オオカミ少女の通学路
白川ちさと
オオカミ少女の通学路
ランドセルをガチャガチャ言わせながら、わたしたちはアスファルトを蹴る。
「キャーッ!」
「助けてーッ!」
なるべく甲高い声を上げるのがポイントだ。
「キャーッ!」
もう一度叫ぶと、声を聞いた人たちが次々と家から顔を出す。
「もうー佳奈ちゃん、止めてよ!」
隣にいる優美ちゃんがわざとらしく、わたしの身体を押した。それを見た人たちはなんだ小学生がじゃれ合っていただけかと、家の中に引っ込む。
「くすくす、完全に騙されていたね」
「大成功」
絵理ちゃんがほくそ笑むのにつられて、わたしもピースサインを作った。
これはわたしたち三人の中で、いま一番熱い放課後の遊びだ。
いつもは偉ぶってばかりの大人を翻弄して、こんなに楽しい遊びはない。
「次はこれだね」
優美ちゃんがわたしのランドセルにぶら下がっている防犯ブザーを指さす。
「今度はどれだけ出てくるかな。――あ」
何気なく顔を上げると目が合ってしまった。
すぐ近くにあるマンションの三階。
ベランダでタバコをふかしているおじさんがいる。頭は寝癖だらけでひげも剃っていない。服もちゃんと着ていなくて、白いタンクトップ姿だ。
何を考えているか分からない表情を見たら、ゾッと背筋に寒気がした。
「どうしたの? 佳奈ちゃん」
「ねぇ。あのおじさん、ニートかな。こんな時間に家にいるなんてさ。しかも、こっちを見ている」
わたしは二人に小さな声で言いながら目配せをした。
「本当だ。気持ち悪い」
「変質者かも。早く行こう」
わたしたちはマンションから離れて、角を曲がる。
「この辺りでいいかな」
「うん。せーの」
優美ちゃんが卵型の防犯ブザーを引き抜く。すぐにブーブーブーと大音量で鳴り始めた。
悲鳴を上げていたときと同じように大人たちが顔を出す。キョロキョロと辺りを確認していた。
それを見て、わたしたちはクスクスと笑う。
「こら! 防犯ブザーで遊ぶんじゃない!」
せっかくいい気分だったのに、水を差された。
こっちに走ってくるのは、いつも信号機のない横断歩道で手旗を振っているおじさん。
あいさつは大きな声でとか、背筋を伸ばして歩きなさいとか、いろいろと口うるさい人だ。
たぶん、夕方の見送りが終わって家に帰る所なのだと思う。
タイミングが悪かったなぁと思いながら、わたしは優美ちゃんと絵理ちゃんに目配せをした。こんなときの対策もバッチリだ。
「ダメだろうが。それは緊急のときにだけに鳴らしていいもんなんだぞ」
「ごめんなさい、おじさん。わたしがつまずいて、つい掴んじゃったんです」
優美ちゃんがもじもじしながら嘘をついた。わたしと絵理ちゃんは黙って頷く。
「そうか。……気を付けるんだぞ。それから道草食ってないで早く帰りなさい」
おじさんは微妙な顔をして、歩いていった。
もしかしたら嘘だと気づいていたのかもしれない。でも、わざと引き抜いたなんて証拠もないんだから、何と言われようとわたしたちの勝利だ。
わたしたち三人はその後も楽しく騒ぎながら帰った。
家に帰ると、家にはお姉ちゃんしかいなかった。
「お母さんは?」
「買い物」
中学生のお姉ちゃんは、暖房の効いたリビングで教科書とノートを広げている。
「佳奈、帰ってくるの遅かったね。もう、外は暗いじゃない。遊んでいたの?」
「うん。――あ、実はね。最近、新しい遊びをしているんだ」
わたしはお姉ちゃんに下校するときの遊びを教える。
「何それ」
思った通り、お姉ちゃんは目を丸くして驚いた。
だけど、その次の言葉は予想外だった。
「小学五年生にもなって、そんなくだらない遊びをしているの」
わたしはその吐き捨てるような言い方にムッとする。
「だけど、すっごく楽しいんだよ。大きな声も出せて、何ていうか、ストレス発散? みたいな」
「小学生が何言っているのよ。近所迷惑になるからやめなさい」
なによ。
お姉ちゃんが小学生のときは一緒にいたずらしていたのに、中学生になったら急に大人ぶっちゃってさ。一緒に笑ってくれると思ったのに。
もちろん、わたしはやめたりしない。
次の日も、その次の日も、同じことを繰り返した。
だけど、お休みを挟んで月曜日。異変が起こった。
「えっ、優美ちゃんが入院?」
月曜日、登校のときに絵理ちゃんに歩きながら聞かされた。
「うん。通学路に階段があるでしょ。昨日そこで頭から落ちちゃったみたい。それで念のため今日検査入院するんだって」
きっと雨が降っていたからだ。濡れているとあの階段は滑りやすい。
「優美ちゃんって、そそっかしいとこがあるからなぁ」
「……それがね。優美ちゃん、誰かに足を引っ張られた気がするんだって」
声をひそめて絵理ちゃんはわたしだけに聞こえるように言う。
「え……。誰かって、誰に?」
「分からないんだって、見えなかったから」
見えない誰かに足を引っ張られた?
