最終話 ネタバレするときのマナー

「あなたは麻薬取締官マトリではありませんね?」


 開口一番、フィデリオからそう言われ、サキュバスは腰を抜かしそうになった。


 やられた、と思った。


 奥まったこの裏路地には街灯がなかった。それは路地というより、建物と建物の間の隙間に設けられた私道といった趣だった。


 軽い言葉でここへ誘われた際には、フィデリオがまとった十字架クロスを意識しなくてよいとサキュバスは喜んだが、実際は違った。


 十字を見ないよう薄目でいたのがまずかった。明かりがないということは人目にもつかないということ。つかみどころのない闇のなか、細い通路の奥を右に曲がったサキュバスの視界に飛び込んできたのは、煤けたコンクリートの壁だった。


 行き止まりであった。


 サイレンが鳴り響き、警官でごった返す裏通りからさらに分岐したこの私道は、十メートルほど進んだところで右に折れ曲がり、その先は袋小路になっていた。


 逃げ場はなかった。


 壁の左隅には朽ちかけたゴミ箱が、右隅には古ぼけた室外機が設置されていた。それだけだった。折れ曲がっているぶん、ここは完全な■角になっていて、悪魔を始末するにはもってこいかと思われた。


「違いますよね?」


 今一度、フィデリオが問う。


「あ」


 蚊の鳴くような小さな悲鳴を上げ、サキュバスの両膝から力が抜けた。嘘みたいに指先が震え倒れそうになって、体に巻き付けたタオルがずり落ちそうになったとき、フィデリオが肩に手を回してくる。


「おっと」


 サキュバスは自分でも異様なくらいにすくみあがった。


「大丈夫ですか?」


 フィデリオの顔が接近する。ぐっと距離が狭まると、サキュバスは微笑む彼の息からミントの香りを嗅ぎ取った。それは清涼感よりも荒涼感を漂わせていた。


 ここまで近づくと、暗くても祭服やストラに刻印された十字がはっきり見えた。十字架クロスなんてただの記号だ。そう考えようとしても、彼が右手に持った銀の十字架クロスにいやでも注意を奪われてしまう。


「それに……」

 そんなサキュバスの心情を読み取ったかのように、フィデリオは大きなクロスを彼女の鼻先に近づける。

「エクソシストですらないんでしょう?」


 へへっ、と薄く開いたサキュバスの口から息が漏れた。彼女としては苦笑にとどめたつもりであったが、実際には余裕なく惨めに顔を歪ませただけであった。


 しかも十字架クロス越しにがっつり目があってしまっている。


 こうなるとまぶたを閉じるわけにもいかず、サキュバスはいよいよ追い詰められた。


 ヤバいじゃん!


 こめかみから汗の雫が流れ落ちたのをきっかけに、まつげの長いフィデリオの目つきが鋭くなった気がして、サキュバスは白いタオルを強く握りしめた。はらわたをかき乱されるかのようだった。


 不敵な表情を浮かべたまま、フィデリオは続ける。


「あなたは悪魔だ」


「な」


「あなたは悪魔だ。そうですね?」


「ひっ……」


 全身が凍りついたかのように冷たくなった。地面がぱっくり割れて、そこに開いた穴に落ちていくかのようだった。ただでさえ暗い視野がより暗く狭くなる。肩に回されたフィデリオの腕が焼けるように熱く、その骨ばった指に力が入る。支えるためにというより、悪魔を決して逃がすまいとするその力にサキュバスは、


 ■るしかない。そう思った。


 おそらくフィデリオには最初からバレていた。この男は、ボロを出した私を教え子が始末できるか試すため、素知らぬ顔をしていたのだ。人間に擬態した悪魔を狩れるかどうかテストするため、私を利用したのだ。


 なかなか警察が来なかったのだって、こいつが裏で手を引いていたからに違いない。小狡いエクソシストのことだ。きっとそうだ。間違いない。


 など考えて、サキュバスは音がなるほど歯を食いしばり、止まらぬ震えを抑え込んだ。恐怖を憎悪へと転化させ、憎しみをエネルギーに気合をこめて、彼女は十字架クロス越しの碧い瞳から、フィデリオの顔自体へとフォーカスをずらすことに成功した。


 ■れそうだ、と思った。


 こうやってよく見るとフィデリオはかなりのイケメンだった。


 白い肌にパッチリした二重まぶた、高くすっきりとした鼻立ちにウェーブしたブロンドの髪。顎には同じくブロンドの無精髭こそ生えているが、中性的な顔立ちにはむしろワイルドで、マサトラなどよりサキュバスのタイプだった。


 この通路に人が来る気配はやはりない。


 だがエクソシストが悪魔を始末しやすいということは、悪魔もまたエクソシストを始末しやすいということ。一気に吸収しきってやる、とサキュバスがフィデリオのむっちりした唇にキスしようとしたとき、その唇がふっと開いた。


「ですが、あなたを退治するつもりはありません」


「えっ?」


 思わぬ発言にサキュバスはフリーズした。フィデリオはおもむろにクロスをゴミ箱の方へと放り投げると、こう続けた。


「そのかわり、ひとつ私の頼みを聞いてほしいのです」


 バコン、という音を立てゴミ箱の側面で跳ね返った十字架クロスが室外機近くの闇に消えた。


 沈黙が訪れた。


 パトカーのサイレンよりも壊れかけの室外機がたてるカタカタという単調な音が大きく聞こえた。サキュバスには自分の肩が汗ばんでいるのか、肩に回されたフィデリオの腕が汗ばんでいるのかよくわからなかった。彼女は生唾を飲み下すこともできず、唇を不自然に突き出したまま、身体をこわばらせ反撃の機会をうかがっていた。


