橘 海月視点 現在
それが愚かと知りながら、それでも僕は繰り返す
「オルアァッ!」
「ぐっは……!」
腹部へと走る強烈な衝撃に、僕こと橘海月は、低く呻きながら膝を付く。
大学の構内にて、鈴鳴さんと目が合ったかと思うと、彼女はズンズンとこちらに向かってきて、挨拶をしようと口を開き掛けていた僕の腹に、いきなり拳を叩き込んできたのだ。
「いきなりだね……鈴鳴さん」
なんて言いつつも、僕は先程こちらに向かってくる彼女の、怒りに滾る瞳を見た瞬間、この事態を予想していた。
「どうして殴られたかは、分かっているわよね?」
「……予想はつく」
間違いなく彼女は、ミャー子からこの間起こった、事の顛末を聞いたのだろう。
「じゃあ……どうして殺されるかも、分かっているわよね?」
「……ミャー子は、元気にしているかい?」
身の毛がよだつような鈴鳴さんの発言を、僕は何とかスル―しながら、そう問い掛けた。
「あんたみたいなウンコが、あたしの……あたしだけの優美穂の名を口にすんじゃないわよ……殺すわよ」
スルーしたところで、いや、スルーして投げ掛けた問いのせいで、彼女は更に殺意を滾らせてしまったようだ。
「あたしだけの……って、前から思ってたけど、鈴鳴さん、ミャー子に特別な感情持ち過ぎじゃない? 入れ込み過ぎっていうか──」
言葉の途中で、僕は胸倉を掴まれ、無理矢理立たされた。
彼女は女性にしてはかなり身長が高いので、僕の目線のすぐ下に彼女の顔が来る。
「あたしはあの子に出会って、初めて庇護欲という感情を知ったのよ。許されるなら世界の理を捻じ曲げてあの子を産みたいくらいよ」
何のこっちゃかよく分からないが、彼女がミャー子を溺愛しているのは分かる。
「あんたはもう、優美穂に興味がないのよね? あの子のこと、パートナーにするには不十分だと見限ったのよね?」
それが故に、僕がミャー子の傍にいなくても、あの子が孤立することはないだろうと確信している。
「見限ったなんて、そんなワケじゃない。ミャー子とそういう関係になることを、良しとしなかっただけだよ」
だが彼女の次の発言は、僕の予想を──期待といってもいい。それを裏切るものだった。
「じゃあ、あの子がどこの男とくっつこうと、あんたはどうでもいいのね?」
「……え?」
コレは意外だ。彼女は僕以上に、ミャー子の隣に立つ男の審査に対し、厳しい目を持っていると思っていたから。
「何よ。鳩が豆鉄砲喰らったみたいな顔して」
「いや……鈴鳴さんは、それでいいの?」
「はあぁ?『ミャー子のパートナーが僕みたいなイケメンじゃなくていいの?』って言いてーの? 随分と自意識が過剰でございますこと──」
「違う! どこの馬の骨とも知らない男がミャー子に近づくなんて、僕以上に怒りそうなものじゃないか」
「あんたよりはマシよ! さんっざん彼氏面どころか、旦那面までしておきながら、いざ優美穂が勇気を出して一歩踏み出した瞬間、ビビって突き放したタマナシ野郎なんかよりはね!」
ここで彼女は、また怒り心頭に発したようで、人差し指を僕の眼前に突き付ける。
「…………」
……ぐうの音も出ない。彼女の言っていることは事実そのものだ。
僕は、彼女を特別扱いし、彼女に特別扱いされるのを心のどこかで期待しながら、いざそうしようかと言われたら、それがいつか終わることにビビって逃げたのだから。
「……あの子、モテるわよ。めちゃくちゃ。あの子と歩いてると、殆どの男子が振り返るもの」
「……それは、ゲスな目で見てるだけだ」
「おっぱい見てるから何よ。お近づきになりたがる異性が死ぬほどいるって事実には変わりないでしょ?」
「…………」
意外だ。そんな肉欲が優先しているようなクズどもにミャー子が相応しいはずがない、と思う点で、僕と彼女は共通の認識を持っていると思っていたのに。
「しかもあの子は今、落ち込んでいる。ハイエナどもにとっては格好の餌食でしょうね。多分今に色んなヤツが来てこう言うわよ。『優美穂ちゃんだって勇気出して頑張ったのに、それをそんな風に傷つけるなんて、橘? だっけ? 男失格だよそいつ~、俺なら女の子にそんな思いさせないけどね~』て」
「完全にヤリモク男子の、チャラ男ムーヴじゃないか!」
