第19話 服を着るときのマナー
オフィス街の裏通りでサイレンの赤い光が瞬いていた。
マサトラは警官からもらったタオルを首からかけて、レナコとともに壁際に座り込んでいた。
警官たちがよってたかって、穴間をパトカーの中に押し込めた。穴間は完膚なきまでに打ちひしがれて、なすがままといった様子だった。白いタオルを体にぐるりと巻きつけ座り込むレナコの前を、大きなハエがしばらくホバリングして消えていく。すぐそばで蛸壺の残骸が腐り始めているようだった。
マサトラはそんな光景をぼんやりと眺めていた。
彼らから少し離れて、フィデリオとサキュバスがふたり並んで立っていた。彼らはなにやら談笑しているようだったが、周囲の喧騒にかき消され、その内容はよく聞き取れなかった。
「いやー、まさか
「ははっ、よく言われるんですー」
「いやはやいやはや、本当にすごいですねー」
「あはは、そんなことないですってー」
たぶんそんなことを話しているのだろう、とマサトラは思った。
しかし突然、白い歯を見せ笑っていたフィデリオが急に真顔になった。彼はサキュバスになにやら耳打ちすると、ふたり連れ立って路地裏の奥へと消えていく。
なんだろう?
気になってマサトラもそちらに行こうと立ち上がる。だが、フィデリオから彼とレナコを監視するよう言われている警官が睨みをきかしてきたので、しぶしぶまた腰を下ろした。
マサトラの隣で同じくフィデリオたちを眺めていたレナコが言った。
「さっきの先生、すごかったよね」
「まぁな」
「潜入捜査ってことは、先生が教えてくれたマナーって全部嘘だったのかな?」
「全部、ってこともねーんじゃないの……たぶん」
「そっか……」
そこでふたりの会話は途絶えた。
マサトラは両手を地面について、壁に背を預けた。路面の墨はもうほとんど流れていたが、アスファルトはまだねとねとと湿っていて不快だった。
彼が手をタオルで拭うと、またしてもハエがたかってきた。穴間を乗せたパトカーが発車して、新たなサイレンが夜の街にこだました。たくさんの警官たちが忙しく路地を行き来していた。
鑑識官がしきりに写真を撮っていて、そのフラッシュの瞬きにマサトラはレナコの
なんとも言えない気分だった。
今はタオルを巻いているが、その下にはあの肌とおっぱいがあるのだった。レナコのおっぱいはサキュバスのそれよりも小ぶりであったが、それゆえマサトラには現実的であった。
“キスよりもっとすごいこと”を期待していた彼の性欲はもう爆発寸前だった。
しかもミスターマナーの正体が発覚した以上、“キスよりもっとすごいこと”が行われないことは明白で、その行き場所は宙ぶらりんとなっていた。
むくむくと昂ぶってきた感情に、パンツ一丁じゃまずい、とマサトラは微妙な膝立ちになって、さりげなく腰元へタオルを落とす。それをこそこそ前にずらしながら彼は言った。
「さっきはありがとな。その……助けてくれて」
彼は頬が紅潮しているのを悟られないよう、レナコから顔を背けていた。が、レナコもまたマサトラを直視できなかったため、彼の恥は知られることはなかった。
マサトラ同様、もじもじしながらレナコが答える。
「わ、私こそありがとう。私こそマサトラに助けられたのに……」
再び、ふたりの言葉は失われた。
サキュバスとフィデリオが路地裏の奥、夜の闇のなかでなにやら話し込んでいた。倒れたままの看板の電飾が明滅していた。さらなるパトカーが通りへとやってきて、それが停まったすぐそばにいくつもハンコが落ちていた。テープが剥がれバラバラになったハンコは真っ黒に染まり、ほとんどアスファルトに同化していた。
マサトラはそれらを見ているようで、見てはいなかった。
彼の頭はもはやレナコのことでいっぱいだった。平手打ちの痛み、ぶかぶかのドレス、蛸壺相手の下手な挑発、いま横で震えている小さな体、そしてなによりキスの感触。考えないでおこうと思えば思うほど、考えるのを止められなかった。
俺、レナコとキスしたんだよな。
今度こそフルに■■してしまい、ヤバいと思ったマサトラは跳ね上がり、歩きながら言った。
「てかさ、服着ねぇ?」
「バ、バカ。あ、あんたが着ないから、マナーとして着られないんだけど?」
「お、俺だってお前が着ないからっ!」
そう言って、マサトラは道端でぐちゃっと丸まっているスラックスをひっつかむ。
スラックスは真っ黒に染まりびしょ濡れだった。マサトラは無理くりそれを穿こうとして、バランスを崩しつんのめった。控えていた警官が何事かとこちらに近づいてきた。
「ふふっ」
そんな彼を見てレナコは小さく笑った。
オフィス街の裏通りでサイレンの赤い光が瞬いていた。
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