 数秒たって、そんな沈黙を肯定ととらえたフィデリオが言った。


「実は、私もあなたと同類なんです」


 そのとき突然、サキュバスの目の前に、スペードの形をした黒い物体が現れた。


「え?」


 なぜ尻尾が? と思ってサキュバスは目を見開いた。しかしそれは自分のものと先端の形が微妙に違った。そもそも彼女は尻尾など出していなかった。


「私も悪魔なんです」


 フィデリオがそう繰り返すと、そのスペードが小さく二回お辞儀した。スペードの下からはフィデリオの背中側へと回り込むように一本の黒い線が伸びていた。


 サキュバスがフィデリオへと視線を戻すと、彼は彼女の肩に回した手を緩め、白い歯を見せ笑った。


「私だってエクソシストのふりをしている悪魔アンダーカバーなんですよ」


「はい?」


「私はエクソシストたちを内部から崩壊させるため、魔王の命を受け彼らの高校に潜入しています。ですが……」


「ですが?」


「ですが正直、私ひとりでは埒が明きません。敵は強く、状況は複雑だ。なので同じ悪魔であるあなたの力を借りたいのです」


「って?」


「あなたにも日本エクソシスト高校へ教師として潜入していただきたい」


「はぁっ!?」

 ミントの香りとともに繰り出された衝撃の発言に、サキュバスは面食らった。

「いやそんなの無理だって!」


 この男は頭がおかしいのかと思った。サキュバスは彼の脇をすり抜け、逃げようとした。


 されど、フィデリオのほうがはるかに速い。


 ちょうど角を曲がったところで回り込まれる。


「あなたの演技力は素晴らしい」

 通路を塞ぐように両手を広げ、フィデリオは続ける。

「あなたなら、エクソシストたちだって必ず堕落させられる」


 そのシルエットからもはや尻尾は生えていなかった。彼の後ろには、警官たちの、人間たちの行き交う現場があった。サイレンの赤を逆光に両手を広げた彼の全身が黒い十字に見えて、彼女は一瞬ひるんだが、絞り出すように答えた。


「無理だって」


「よく考えろ」

 フィデリオはここぞと語気を強め、もはや取り繕おうとすらしない。

「もっとエクソシストどもを食らいたいと思わないのか?」


「は?」


「マサトラの精気を吸ったんだろ?」


「う……」


「図星みたいだな」


 たしかに、彼の言うとおりだった。


 結局、マサトラは食いきれなかった。穴間も捕まって、男栽培プラントはおろか、婚活マナーに来る男たちすら食えなくなってしまっていた。今の彼女は明日の食事もおぼつかない普段の状況に戻っていた。


 路地の入り口から、かすかにマサトラの声が聞こえた気がして、サキュバスはやきもきする。


 緊張の連続で、彼女の腹はまたしても減り始めていた。


 そりゃ食えるものならマサトラを食いたい。かといって、穴間と同じくらいうさんくさいフィデリオにいいように利用されるのも嫌だ。


 サキュバスは言う。「やっぱ無理」

 フィデリオが答える。「ならここで■ね」


「ならっ……」


 とサキュバスは捨て身の覚悟で勢いよく羽根を伸ばした。タオルが剥がれ地面に落ちて、フィデリオから漂うオーラが変わって、ふと気づいた。


 エクソシストたちに正体がバレて困るのはフィデリオだって同じじゃないか?


 彼は私の弱みを握っていると思ってる、が、それはまた、私だって彼の弱みを握っているといえるのではないか?


 フィデリオの表情は逆光でうまく読み取れない。


 だけどその後ろには警官たちがいて、エクソシストたちがいる。悪魔の姿で戦ったり、逃げ出したりしたら、それこそまだ正体を知られていない奴の思うツボじゃないのか?


 落ち着け。


 サキュバスは小さく首を振って自問する。


 私は搾取する側になるんだろう? マサトラをしゃぶり尽くすんだろう?


 フィデリオを逆に利用してやったらいいじゃないか。高校だがなんだが知らないが、こいつをハメて利用して、自分だけがうまい汁を吸うやり方がきっとある。だって私はマナー講師に、エクソシストにだってなりきったんだ。十字架クロスだって耐えれたじゃん。だから教師だって大丈夫だし、今は適当にやり過ごして、あとで逃げたっていいんだ。そりゃ魔王が気にはなるけど、魔王がなんだ。あんなやつ知るか。


 そう考えると、少し呼吸が楽になってきた。サキュバスは慎重に羽根を折りたたむと、皮膚の下にしまい込んだ。


「気が変わった」


 彼女はフィデリオではなく自分に言い聞かせるようにそう言うと、胸を張って彼を見返し、腹をくくった。


「エクソシスト高校とやらに行ってやろうじゃん」


 彼女のむき出しの両胸が、ぷるん、と揺れた。


  〈了〉

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アンダーカバー・エクソシスト 与田 八百 @yota800

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