つまり、幽霊や妖怪?
「きっと、優美ちゃんの気のせいだよ」
わたしは賢明な女子小学生だ。そんなオカルトな話、信じない。
この日の放課後、優美ちゃんがいないから、わたしと絵理ちゃんの二人で帰る。
「ねえ、今日もあの遊びしよう」
わたしはごく当たり前にそう言った。
だけど、絵理ちゃんは戸惑ったような表情をする。
「えっと、二人だし止めておかない? 三人じゃないと……」
絵理ちゃんは意気地なしだ。三人の中で、いつも何かと真っ先に怖気づくのは絵理ちゃん。
「三人でも二人でも変わらないよ。いいから、わたしを追いかけて。行くよ」
わたしはキャーッと甲高い声を上げながら走り出した。
やっぱり大きな声を出すって気持ちいい。
だけど、まだ大人たちは出てこない。もう一度、わたしは悲鳴を上げて走る。
そのとき、あのマンションの前に来た。
そこで顔を上げてしまう。
まただ。目が合ってしまった。足が自然と止まる。
あのニートのおじさんだ。今日もベランダでたばこを吸っている。
この日だけじゃない。
休みの前の日も、その前の日も、はじめて見つけたときから毎日そこにいた。
ジワリと背中に汗をかくのを感じる。
おじさんは視線を外さない。わたしは一人怖くなって、一歩下がった。
「わっ!」
背中のランドセルに何か当たる。振り返ると――。
「佳奈ちゃん、走るの早いよ」
息を切らした絵理ちゃんだった。わたしはほっと息をつく。
ニートのおじさんのことは無視することにした。
「向こうで、ブザーを鳴らして遊ぼう」
「……うん」
わたしと絵理ちゃんはマンションから離れた場所で遊んだ。
「えっ、それどうしたの。絵理ちゃん」
次の日の朝、学校で会うと絵理ちゃんは手に包帯をグルグル巻きにしていた。
「実は怪我しちゃって」
「お家で?」
「ううん。昨日、佳奈ちゃんと別れたでしょ。その後、家に向かって歩いていたら突然後ろから声をかけられたの。お前、通学路で騒いでいただろうって」
「え……」
「それで腕を引っ張られて、怪我をしたの」
まさか、あのニートのおじさんなんじゃないかと思った。
「それで絵理ちゃん、怪我までさせられて警察には言ったの?」
「……ううん。すぐに逃げたし、それに……」
「それに?」
なんだろう? 絵理ちゃんは言いにくそうにしている。
「その声をかけた人ね、顔が無かったの」
「顔が、ない?」
「うん。のっぺらぼうみたいに口も鼻もなかったの」
まさか。そんな馬鹿な話はない。
優美ちゃんも、見えない誰かに足を引っ張られたって言っていたけど。
でも、誰かは分からないけれど、その誰かは通学路で騒いでいた子供を狙っているのかもしれない。
優美ちゃん、絵理ちゃんと来たら次は、
……わたし?
