珈琲は月の下で
増田朋美
珈琲は月の下で
今日は十五夜だ。もう秋真っ盛り、中秋と呼ばれる、立派な秋の季節である。でも
、まだ、今はエアコンが必要なくらい、暑い気候も続いている。それでは、秋とは
言えないじゃないかと思うけど、暦の上では一応は秋なのである。
そういう日は、何を着たらいいのか、みんなしきりと迷う。着物でも洋服でも、何だか、長そでや袷では暑いし、半そでや単衣では寒いと口にしていた。
そういうわけで、この時期は、半そでを着た人と、長そでを着た人が平気で見られるのだが、、、それでいいと思うのに、なぜか言いたい放題のひとというのは、少なからずいる。
「ねえ一寸、杉ちゃんいる?」
と、浜島咲が、製鉄所にやってきた。今日はなぜか、彼女は着物姿であり、それも、一寸似合わないと思われる、袷のエメラルドグリーンの色無地を着ている。
「はいよはいよ。どうしたの?何かあったの?」
と、四畳半にいた杉ちゃんは、急いで玄関先に出た。
「どうしたの、そんな恰好をして。」
「まあ、とにかく上がらせてもらうわね。ちょっと聞きたいことが在るのよ。」
と、咲は、大きなため息をつきながら、部屋の中に入った。
「もう、玄関先では、恥ずかしいことだから、一寸、教えて頂戴、ねえ杉ちゃん、色無地というものは、私くらいの年の人がきてはいけないのかしら?」
確かに、エメラルドグリーンの着物は、羽二重の生地であったが、小さな桐紋が、小紋のように、細かく全体的に、地柄で入れられていた。
「はあ、別に着てはいけないというわけじゃないけど?なんでそんなこと聞くんだ?」
と、杉ちゃんが答えると、
「そうじゃなくて、あたし今日、苑子さんと一緒に、お箏のコンサートに行ったのよ。そうしたらその時会場でね。こんな事を言われたの。若いくせに年寄りの着物を着るのか、生意気だ、若いくせにって。」
と咲はいやそうな顔をして答えた。
「はあ、その注意をしたのは、どんな方なんでしょうか?」
と杉ちゃんが言うと、
「中年のおばさんだったわよ。洋服を着ていたけれど、なんだか着付けの先生でもあったかしら?でも嫌よね。自分はきものを着ていないのに、着ている私に、なんで、そういう事を平気で言うのかしら?それでは、まるで私が悪いことをしていたように見えてしまったわ。」
と咲はため息をついた。
「そうなんだね。まあ、そういうひとたまにいるよねえ。今はやりの着物ポリスというのかなあ。まったく人の着物姿にいちいちいちゃもんつけて、なにになるんだと言いたいが。でも、作る側としては、それは気にしないでくれ。そんなこと気にしないで、着物をたのしめばそれでいいのさ。」
と、杉ちゃんはそういうことを言うと、
「まあ、そうなんですけどね。まったくなんで着物着ていると、こういう風に言われてしまうんだろう。まったく、なんで私がそういう風に痛い目に会わなきゃならないのかな。」
「まあ、なにか言いたいんですよ。そういうひとは。どうしても、自分が着付けを習っていて、それを披露したいと思っちゃうんじゃないですか。人間そういう風に優越感を持ちたい気持ちはありますから。」
咲が、四畳半に行くと、布団に横になっていた水穂さんが、体の向きを変えてそういうことを言った。
「あら、右城君、今日は具合がいいの?」
と咲が言うと、
「ま、いいのか悪いんだか。一応、薬飲んで、静かに寝させているけどさ。ちょっと気象条件が合わなかったりすると、せき込んだりするよな。まあ、今年は特に、体調の悪い人が、増えてるんだって。一種の気象病というのかなあ。それでも、こうして、いろいろできるのに感謝しないとね。」
と、杉ちゃんが、にこやかに返す。水穂さんは、ええ、まあそうですと言いかけた代わりに、せき込んで、返事をした。
「あーあ、右城君も具合悪そうだし、あたしは着物ポリスに会っちゃうし、今日は、なんだかついてない。どうして、こうなっちゃうんだろ。」
