第18話 悪魔が教えるビジネスマナー④(相手の立場にたつのがマナーの基本)

 サキュバスは石化したように動けなくなった。


 知らぬうちに目を閉じ顔を伏せていたが、彼女の脳はすでにそれに取り憑かれていた。


 穴間が取り出したのは、複数のハンコを並べ重ねテープで張り合わせただけの即席の十字架クロスであったが、それだけで十分だった。


 サキュバスが恐れているのは十字架クロスというモノそれ自体ではない。


 彼女が恐れているのは信仰だ。『十字架クロスは悪魔を払う』という概念そのものに彼女は恐怖していた。


 交差点、電線、フェンスの格子、鉄骨の枠組み、タイルの目地、ボタン穴や靴紐の交わり、漢字にアルファベットと、ありとあらゆるところに十字が隠れているにもかかわらず、悪魔が世にはびこっているのには理由がある。


 それは十字を十字架クロスだと意識しているかどうか、ということ。


 悪魔はそれらに十字架クロスを見出した瞬間に目を焼かれる。


 サキュバスがそれに聖性さえ感じてしまえば、たとえ棒を交差させただけであっても、穴間が神を信じてなどいなくても、効果は抜群であった。


 脂汗を浮かべ顔面蒼白なサキュバスを見下し、嘲るように穴間は続けた。


「な、これが証拠エビデンスだ」


 沈黙が来た。


 手足が冷たくなっていく感覚に飲まれ、サキュバスは立ち尽くした。口の中が異様に乾き、喉の奥が痛んだ。サイレンが鳴り続けている。路肩でなにかの燃え殻がくすぶっている。ひた、ひた、と墨の垂れる音が夜の街に消えていく。


 実際には数秒であったが、サキュバスにとっては永遠に思えるような時間のあと、サイレンの音がふいに止まった。


 耐えきれなくなった彼女は、うなだれたままわずかにまぶたを開いた。眼球だけをそっと動かすと、


「…………」すぐそばでマサトラがいぶかるように彼女を見ていた。

「…………」少し離れてレナコが引きつった顔で彼女を見ていた。


「ほらこの怯えっぷり。どう見ても悪魔じゃないか!」正面から穴間の声がした。


 なんとかして、サキュバスは顔を上げようと首に力をこめる。


 十字架クロスだと意識すれば、アウト。だが逆にいえば、気にしなければ、たとえ荘厳な教会のそれであっても、法皇の持つそれであっても、別に大丈夫なはずなのだ。


 なのに、どうしてもできなかった。


 むしろ頭の重さに引きずられるかのごとく、サキュバスはいっそう背を屈め、路面の墨だまりを眺めてしまう。


 黒い水面がゆらゆらと揺れている。その生暖かさは冷たくなった足を蝕んで、なおさら厳しくなった気配がちくちくと皮膚を刺していた。


 どうしても動けなかった。


 水面を行き交ういくつもの波紋を眺めるうち、やり過ぎなキス、エクソシストへの私怨に満ちたマナーの数々、雑な言葉遣い、謎のドラッグ、レナコに渡したドレス、などといった事柄がサキュバスの頭のなかを通り過ぎていく。マサトラたちもまた、彼女の言動を振り返り、疑っているに違いなかった。


 突如めまいがして、膝が震え始める。力を入れて踏ん張らないと、まともに立っているのもままならなくなる。


「おい君たち」

 穴間の声が追い打ちをかける。

「エクソシストだったらさっさとこいつを始末してくれ。金なら払う」


 答えはなく、再び沈黙が来る。


 静かだった。


 マサトラもレナコも怖いくらいに押し黙っていた。水音も騒音も、もうなにも聞こえなかった。サキュバスの心臓はこれでもかと胸の裏側を叩いていたが、その音すらも聞こえなかった。ただ焦げ臭さと、磯臭い墨の臭いだけがそこにあった。


 もう悪魔の姿になってやろうか。


 ふと暗い考えが頭をよぎった。


 サキュバスは悩んだ。


 よくよく考えれば、マサトラもレナコも連戦で疲れきっている。


 十字架クロスさえ見なけりゃ行けるんじゃないか。羽根を出して、後ろ向きに空を飛ぶ。いまさら本当の姿を見られたからってなんだっていうんだ。もうそれしかやりようないじゃん。


