第4話
外は寒かったのだろう。鼻を赤くするトモが、酒をぐっと飲むと、頬まで紅潮した。
「どれだけ愚かになれば僕の気は済むんだろう」
酔いの回った彼は怪しい呂律を回しながらひとりごちた。虚空を見据えるその瞳は、今目の前の景色を視界に入れることを拒むような冷ややかなものだった。
腹痛で突っ伏す俺と目が合うと、トモはわずかに微笑んだ。その視線から逃げるように俺は逸らした。
「君が知らなければ言うけど、僕は寛容じゃなくてね。背負う後悔は制服デートの他に欲しくないんだよ」
「うん」
「そういうわけで君と卒業旅行に行くと決めた」
「えっ」
視線を向ければトモは無言で頷く。絶句する俺に、彼は笑みを深めて補足した。
「ああ、君は単位取得に苦労してるんだったね。大丈夫。君が留年したら他人と行く。気楽に頑張って」
「……嫌な言い方するのな」
「そうやって羨ましがってくれると執筆が捗る」
「薄情者」
にやにやと笑う笑顔が憎いが、こんなやりとりができるのも今だけかと思うと、なんとも言えない気持ちになる。
進級すれば就職活動が始まる。三年から始める学生は多いし、俺も準備は進めるつもりだ。
トモの作家業も本格化したら、俺がトモと接する機会は、下手したら卒業旅行くらいまでないかもしれない。卒業旅行すら実現できるかどうか約束しづらい。俺は単位を取るのがどうも得意じゃないし。
そんなこと考えていると、視線が自然と床に吸い寄せられていく。
「他人ってなんだよ。行くなら友達と行けよ」
将来への不安を誤魔化そうと、別の言葉を吐いた。
トモがすぐに答えないことに違和感があった。
間を埋めるように俺は口を開く。
「俺と違って友達多いんだからそういう言い方はよくないぞ」
「……本当にそう見える?」
一瞥すると、眉を落とし苦い笑みを浮かべたトモの姿があった。こたつ台の上に置いた手を何度も組み直しながら、彼は言葉を紡いでいく。
「僕はね、自分の嫌なところを削ぎ落すために毎日必死なんだ。でも僕の友人は真逆らしくてね。弱さはみせないけど、削ぎ落とそうともしないんだよ。他人にも強くあることを求めない。それは強さだ。優しさだ。僕もそうなりたいけど、どうも胸の内を明かしてくれないから、どう目指せばいいかわからないんだよ。なんとか引き出してわかったのは僕にはないものを持ってるってことだけ。僕をより自己嫌悪の渦に突き落とすだけ。どうすれば僕は友人に近づけるだろう。そもそも僕とその人は友達なんだろうか。いつもそんなことばかり考えていた。友達を作る暇なんかないよ」
「……そうか」
「好きでやってることだからいいけど」
「結果オーライになるといいな」
「うん」
トモは猫のように体を丸めてこたつの中に蹲る。
部屋はまた静かになった。
「なぁ、お前が死んでるとしたら俺はなんだろう?」
「うん?」
「さっきの話。お前の理屈なら俺は死人と話してるわけで。お前からすれば俺は何者?」
「面白そうだね。考えてみる。…………読者第一号かなぁ」
「読者?」
「僕は死人であり、死人から吐き出される言葉は文字そのものなんだよ。文字は読む相手がいて初めて存在できる。君は僕の姿、文字の存在を証明する読者だ」
お前の小説を読んだ覚えは一度もないぞと言いたいところだが、そういうことじゃないのは言われずともわかる。
この空気を壊さない返答が思いつかず黙ってしまった。先に空気を壊したのはトモのほうだった。
「やっぱり違うかな」
「違うの?」
「僕は文字そのものにもなれていない。引き裂かれるような、人間らしい痛覚がまだ残っているから。……とっくの昔に死んだはずなんだけどなぁ」
丸まった背中は、どう見ても息をしている。それでも死んでいるという。
昔の、自分の浪人時代と似たものを感じた。
あの頃の俺が今目の前にいるとしたら、どんなことを言えば救いになるんだろうか。
そう思って口を開こうとしてぞっとする。
あの頃を振り返ると苦を伴う。青春とはそういうものだ。相変わらず、そこから変化はない。
まただ。
また、目蓋が小さく震えた。
俺とトモは違う。過ごした環境も見てきたものも違う。だから考え方が異なるのも当然だ。救おうとか気遣うなんて大それたことを考えたってトモに響くとは限らない。
考えるより、今言いたいことを言うほうがいいかもしれない。
「悪かった」
謝ると、トモが振り返った。丸くした目で俺を見ている。
「急にどうしたの?」
「お前を誤解してたかもと思って」
ふにゃりと笑うトモの姿を見て、一人安堵した。
「僕も謝る」
「トモが?」
「嘘をついた。君と一緒の年末、嫌じゃなかったよ」
「気にしてない」
「あと君への恨みつらみを隠してたのもごめん。よっ、人生勝ち組! 羨ましいよ、このやろー!」
「俺への恨み?」
制服デートを羨ましがっている話じゃなかった? それともそっちが本音?
トモは体の向きを変えてしまい、小さな寝息が耳に届いた。反論する隙は与えてくれないらしい。
家主が寝てしまったので、とりあえず課題レポートの処理も終了せざるを得なかった。
寝返りを打ち、窓のほうに視線を向けた。
カーテンが閉まっていて外は見えないが、きっと寒いに違いない。
除夜の鐘が耳を打ち、今年という時間の区切りが迫っていることが知らされた。
心には焦りと不安が浮かび、部屋には充満したそばつゆの香りと、それを上回る酒臭さが漂う。口内には香辛料と酒、胃液がじんわりと残る。
空気を喚起しようかと悩んだけど、目蓋を下ろした。新鮮な空気を吸うにはまだ抵抗があった。
卒業旅行か……。
信じてもいいのだろうか。
酔っているときの約束は当てにならない。明日になったら、ころっと意見を変えてぽろっとなかったことにされたって不思議じゃない。
それでも、と思う。
彼は己を死人といい、文字そのものだと例えた。そして俺を読者と言った。
俺といる間は自分を殺さなくていいという意味だとしたら。
この時間だけが素の自分でいられるのだと、そういう意味だとしたら。
俺も同じだ。トモといるときは、自分らしいと思う。自分らしさの定義なんて何一つしっくりこないのに。
これまでと変わらず耳を貸そう。そういうものだ、と言うまで待つよ。
たとえ二人が見てきたもの、見えなかったものすべてが
「な、もう一泊していい?」
だから俺の願いも聞き入れてくれないか。
トモに振り回されていたい。
先のことは考えたくない。
寝息が失笑に聞こえ、軽く小突いてみた。けれど何も返ってこなかった。
除夜の鐘は聞こえなくなっていた。
(続)
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