「じゃあ、着物ポリスに会わないような恰好をすればいいじゃないか。」
と咲がそういうと、杉ちゃんは言った。
「だって、着物を着ると必ずそういうひとに会っちゃうもの。それに、箏の演奏会では、色無地が重宝されるんでしょ。其れだからと思って、ちゃんと着ていったのよ。」
と咲が言うと、
「まあ、それじゃあ、困るわな。箏の演奏会に、色無地が義務付けられることは間違ってもありません。それに、周りのひとは色無地ばかりじゃないでしょう。小紋のひともいれば、訪問着のひともいますよ。」
と杉ちゃんが言う。
「そうだけど、どれが訪問着で、どれが小紋なのか私は、よくわからないのよ。色無地は、何も柄がないのだなってすぐわかるけど。」
「そうだねえ。訪問着というのは、肩、袖、下半身に柄を入れたもの、小紋は全体的に柄を入れたものだ。それを目安に考えてくれ。もし、わからないようだったら、いまから、カールおじさんのところに行って、比べっこしてこよう。」
杉ちゃんは、咲にそういうことを言った。
「そうねえ、そんなことしたら、またうるさく何か言われないかしらねえ。私はそれが心配で。もう着物なんて、いろんな人にあれもダメこれもダメと言われて、いやになるくらいよ。」
「まあ確かに、浜島さんの言う通りもありますね。着物を着れば多かれ少なかれ、何か言われますからね。其れよりもかわいいから、着てみたいという気もちが大切なんじゃないでしょうか。」
水穂さんは、また体の向きを変えて、そういうことを言った。
「まあ、そうなんだけどねえ、、、。」
と、杉ちゃんは腕組みをする。
「それだけでは、着物というのものは楽しめないということは確かだねえ、、、。」
杉ちゃんのひとことに、ほんとほんと、と咲は言った。着物なんて、本当に楽しみたいと思えば思うほど、着物ポリスというものが出てきたりして、それがどんどん遠ざかっていくような気がしてしまう。それは、仕方ないのかもしれないが、そういうことは、必ずある。
その翌日の事であった。
咲が、いつも通り仕事へ行こうと、バスを降りた時のことである。
「あら、すごい人垣だわ。」
と、バス停近くの一軒家の前を通り過ぎながら、咲はつぶやいた。
「ちょっとどうしたの?」
と、近くを通りかかったおばさんに聞く。
「誰かが、あの家で自殺を図ったみたいですよ。」
とおばさんは、そう答えて、関わりたくないかのように通り過ぎてしまった。咲は、なにがあったかと思ったが、寄り道していると時間に遅れてしまうため、急いで、その場を離れる。
この事件と自分は、それで終わりかと思ったら、苑子さんと一緒にお箏教室をしていた時の事。お箏教室の生徒さんが、こんな話を持ってきたので、またびっくりする。
「今日は、すごい事件が起こりましたねえ。なんでも、高額な契約をさせられて、お金をだまし取られた故の自殺だったそうですよ。まったく、悪い奴というのはどこのせかいにもいるものよねえ。まったく、困るわねえ。」
生徒さんは、そういうことを言った。
「そうなんですか。あのバス停近くの家で起きた自殺ですか?」
と箏の教師である、下村苑子さんが、そういうことを言った。
「ええ、まったくね。私、その近くに住んでいるんですけれども、朝からパトカーが唸ってて、大変でした。それではまったく、この富士市も治安が悪くなったものですわ。まあ、殺人ではなかったからよかったようなもので。それでよかったわ。」
生徒さんは、苑子さんにそういう事を言った。生徒さんも、何か言いたいだけで、何も意味はないのである。それは、どこのひとも同じことである。昨日の着物警察のような人も、ここにきている生徒さんも。
「それでは、どうしてそんな高額な契約をしなければならなかったんでしょうね。」
と、咲は、フルートをしまいながら、そういうことを言った。
「ええ、なんでも、高額な着物を無理やり契約させられたらしいわ。それは、富士ニュースにも書いてあった。もうその新聞で、話題になってるわよ。テレビでも報道されてて、悪質な契約のことが、盛んに報道されてた。」