 そう思った彼女が下唇を噛み締め、拳を握ったときだった。


 マサトラがタンクトップの襟首に手をかけて頭上へと引っ張り上げた。

 その綺麗に割れた腹筋へと、本能がサキュバスに両目を向けさせると、彼は脱いだタンクトップを無造作に放り投げた。


「へ?」


 サキュバスが声を出すと、今度はレナコも背中に手を回し、するり、とドレスが地面に滑り落ちた。


「おいなにやってんだお前ら!?」


 驚いたのは穴間も同じだった。彼は馬鹿みたいに両眉を上げて、エクソシストたちの間で目を泳がせ言った。


「なんで脱いでんだ? わけわかんねーことしてないでさっさと悪魔を■せ!」


 彼の声にはあからさまな非難がこもっていたが、マサトラは構わずベルトを外し、ずり落ちたスラックスをスニーカーごと脱ぎ捨て蹴り飛ばす。


 穴間と同じくボクサーパンツ姿になって、彼は言う。 

「そっちが裸だから合わせてやろうって思っただけッスよ」


 すっかり真っ黒に染まった下着姿のレナコも付け加える。

「相手の立場にたつのはマナーの基本ですからね」


「は? 意味わかんねーよ!」

 穴間は叫んだ。

「なに考えてんだお前ら、頭おかしいのか!?」


 顔を真赤にして彼は続けた。しかしエクソシストたちからの反論はなく、かえって顔つきが険しくなったことに気づいて、いそいそと言葉を継いだ。


「いや待て。まぁ待て。まぁよく考えたらたしかに俺も裸だったわ。って、裸なのには理由があって、それはさっきそいつに脱がされたわけ。だから俺は裸なわけ。それに服も盗られたから、着るもんがなくて、それが問題イシューなわけで、早急エイサップ解決策ソリューション見つけないとヤバいじゃん。だから――」


「さてはお前……」

 穴間の言葉を遮りマサトラが身構えた。

「悪魔だな?」 


「は、なんで俺が悪魔なんだよ?」


「だって、うだうだうるせーし。わけわかんねー横文字喋ってるし」


「たしかに」

 レナコも声のトーンを落として言った。

「言葉遣いはかなり怪しげですね」


 え?


 まさかのやりとりにサキュバスは、顔を上げてマサトラとレナコに目を向けた。


 汗と墨に濡れた彼らの顔は彼女への信頼に満ちていた。その瞳は自信に輝いていた。


「いやちょっと待てよおい」


 面食らった様子の穴間に、レナコが問う。


「あなたはミスターマナーを悪魔に仕立てあげ、排除せんとたくらむ悪魔ですね?」


「は、そんなのおかしいだろ? 証拠エビデンスあんのかよそれ!?」


「だからわけわかんねーこと言ってんじゃねー!!」


「いやだから待てっ!!」


 マサトラが飛び出し、穴間が一歩退く。


「待て、待ってくれ。そもそも論として、その女が十字架クロスにビビってんのがおかしいだろ!」


 いよいよ切羽詰まった彼は十字架クロスを前に突き出し、サキュバスを指差しわめき散らす。


「な、ほら事実ファクト見ろ事実ファクト! 俺かそいつ、どっちが悪魔か明らかクリアーだろ!」


 マサトラたちの視線が再度サキュバスに戻ったが、彼女はもはや怖くなかった。その理由は、ふたりにここまで信頼されていた、という思いからだけではなかった。


 彼女の目はマサトラの裸体に釘付けだった。


 さっきまで隠されていた引き締まった太ももやふくらはぎ、薄い色の乳首に腹斜筋のライン。そして赤いボクサーパンツのふっくらとした盛り上がり。


 汗と粘液と墨に濡れたそれらに、意識せずよだれが垂れていた。こんな美味しそうな獲物を見逃すだなんてとてもできなかった。


 サキュバスは前を向き、十字架クロスから目をそらさず言った。


「私は悪魔ではありません! エクソシストです」


 こんなの別に怖くない。こんなのはただのハンコだ。


「私はただ、下着の中に十字架クロスを隠すという冒涜にめまいがして、思わず顔を背けてしまっただけなのです」


 サキュバスが一歩前に踏み出すと、墨の上にひときわ大きな波紋が生まれた。それは穴間のところまでじわじわと広がって、ぴちゃりと飛沫を跳ね上げた。


「おい近寄るな!」


 穴間が怒鳴り、サキュバスはもう一歩踏み出した足を水面スレスレで止める。


「エ、エクソシストだからなんだってんだ? お前が怪しいことに変わりないだろ!」


 歯茎を剥き出しにして吐き散らす穴間に、たしかに、とサキュバスは思う。


 言ってみたはいいが、これからどうする? どうやってこの修羅場を切り抜ける?


