僕は美術部びじゅつぶ所属しょぞくしている。

 特にねつを入れているわけじゃないけど、最近は、いつも絵のことが頭にあった。

 近々ちかぢかおこなわれるコンクールの題材だいざいを、決められないでいたからだ。

 美大びだいを目指してるわけでもなく、絵をくのも高校でしまいにして、わりに勉学にいそしもうとしている僕だけど、それでも最後くらいは、いいものをえがきたかった、絵描えかきとしての僕の、生きたあかしをひとつ残したかったんだ。


 一緒に帰ろうというさそいを星川さんに断られた僕は、放課後の校舎こうしゃをあてもなく歩いていた。僕と星川さんの家は案外あんがいと近いらしく、鉢合はちあわせたりしたら気まずいだろうと思い、少し時間をつぶそうと思ったのだ。なんで僕が気を使わないといけないのかと思うけど、星川さんは少しも気にしなさそうだから、らぬ気を使っているとも思う。


 長い廊下ろうかは夕日に色づき、赤茶あかちゃけている。特別棟とくべつとうには、吹奏楽すいそうがくしずかな音色ねいろが流れる。思い思いのトロイメライは会話のように、途切とぎ途切とぎれに少しずつ進んでいく。み合わずに通じる不思議と、み合っても通じない不可思議が、わるわる顔をのぞかせる。


 ふと耳に届くのは、息継いきつぎのような音。なにかにおぼれるような切実せつじつ気配けはい

 誰も来ないであろうことを見越みこしてか、恋人たちが階段かいだんかげでキスをしていた。

 女子の方がこちらに顔を向ける気がして、僕はとっさに、はしらかげに身をひそめた。だけどそれは気のせいで、女子はただ、息継いきつぎさえもわずらわしげに、目の前に無我夢中むがむちゅうになっていた。なのに僕はその場を立ち去ることはせず、2人の様子をじっとながめつづけた。


 欲望よくぼうとは少し違う感情だった。

 きたい、そう思った。

 こんなにも性的せいてきな場面なのに、心臓がうちからるように鼓動こどうするのに、血のくすえは頭と眼球がんきゅうだった。頭がしんまでしびれる。こんなに距離が遠いのに、唾液だえきが糸ひくのすらはっきり見える。

 本当に綺麗きれいだと思った、切実せつじつで。

 まるで明日あす死ぬとでもいうように、おたがいのくちびるむさぼり合っている姿は、どろどろのに落としこむには最適さいてきだ。

 真っ赤なで、唇のはしはしまでぬりつぶしてやりたい。

 まあ、こんな場面をいたら、顧問こもん大目玉おおめだまらうだろうけど。




 僕はそれから、1時間ほど恋人たちの逢瀬おうせをながめつづけた。ずっと見ていたかったけど、恋人たちが帰ったんじゃ仕方がない。


 その頃には校舎こうしゃの赤色はぬけ、黒の変化も落ち着いていた。だけど、外に出てみれば、ほのかに明るかった。ブルーアワーは、どうやっても建物のなかには入りこめない。

 け合った青とむらさきは、みずのように遠ざかりながら、いつのにか消えていた。


 学校の近くの駅を目指して歩く。いつもは退屈たいくつしのぎに、音楽を聴きながら歩くけど、今日はその必要がなかった。いいものが見れたからだ。


 最近は星川さんのことばかり考えているからか、自然、星川さんとのキスが頭に浮かんだ。でも上手うまくいかない。いちおう僕たちはキスをしていた。だけど僕と星川さんの口には、あの恋人たちの口がりついていた。だからどんなに激しくキスをしても、なんの感覚もなく、興奮こうふんもない。なのに星川さんは、ありえないくらい興奮こうふんしていて、息継いきつぎのかわりにたかぶった笑い声をはっした。ものべるような表情で、息を吸いこむ口をして、目を奇妙にゆがませながら。


 ふと顔をあげると、駅はもう間近まぢかだった。時間がとんだような感覚。まるで、心臓をかれたようなつめたさと、物心ものごころ芽生めばえのぬくもりが、キスをするような、なまあたたかさ。

 駅はごったがえしていた。はいガスより不快ふかいな汗のにおいが鼻をつく。


 ああ、そういえばと思い出すのは、小佐田ミズコはここで死んだんだということ。すっかりわすれていた。正直せいせいしたのを覚えてる。手ひどく振ってやったのに、あやまらせてくれだとか言ってまとわりついて、本当に気色悪きしょくわるいったらなかった。

 確かに顔はととのっているんだろうが、あんな無個性むこせいな女は正直ごめんだ。まるでブルーアワーみたいに、いてもいなくても変わらない。


 あんまりしつこいから、徹底的てっていてき人格否定じんかくひていをしてやった。返るのはまるで面白味おもしろみのない、テンプレートな言葉。ねこりでもいれた方がまだ面白おもしろいんじゃないかな。

 その翌日よくじつだ、彼女が死んだのは。

 少しの罪悪感ざいあくかんもないのが不思議だった。

 多分、僕がつめたいっていうよりか、あんまり彼女が無個性むこせいすぎるんだと思う。

 よくよく考えたら、当然といえば当然だ。いてもいなくてもいい人間が消えて、それを気にする方がどうかしてる。

 これも気のまよいだ。ないのを不思議に思う感情は、そりゃあ、ないに決まってる。せみがらなんて、いってみればただのゴミくずなんだから。


 駅のホームで人ごみにまれながらも、僕の心はどこかかろやかで、今日きょうは星川さんは電話に出てくれるだろうか、なんてことを考えていた。目をじて頭に浮かべる星川さんの姿は、すぐさま、足元あしもと点字てんじブロックの感触のうるささにつぶされてしまった。


 僕の胸のなかで、携帯がふるえながら歌いだした。今年の夏で、おそらくすっかりわすれられるだろう、ありきたりなひと夏の恋の歌。

 誰からだろうと画面に目を落とすと、『星川』の文字が飛びこんできた。こんなところで電話に出るのは非常識ひじょうしきだとも思ったけれど、今出なきゃ、次にいつ電話で話せるか分かったもんじゃないから、僕は『通話』の文字に指をはわせた。

 まさか彼女の方から電話をくれるなんて。自然、顔がほころぶのがはっきりと分かる。喧騒けんそうのなか、耳をませる、でも何も聞こえない。声をはっしようと息を吸った瞬間、背中に強い衝撃しょうげきをうけた。


 あっと思ったときには、もう僕の体は、線路せんろの方に投げ出されていた。とっさに身をひねりながら、僕はうしろをふり向いた。どこか、時間の流れがゆっくりに感じた。人々の表情の変化までありありとわかる。たくさんのおどろいた顔。そのなかに見知みしった顔を見つける。


 僕が立っていたであろうその場所に、星川さんが立っていた。僕に向かって腕を伸ばしているから口許くちもとが隠れ、彼女の表情はよくわからなかった。でも、ほそゆびのあいだからのぞくふたは、笑っているような気がした。

 それをみとめた瞬間、急に時間が加速して視界しかいは真っ白になり、気がつくと僕は、背骨せぼね線路せんろのふくらみを感じていた。


 不思議と痛みはなかった。かわりとばかりに感じるのは、あの日の教室と同じ、熱狂ねっきょうの声。

 突然、その声をかきわけて、まるでせみのような、ジジジというけたたましい音がした。

 顔をあげると、目の前には巨大なせみがいて、僕をじっと見下ろしていた。ガラスのようなひとみを、蘭々らんらんとかがやかせながら。

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火けしねじり 倉井さとり @sasugari

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