「……とにかく、大人の人に相談した方がいいよ」
「うん。お母さんにはちゃんと言ってあるよ」
妖怪や幽霊なんて信じないけれど、誰かのせいで怪我をしていることは間違いない。不吉な予感がわたしの中に渦を巻いた。
本当はこんなときに一人で帰りたくない。
でもこの日、わたしは日直で、絵理ちゃんは習い事のピアノがある。
その上、先生にちょっとした片づけを頼まれたから、下校する時間が少し遅くなってしまった。
まだ五時半だって言うのに、陽は完全に沈んでしまっている。
住宅街の道は、あまり街灯が多いとは言えない。家の灯りの届かない暗がりだってたくさんある。
大丈夫、大丈夫。
絵理ちゃんが言っていたことなんて気にする必要ない。
のっぺらぼう? 非科学的にもほどがある。
わたしは一人黙々と歩いた。いつもの通学路がいつもよりもずっと長く感じる。
学校から五分、背筋が少し硬くなるのが分かった。あのベランダにいつもニートのおじさんがいるマンションの前だ。
大丈夫、見なければいいんだ。
わたしは上を見ずに足早にマンションを通り過ぎる。
そのときだ。
バタンという音がした。たぶんドアが閉じた音。
恐る恐る振り返ると、そこにはマンションから出てきたニートのおじさんがいた。
いつものぐしゃぐしゃな髪の毛で、無精ひげで。違うことと言えば、たばこを吸っていないことと、青いポロシャツを着ていることぐらい。
ニートのおじさんを見てわたしは悲鳴を上げたかった。
でも、わたしの口からはヒューヒューと息が出るばかり。そうしている間にニートのおじさんは近づいてくる。わたしはクルリと背を向けた。
なんとか震えそうになる足を前にだして歩き出す。しばらく歩いて、気づかれないように後ろを覗き見た。
……やだ! 付いてきている!
怖くてしょうがない。
誘拐されて監禁されたり、刃物で脅されたり。そんなイメージしか湧かなかった。
震える足を拳で叩く。角を曲がると同時に、わたしは走り出した。
早く、早く……!
追いつかれないように、あッ……!
わたしは地面のちょっとした段差につまずいてしまう。
顔から豪快にアスファルトに突っ込んだ。すごく痛い。
「おい、大丈夫か?」
後ろから声が心配する声がかかった。
この声、知っている。
わたしは助かったと振り返った。
だけど、そこにいたのは――。
「怪我しているな。家は近いか?」
声はいつも横断歩道で手旗を持っているおじさんだ。
だけど、顔が無い。
「の、の、のっぺらぼ……」
顔が引きつる。頭がくらくらする。
絵理ちゃんは言っていた。のっぺらぼうに腕を引かれて怪我をしたって。
「のっぺらぼう?」
そのとき、ランドセルについている防犯ブザーが目に入った。
そうだ。こんなときに鳴らさないと。
思い切り引き抜くとブザーが鳴り響いた。
だけど、それだけだ。誰も助けになんてこない。
「ど、どうして」
「いたずらで鳴らしているから、ここら辺の家の人間はもう慣れて反応しないからだろ」
のっぺらぼうが呆れたように言う。
「そ、そんな……」
涙がにじみ出る。
「ほら、立って。あっ!」
わたしは立ち上がって、ランドセルを置いて走りだした。
もう後ろを振り向いちゃダメ。
助かるには、このまま家に駆けこむしかない。
逃げなきゃ、
逃げなきゃ、逃げなきゃ、
逃げなきゃ――。
……――。
ピーポー、ピーポー、ピーポー……。
「佳奈ちゃん、車にはねられて入院だってね。わたしが退院したのに、入れ替わりになっちゃった」
「本当だね」
「しかも知っている、絵理ちゃん」
「何を?」
「佳奈ちゃん、いつも横断歩道の前にいるおじさんのこと、うわ言でのっぺらぼうとか言っていたらしいよ。おじさんはマスクで口と鼻が隠れていたせいじゃないかって言っていたけど。おかしいよね」
「ああ。それ、わたしのせいかも」
「絵理ちゃんの?」
「もうあの遊びしたくなくて、のっぺらぼうに怪我をさせられたって言ったんだ。元々怪我なんてしてないから、佳奈ちゃんを怖がらせるための嘘」
「確かにあの遊び、子供っぽかったもんね。いかにも佳奈ちゃんって感じ」
「ねー。優美ちゃんもそう思うよね」
「うんうん。それに佳奈ちゃんって、すぐ見た目で判断するよね。ニートのおじさん気持ち悪いって言っていたけど、佳奈ちゃんの救護も手伝ったらしいよ」
「そうだったんだ。でも、なんでいつもあの時間にベランダにいたんだろ」
「さあ。そこまでは分からないよ」
「あそこのお子さんたち、やっと静かになったわね」
「本当、いい迷惑だったわ」
「わたしたちはずっと無視していたけれど、リモートワークをしている男性がいつも見守っていてくださったみたいよ。なにか事件に巻き込まれたときに助けられるようにって」
「奇特な方もいらっしゃるのね」
「放っておけばいいのに、だって」
何が起きても自業自得なんだから。
了
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