 マサトラとレナコが射るような目を向けてきて、サキュバスはハンコの十字架クロスに飲まれそうになる。だが、ここが踏ん張りどころだと我慢して、考える。


 穴間が叫んだ。

「俺こそがミスターマナーだ!」


 もはやマナーなど構わず彼は叫んだ。そんな彼を見てサキュバスは、「相手の立場にたつのがマナーの基本」というレナコの言葉を思い出した。


 足下で墨が揺れた。


「そうですね」

 サキュバスは鼻から大きく息を吸い答えた。

「私はミスターマナーではありません。その点については謝罪します」


「ほらな。な、ほら見ろ、こいつは詐欺師だ。俺を騙そうとした悪魔だ」


「あなたを監禁していたことも謝ります」


 サキュバスのまさかの告白にマサトラとレナコが目を丸くする。


「スーツもお返ししましょう」


 サキュバスはシャツのボタンを外しながら言った。汗を吸って重くなった袖から両腕を引き抜くと、蒸れから解放された皮膚の細胞が興奮し産毛が逆立った。


 ブラを付けていないせいもあるだろう。一糸まとわぬ彼女の上半身に一同は唖然となる。


「は? なんだお前!? 何してる? 何する気だ!?」


 わめく穴間に構わず、彼女は靴を脱いでベルトも外し、ボチャ、ボチャと黒い水たまりに放り投げていく。


 もちろん、スラックスだって脱ぎ捨てた。


 あっという間に、彼女もまたパンツ――と呼んでいい代物なのかはわからないが――姿になった。


「ははっ」


 穴間の乾いた笑いが路地に響いた。


 十字架クロス片手の彼は、墨でみるみる黒ずんでいくシャツをひっつかんだ。 


「な、俺こそがミスターマナーだろ?」


 アタッシュケースを脇に置いて、シャツに袖を通しながら彼はひとり喋り続ける。


「見ろよアレ、あんな紐みたいなの、どっからどう見てもマナー違反ギルティじゃねーか!」


 エクソシストたちはサキュバスを凝視したままなにも答えない。


 穴間だけが声を上げ続ける。


「おいコラこの犯罪者。この■■■悪魔めが! さっさと捌きを受けろ!」


 しかしサキュバスは微笑みを崩さなかった。


 彼女はもし自分が穴間の立場にたったとして、一番困ること、それだけを頭に浮かべ、穴間を見据えて切り出した。


「いや私は犯罪者でもありません。麻薬取締官マトリです」


「は?」


「あなたが主催するマナー講座において、悪魔による麻薬拡散の疑いがあり、エクソシストでもある私は潜入捜査を命じられていたのです」


「う、嘘だろ?」


「嘘ではありません。証拠はそのアタッシュケースです」


「あ?」


「その中身を確認させてください」


「おい! やめろっ、やめろ近づくな!」


 穴間は慌ててアタッシュケースをひっつかんだ。そのまま、それを両手でかかえ後ずさる。


「違う!」


 彼の手元から十字架クロスが滑り落ち、墨に沈んで見えなくなった。


「これは麻薬ドラッグなんかじゃない!」


「私は麻薬ドラッグとまでは言ってませんけど?」


「そ、そんなのは言葉の綾だ。誘導尋問だ!」


「そう言うなら、その中身を見せてください。麻薬ドラッグじゃないなら別にいいでしょう?」


「黙れ黙れ黙れ! おい来んな近づくな! お前らもだ。俺に近づくな!」


 マサトラたちにも迫られると、穴間は青筋立てて怒鳴り散らした。彼は震える右手を背中に回すと、パンツの腰元に引っ掛けていたのであろう小さなピストルを取り出した。


 その銃口がサキュバスを向き、


「■してやるっ!!」

 穴間がそう言う前から銃声が轟いていた。


 一同が言葉を失った瞬間、ボトリ、と穴間の手からピストルが滑り落ちた。十字架クロスと違って、音を立ててそれがバウンドすると、


「そこまでだ!」


 すぐ近くの道角から、拳銃を持った数人の警官が飛び出してくる。


 穴間は発砲してはいなかった。


 撃ったのは突入してきた警官のうちのひとりで、彼が撃った銃弾が穴間の拳銃を直撃していた。


「うわぁぁぁっっ!」


 反動で手の骨が折れたのだろう。激痛に膝から崩れ落ちる穴間へと警官たちが■到する。


「お前を■人未遂の現行犯で逮捕する!」


「あ、うわっ、うあぁぁっっ!?」


 パシャンッ!


 路上に激しい飛沫が跳ねた。


 背を向け逃げ出そうとした穴間を、警官たちがラグビーのタックルよろしくアスファルトへと押さえつける。


 はずみでアタッシュケースが投げ出された。それはビルの壁にぶつかって、中身を盛大にぶちまけた。


「こ、これは!?」


 黒い水面に散らばる白い小袋に、警官たちがいきり立つ。


「おいお前っ、これはなんだ!?」


「いや、違うんですっ!」

 なかば墨に溺れながら、穴間が必■に弁解する。

「こ、これはただのパウダー。しょ、焼香の練習用の教材でっ――」


「詳しくは署で聞かせてもらおう」


「そんなぁ」


「逮捕だ逮捕!」


 穴間の両手に手錠がかけられたとき、警官たちが飛び出してきたのと同じ角から、フィデリオがのっそりと現れた。


「先生!」

 レナコの表情がパッと明るくなった。


 フィデリオは彼女に軽い目配せを送ると、白熱する警官たちに言った。


「彼は悪魔に変身するかも知れません。気をつけて」

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