生徒さんは、箏をしまいながら、そういうことを言った。
「そうなんですか。まったく、着物くらい、リサイクルで買えばいいのにね。それについては、変な難癖ばっかりつけて、何もしてくれないのよね。まったく、日本のいつになっても庶民の事は見ないのは、どこのせかいも同じなのね。そういう新しいものは変な方法で販売されて、そうやって、家庭崩壊まで招いてしまうのに、リサイクルに対しては、着物警察に止められてしまうしね。」
と咲は生徒さんに同情した。
「まあ、それはしょうがないわ。私たちは私たちなりに着物をたのしみましょ。」
苑子さんがそういうことを言うと、咲も、生徒さんもそうですねえといった。
さて、またバスに乗って、家に帰るか、と咲は思って、又そのバス停近くを通りかかる。その時、いやだと思っても、自動的にあの自殺した人の家が目に入ってしまうのだ。咲は、ちょっと逃げるように、その家の前を通っていったが、何人かの警察の人たちが、家を出たり入ったりしていたので、落ち着いてバスを待っていることはできなかった。
「まったくな、着物を買いたいという気持ちで、どうしてこんな契約をさせられたんだろう。それで、自殺を図るというくらい、大きなショックを受けたんでしょうか。」
と、警察の人たちがそういうことを言っている。
「それでも、着物を買いたいっていう気持ちを大事にするのではなく、着物を強引に売るという業者が多いよなあ。」
と、半ば呆れたような顔をして、警察の人たちは、そういうことを言った。其れと同時に、バスがやってきたので、咲はそのバスの中に乗り込んだ。まあ、自分は捜査の関係者でもないし、事件の関係者でもないので、ただ自分はそれを眺めているしかできなかったのであるが、何か心に引っかかるものがある。
咲は、まっすぐ家に帰る気になれず、わざと別のバス停で降りて、別のバスに乗り換え、製鉄所に行った。
「よう咲さん、どうしたんですか。」
と杉ちゃんに言われて、咲は、
「ちょっと右城君に会わせて。」
とだけ言った。
「ああいま、寝ているよ。起こしてやってくれ。」
杉ちゃんにそういわれて咲は、やれやれと製鉄所の建物に入る。そして、四畳半に行った。
「ねえ、右城君、右城君てば。起きて頂戴。ちょっと話したいことが在ってきちゃったの。私のお稽古場の途中にある家でね、事件があって。なんだか、高額な着物を交されて、自殺しちゃったんですって。あたし、着物を着るって、そんなに悪いことかと思って、なんだかいやな気持になっちゃったわ。」
咲は、そういって、水穂さんの体をゆすって起こし、そういう愚痴を漏らした。そういうことを漏らしにやってきたのか、と水穂さんはちょっと困っているようであったが、
「右城君の着物だって、銘仙の着物でしょう。それはどこに行っても高額にはならないのでしょう?」
といった。
「まあ確かにそうなんですけどね。着物を着たいという気持ちが、なんだかみんなバカにされたり、変な風に扱われたりしますよね。」
水穂さんも咲の話に相槌を打った。
「そうね。あたしも、なんだか着物を着てみたいけれど、着物を着れないというのが悲しいなあ、、、。」
と、咲は、はあとため息をついた。
ちょうどその日は、夕方の月が出ていた。十五夜の丸い月よりは、一寸かけた、でも輝くお月さん。
「おーい、コーヒー持ってきたよ。」
杉ちゃんが、そう言って、お盆にコーヒーの入った、マグカップを乗せてやってきた。
「ああ、いい月だなあ。まあ、着物を買えないということを、一寸愚痴るのもいいが、コーヒーを飲んでのんびりしな。」
咲も、水穂さんも夕方の月を眺めながらため息をついた。
珈琲は月の下で 増田朋美 @masubuchi4996
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