金木犀




 近くに存在しないはずの香りが鼻腔をくすぐった。

 控えめな橙色で角の丸い星型。

 そんな色と形を持った小さなちいさな花々がいくら集まったところで想像できないほどの、

 あまい、とても、あまい芳香。

 それでいて、くどくはない。


 風に運ばれてきたのだろうが、それにしても、香りが強い。

 まるで、間近で嗅いでいるような心持ちである。

 ・・・・・・いや、これは。

 微かに震えた瞼をそっと押し上げた先には、金木犀があった。

 控えめな橙色とは逆に、葉の緑の、なんと濃ゆい事か。

 

 その葉の色に導かれるように完全に意識を覚醒させると、次に視界に入ったのは、その金木犀を抱えている少年の姿。


 

   

「・・・・・・・・・少年」

「少年じゃない。マラカ」


 教えたのにと、ぶすぐれる少年、マラカに、悪かったと謝る。

 しかし、マラカの機嫌が直らない。

 わかっているのだろう、心からの謝罪でない事を。


「悪かった。名前覚えるの苦手なんだよ」

「別に、いいけど、どーでも。あんたに覚えられようが忘れられようが。どーせ、」


 おもむろに口を閉じたマラカ。

 朝食を用意してくると言って、この場から立ち去った。


 マラカが居なくなった所為か。

 物理的にも、精神的にも。

 金木犀の香りが増した。

 それでも何故か、くどさを感じない。

 留まらないのだ。

 留まらず、流れて行く。


 この部屋を埋め尽くさんばかりの金木犀を以てしても。 

 

 床に落ちている一輪の金木犀を潰さないように掴んで、掌に乗せる。

 小指の爪ほどの大きさの、それは小さな花。

  


 匂いは記憶を引き戻すという。

 マラカは私が忘れている、記憶障害を持っていると思っているのだろう。

 一日経てば、前日の事は忘れていると。


 それは違う。


 忘れているのは、マラカの方だ。

 自身の名前と、この部屋で私を起こす事と、朝食を用意して私と一緒に取る事と、排便以外は。

 いや、あと一つを除いて、それ以外の時間は隣りの部屋で寝ている。

 起きる時間は朝であったり、昼であったり、夜であったり、とまちまちである。

 厄介なのは、会話の内容を変えてはならない事。

 一度変えてみた事があったが、その時、マラカはけたたましい悲鳴を上げて、その場で気絶した。

 

 この流れを変えたい。

 しかし、どうすれば変えられるのかがわからない。

 マラカがいつ目覚めるかわからないので、離れられず、外を調べられない。


 どうしたらいいか、わからない。




 真実という花言葉がある金木犀。

 

 真実を知りたいと、この部屋に自生する金木犀をわざわざ手折って、抱えて、話しかけるマラカに応えてほしい。












 守らなくちゃいけない、

 あの人を、

 名前を忘れてしまった、大切なあの人を。

 金木犀で覆って、

 あの人だけでも、


 自分は忘れていいだから、




 あの人が眠ると、自動的に目が覚める。

 この不可思議な身体のメカニズムに疑問を抱く余地はない。

 早く、外に生えている金木犀を手折って、運ぶのだ。

 運んで、あの部屋の床や壁、天井に触れさせれば、勝手に根付く。

 効果は一週間。


 運べる量は限られている。


 外に出れば、数少ない人間と、人間よりは遥かに多い金木犀。

 誰もが大切な人を守る為に、誰もが金木犀を手折っている。  

 

 誰もがこの甘く、しがらみのない匂いに縋っている。

 遠く、とおくにまで届かせるこの匂いに、助けを求めている。







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