「そーよ! そんな腹ペコ鮫がウジャウジャしてる海に、あの子を放り込んだのは、あんたでしょ!」
「……!」
またしても、ぐぅの音も出ない。
「……違う?」
「……その通り、です」
「そうよ」
「でも……その、そんな、自分の肉欲が満たされたら、すぐにミャー子をポイして傷つけかねないヤツラらに……あの子を預けるなんて、そんなの鈴鳴さんが許容するワケないと思ってたん……ですけど」
「恋愛は自由よ。ってゆーか、あんたには関係な〜いでしょお? もうフったんだから! それに、もう一度言うけど、そんなヤリモク鮫でも、あんたよりはマシよ!」
今度ばかりは、さすがに全く以てその通りです、とはいかなかった。
「僕は……! ミャー子が嫌で、彼女を拒絶したワケじゃない……!」
「へぇ……?」
まんまと言わされたな、と思った。鈴鳴さんが、僕の真意を聞き出す為に、敢えて思ってもいないことを言っているのだと、頭のどこかで予感はしていたのだが、さすがに我慢できなかった。
結局僕は全て吐かされた。
ミャー子を愛していること。
でも、彼女と付き合って、いつか関係に終わりが来ることに恐怖してしまったこと。
友人としてなら、彼女の傍にいられると思っていること。
「……バカじゃないの」
そんな僕の苦悩を、彼女は一蹴した。
「……ぐぅ」
今度はぐぅの音くらいは出た。
「そんなんあんたがビビりってだけじゃない。あんたは楽しい時間を過ごす前に、必ず終わってしまった時のことを考えるの? 焼き肉食べ終わったあとの虚無感が怖いから一生食べないの?」
「ミャー子は焼肉でも、食べ物でもないだろ」
僕は小さな声でツッコミを入れたが、彼女はそれを完全に無視した。
「普通の人は、また食べに来れるように頑張ろうって、それを糧にして日々を生きるの! 何よいつか来る別れが怖いからって! そんなん別れなきゃいい話じゃない! もしすれ違って別れちゃっても、またあんたから告ればいい話じゃない!」
……正論だ。全く以て正論である。
だが言うだけなら簡単だ。
僕が味わった恐怖と絶望を、知らない者の言葉だ。
「まったく……こんなちっぽけな男のビビりに振り回されて、傷ついてるあの子がバカみたい! 多分あの子すぐに新しい彼氏出来て、コレまであんたに向けられてたあの満面の笑顔が、どっかの誰かに向けられているのを目の当たりにすることになると思うけど、ショックで自殺とかしないでよね。あの子に迷惑だから! 死ね!」
それだけ言って、鈴鳴さんは歩いて行ってしまった。
「……どっちだよ」
彼女の言うことは分かる。僕自身、僕の取った行動に憤りを感じている部分がないでもないから。
だから正面から僕を責めてくれた彼女の罵倒が、心地いいと感じる部分もある。
しかし、いつだか将来フランスにでも行ってミャー子と同性婚する、とまでぶち上げていた鈴鳴さんが、ミャー子が誰かと付き合うことに否定的でないことには、少し驚いた。
でも、それでも。
あの人見知りのミャー子が、性的な目で見られることが人一倍嫌いなミャー子が、そう簡単にどっかの男とくっつくとは思えないけど。
そう思い、歩き出した僕は、すぐに自身の愚かさを思い知ることとなる。
「え……」
数分歩いた先で目の当たりにした光景に、僕は自分の目を疑った。
数十メートル先の、校舎前の庭で、ミャー子が僕の知らない男と話していたのだ。
男の笑顔に、笑顔を返しながら。
「…………」
心臓が、速くなっていく。
僕は、バカだったんだ。
鈴鳴さんの言う通りだったんだ。
僕は独りよがりな甘ったれで、世界は僕が思っている程、甘くはなかったんだ。
人は独りでいることに耐えられず、すぐにその穴を埋めようとするんだ。
僕は特別でも何でもなかったんだ。
……誰でも、良かったんだ。
「……なぁんだ」
小さな声で呟く。
ミャー子が一瞬、こちらを見たような気がしたが、もうどうでもよかった。
それ以上見て居たくなくて、僕は背を向け、歩き出した。
「…………」
何も感じない。何も考えたくない。
目的地があったワケでもないが、僕は速足で歩き続けた。
……よかったんだ。僕の選択は正しかったんだ。
……明日から、どうしよう?
どうしよう? 何をだ?
先程のことで、僕のこれからの、何が、どう変わる?
