腕を伸ばしたか、一歩すり足で迫ってきたか。どのような動きをしたかなんて奈緒にとってはどうでも良いことだった。それが関心を抱いたように感じられるだけで十分すぎた。
奈緒の何かが切れた。自身の腕を胸に引き寄せたかと思えば、それに向かって腕を押し出した。まるでリミッターが外れたかのような素早い攻撃である。
当然、それには届かない。
しかしここは現実の世界ではないわけで。当然であることが当然とならないことはままあるわけで、奈緒の攻撃はまさにこのイレギュラーだった。
ビール腹は誰かに押されたようによろけた。よたよたと重たそうな体を揺らして、終いには倒れてしまったのである。かと思えば甲高い音と共に男の姿が消えてしまうのだ。
鼻につくのはゴムの焼けた匂い。
恐怖の存在は消えて、代わりに残ったのは赤い水たまりだった。
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