金木犀の涙
厄介な体質になった、と、自覚したのは、つい最近の話。
早く治ってほしいと思う。
それが叶わないのなら、せめて、この時期限定にしてほしい。
金木犀の花が咲き、香りが町中に流れるこの時期だけに。
それならば、誤魔化せるから。
やばい、と思った時には、もう、香りが立つ。
頬を濡らし、道を作り、顎の先から落ちて行く。
込み上げてきて、留まらず、流れる涙。
それに金木犀の香りという厄介な機能が付随するようになってしまった。
経緯はわからない。
けれど、理由はなんとなく思い当たる。
失恋である。
しかも、初恋だった。
想いが届かないと知った時には、それはもう、豪快に泣いた。
友人の前でも、家族の前でも、泣いて、食べ散らかして、泣いて、泣きぬいた。
もう、これ以上涙が出ないように。
しかし、そんなに簡単に割り切れはしなかった。
姿を見れば、仄かに香りが立って、次いで静かに涙が流れる。
二人の姿を見れば、香りの強さが増して、次いで涙腺が決壊し、滂沱の涙が流れる。
そうそう姿を見せない相手でよかった。
これで毎日毎時間見るような相手だったら部屋に籠っていたかもしれない。
不可能だろうが。
「おじさん。泣いてるでしょ?」
「んー。ああ、あくびをしたから」
「あくびでそんなに涙が流れるの?」
「連続でしたらね」
「……ここ、金木犀の香りが強いね」
「ああ、お香を焚いているから」
「ふぅん。好きなんだ」
「ああ」
「香りを楽しめる季節を待てばいいのに」
「待てないから、」
不意打ちの襲撃に、涙を隠す時間はなかった。
念の為にと、部屋に居る際は金木犀のお香を焚いておいてよかった。
願い虚しく、涙から金木犀の香りがなくなる事はなく、金木犀の花が散り、季節は冬に入ってしまった。
存外、引きずる性格だと初めて知った。
姿を目にしても、漸く涙を流さなくなったのだが、ふとした瞬間に、涙が溢れ、流れる。
気の休まる自室での頻度が高いから、念の為に、お香を焚くようにしていたのだ。
「ふぅん」
突撃訪問した姉の子どもは、つかつかと自分に近づき、鼻と鼻がくっつくんじゃないかというくらいに距離を縮めた。
観念しなきゃだめかなと、思ってしまった。
「私が失恋した日。おじさんが泣いたって、おばあちゃんが言ってたって、お母さんから聞いた。それからも、めそめそ泣いてるって。私が原因で泣いてるの?」
流石は母だ。
ばれていたかと、頭の片隅で感心しながら、頭を振る。
そんな事はない。
全然関係ない事だ。
そう流暢に言葉も紡がなければならないのに、
悔しいという表現は、きっと、正しくはないだろう。
けれど、それでも、悔しい。
好きな人の為に、とても、とても頑張っている君を見て来たから。
相談された時は、ちょっと寂しくて、それ以上に、とても嬉しかった。
力になりたくて、力を入れ過ぎて呆れられもしたけど、どうしたって想いが通ってほしいと切に思ったんだ。
だから、あの人の隣りに、君が居ない事が、とてもとても、悔しかったんだ。
どう言葉を掛けていいか、不甲斐ないがわからず、会えずにいたんだ。
「おじさん。私ね、おじさんが泣いているところ、初めて見たけど。きっと、私だけなんだろうね。おじさんの目元にも、頬にも、手の甲にも、机にも、ベッドにも、金木犀の花がくっ付いてたり、落ちたりしてる」
触れないけどね。
そう言って、顔の距離を取って、机の上で、何かを摘まむ仕草を見せた。
自分には見えていない、金木犀の花なんだろう。
触れないと言ったくせに、中途半端に、指と指の間が空いている。
「私も。おじさんに協力してもらったんだから、失恋した事、言わなくちゃと思ったんだけど。あれだけ協力してもらって、だめだったって、なんか、言えなくて。お母さんからおじさんが泣いてるって聞いた時も、別の事で泣いてるんだろうって。でも、まだ泣いてるって聞いて。おじさん。すごく優しいから、私の事で、泣いてくれたりしちゃってるのかなー、とか?」
違う?
茶目っ気たっぷりにそう訊かれて、今度こそ、観念して、ぽつり、ぽつりと、話し始めた。
涙が流れる。
お香はもう燃え尽きている。
金木犀の香りは消えない。
「おじさん。ごめん。私が早く、失恋した事、言いに来ればよかった。苦しいって。悔しいって。悲しいって。おじさんに直に言えばよかった。そしたら、おじさんがここまで引きずる事はなかった。ごめん。でも、ありがとう。嬉しい。だから、おじさん。今から、一緒にやけ食いに付き合って。そこでまた、泣いて。この涙はおしまい。ね?」
こくり、頷いて。
実はピザ頼んどいた、あと、お菓子とか買ってきた。
そう告げては廊下に出る君の、小さく見えなくなってしまった背中を見て、涙を盛大に流した。
不思議と、もう、金木犀の香りはしなかった。
これ以降、決して、涙に金木犀の香りは付かなかった。
秋と冬を跨いだ、たった一度きりの不思議な体験の話はこれでおしまい。
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