関係ないだろう。僕は僕の目的の為に、一人、これからも頑張るだけだ。
「……あれ?」
なんで、頑張っていたんだろう? 何の為に……?
分からない。
あぁ──全部、全部。
「もう、どうでもいいか──」
そう口に出した瞬間、後ろからシャツを掴まれた。
「──っ」
驚いた僕が振り返ると、そこにいたのは、ミャー子だった。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」
激しく肩で息をし、汗をかきながら、それでも彼女は、僕のシャツを掴む手に込められた力を、弛めることはしなかった。
「ミャ……ミャー子?」
「はぁ……はぁ……から」
「え」
「違うからっ!」
いきなりミャー子が、僕の目を見ながら叫ぶ。その瞳には涙が浮かんでいる。
「ミーくんが、考えているようなのじゃ、ないからっ!」
「あ……え?」
「さっきの人は、ウチが落としたハンカチ……拾ってくれただけだから! それにお礼を言ってただけ、だから……! そんな、ミーくんが思っているようなのじゃ、ないから……っ!」
「……あ」
僕は、涙が溢れ出したミャー子の目を見た瞬間、モヤでもかかっていたと思える程に、暗くなっていた視界が晴れた気がした。
「まさか……ミャー子。僕が誤解したと思って、追いかけてきたの?」
「そうっスよぉ……! ミーくん、失望したみたいな、絶望した顔してたから……!」
「そ、そんな顔してたかな? あの、とりあえず、手、離して? 振り向けない」
「やっス! また速足で逃げられたら、もうウチじゃ追いつけないっス!」
そう言って、ミャー子が僕の両肩を掴み、背中に顔を埋めてきた。
「…………」
背中越しに、ミャー子の鼻をすする音を聞きながら、僕は不覚にも、涙が零れそうになってしまった。
「このまま逃がしたら、絶対明日から避けられるから。絶対に今、捕まえないとって……走って……でも、ミーくん、速くって……」
「うん」
「ミーくんに誤解されて、軽蔑されて、今までのこととか、出会ったこと、全部否定されて、終わっちゃうのは、絶対……絶対、嫌だったの……」
「うん……うん」
「大丈夫? ミーくん、誤解してないっスか?」
「してないよ。してない……」
「本当に? 本当っスか?」
「本当だよ。ちゃんと……信じてる」
信じてるって何だ? 何様だ、僕は?
「良かった……良かったぁ……!」
ようやく安心できたのか、ミャー子が大きく息を吐く。
あぁ……もう、僕は何をやっているんだろう。
自分の勝手な都合で、彼女を突き放したのは僕だろう?
なのに、勝手に彼女を誤解して、軽蔑して、否定しようとしていた。
そして、そうなることを予想して、必死に僕を追いかけてきてくれて、泣きじゃくる彼女を、どうしようもなく可愛いと思ってしまっている……!
「あ……いや、その、失礼しましたっス!」
急に恥ずかしくなったのか、ミャー子が身体を離す。
「え、と……ごめんなさい。フラれたのに、こんな、馴れ馴れしく……」
顔を真っ赤にしながら、徐々に距離を取るミャー子に、僕はようやく振り返る。
「いや、そんなことは……お気になさらず」
「み、み、ミーくんは……これから、バイト? ……っスか?」
「う、うん」
と言っても、急いでいるワケでもないのだが。
「そ、そっスか。頑張って」
「うん。ありがとう。いってきます」
「……いってらっしゃい」
今更だが、会話するのが久し振りなことを同時に思い出した僕らは、ぎこちなく話す。
「あの、ミーくん」
歩き出そうとした僕の背に、ミャー子が声を掛ける。
「?」
「ミーくんは、あんなこと言っちゃったから、気まずいとか思ってるかもしれないけど……その」
「…………」
「また……来て。待ってるっスから」
顔を真っ赤にし、目に涙を溜めながら、彼女は消え入るような声で、恥ずかしそうにそう言った。
あぁ、もう。あぁ……もう!
僕は何度繰り返すんだ。どこまで愚かなんだ?
言っていることも、やっていることも矛盾だらけだ。
何も一貫性がない。
この先も、何度も、何度も、こんなことを繰り返すのだろうか?
だったら僕の取った選択は一体何だったんだ?
頭ではゴチャゴチャと考えが渦を巻いている。
「……うん。ありがとう」
なのに僕は結局、こう答えた。
もうどうしようもなかった。
ちくしょう……好きだ。
偽物ドライとロードポイント アンチリア・充 @Anti-real-m
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