近所の少女に賽銭泥棒と間違えられたぼくは、とっさに自分は神様だとホラをふいた。

ジェロニモ

近所の少女に賽銭泥棒と間違えられたぼくは、とっさに自分は神様だとホラをふいた。

 

 ひょんなことから18歳にしてネカフェ難民で、コンビニバイトで生計を立てているぼくは、自分のこれからの人生を神頼みしようと神社へと足を運んでいた。


そしてカネカネカネと祈っている最中、ふと賽銭箱というのはどれくらいお金がはいっているのかなと疑問が頭に浮かんだ。


 いや別に盗むとかそういうことを考えたわけではなく単純な興味本位だけども。いくら金欠気味だからと言ってさすがに犯罪行為に手を染めようとするだなんてまさかそんな。


 ……あくまで知的好奇心を満たすため、賽銭箱の隙間から目を凝らすが中はよく見えない。すると賽銭箱のそばにちょうどよい感じの細長い棒があったので、どれくらい入っているのかかき回した感触や音で確かめてみようと賽銭箱に棒をつっこむと、後ろからパシャリという音がして、ぼくは慌てて振り返った。


「お兄さん、これって泥棒のげんこーはんですよね!」


 そこには赤いランドセルを背負った少女がスマホを構えて立って、ぼくを睨んでいた。


「ち、違う。別に盗もうとしたわけじゃないんだよハハハ」


 ぼくは笑いながら棒を放り捨ててごまかした。……やってから気づいたが、明らかに盗もうとしていたやつの反応である。


 少女はぼくをじろじろとひとしきり観察した後、ランドセルの側面についている防犯ブザーに手をかけた。実に賢明な判断だ。


「ぼ、ぼくは神様だ!」


 ぼくがそう叫ぶと、少女は気圧されたように後ずさった。


「な、なにいっているんですか」


 本当にぼくは何を言っているんだろうか。ドン引きした様子の少女を見てそう思った。


 しかし吐いたツバは飲み込めないのである。ぼくは嘘に嘘を重ねるべく口を開く。


「こ、この賽銭箱は、神様へのお願い料金みたいなもんだから、ぼくが神様なら手をつけてもなんの問題もないはずだ」


 ぼくはさも自信ありげに語った。内心では心臓がばくばくである


「そ、それはたしかにいい、のかな?」


 どうやら少女はそこまで頭のできが良くないようで、どうにか騙せそうだった。


「お兄さん、本当に神様なの?」

「むろんだ」


 訝しげにじっとりとした目を向ける少女から目をそらすことなくぼくは答えた。むろん嘘だ。なんなら人間の中でもわりかし下に位置するゴミ寄りの人間だったりする。


「じゃあ、もしお兄さんが神様だって言うんなら、わたしのお願いを叶えてみせてよ。もしできたら、お兄さんが泥棒じゃないって信じてあげる」

「いやあ神様も暇じゃないんでねえ、それはちょっと厳し」「でももし無理だって言うならわたし、賽銭箱のお金を自分のものだって取ろうとした自称神様のこと警察に通報しちゃうから!」


 そう言って少女が向けてきたスマホの画面には、ぼくが賽銭に手を突っ込んでいるところがばっちりと写っていた。有力な証拠になりそうだ。

 例えぼくが盗むつもりなどなかったと言ったところでいたいけな少女とネカフェ難民、どちらを信じるかは試さなくともお察しである。


「わたしはお兄さんが泥棒しようとしてたしょーこを持ってるんです。だからお兄さんが泥棒じゃないと言いはるのなら、神様だっていうしょーこを見せるのがスジってもんでしょう!」

「はいおっしゃる通りでごさいます」


 小学生の少女に正論を叩きつけられたぼくは、どうあがいてもこの子には勝てないのだと自分の敗北を悟った。


「ところでそのぉ、貴方様のお願いというのは……」


 ぼくは手をすりすりと手をこすり合わせて、少女にへこへこと頭を下げる。


 同時に、少女が学校をなくしてとかお願いしようものならダッシュで逃げようと心の準備をした。


「じゃあ、そうだなあ。うーん」


 少女は指を顎にちょこんと添えて考え込む。彼女はちょっとしてから、


「あのね、いつも学校でわたしにちょっかいをかけてくる男の子がいるの。その子の意地悪をやめさせてくれたら、お兄さんが神様だってちょっとは認めてあげる」


 願いを叶えてもちょっとしか認めてくれないらしい。


 というかその男の子っておそらく、好きな子についつい意地悪をしてしまうという小学生特有の素直になれないやつなんじゃ……。


「あと、自称神様のお兄さんはなんていうの?わたしはね、さくらっていうの!」

「ぼくの名前は西条かける」「え?神様がそんな普通な名前なはずないし、やっぱりにせも」「というのは世をしのぶ仮の名前で、ぼくの真の名はヤドナシノ神だ」


 少女の防犯ブザーに伸びた手が止まって、ぼくはほっと息を吐いた。


「そうなんだ! じゃあよろしくねヤドナシさん!」

「うんよろしくねさくらちゃ」「もしお願いが叶えられなかったら、わかってるよね?」


 純真そうな笑顔を浮かべてそう訴えかけてきた少女に、ぼくは最近の小学生って怖いなあと思った。


「はい!神様全身誠意がんばらせていただきます」



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 意地悪をしてくる男の子の名前はひろと君というらしい。ぼくはさくらちゃんに頼んで、そのひろと君を神社まで呼びだしておいてほしいと頼んだ。


 勝手なイメージで太ってそうだなって思ってたけど、普通にかっこいい感じの子がやって来た。足とか速そう。

 少年はそわそわとした様子で髪をいじりながらあたりをきょろきょろしていた。ちなみに現在は約束の1時間前である。初デートに行く女の子かよ。


「残念だけど、さくらちゃんは来ないよひろと君」

 茂みに隠れていたぼくが、すっと少年の前に歩いていく。

「だ、だれだよお前」

「ぼくはヤドナシノ神だ」

「なにおまえホームレスなの……?」


 少年は気の毒そうな目でぼくを見た。同情するなら家をくれ。


「ぼくは神様なんだよ少年」

「神様なんているわけないだろバカじゃねえの?」


 ……ぼくもウンウンと頷きたくなるごもっともなお言葉である。


「それはそうなんだけどね。ぼくは神様にならなきゃならんわけだよひろと君」

「気安く下の名前で呼ぶなし」


 ひろし君は、ぼくが肩においた手をぺしっと払った。


 こうやってみると、さくらちゃんは即通報しなかっただけ温厚な反応だったのかもしれないと思い始めた。


 さて、本題に入るとしよう。ぼくは仕切り直しの意味も込めて、ごほんと咳払いをして口を開いた。


「ずばり、君はさくらちゃんのことが好きだな!?」


 ぼくは探偵が物語のクライマックスで犯人を言い当てるときのように勢いよくひろと君を指さした。


「は、はあ~? べ、べべべ別にそんなんじゃねえし。あんなやつ暗いやつ、ぜ、全然好きじゃねえし!」


 少年の言葉を要約すると、「ぼくはさくらちゃんが大好きです」ということらしい。顔を真っ赤にしての自白をどうもありがとうございます。


 しかしあの少女が暗いとは。あのレベルの子が暗い判定されるくらい今の子供って騒がしいのだろうか。ぼくは動物園を想像した。


「ところがここで問題があるんだよひろと君」

「だから気安く名前で呼ぶなし」

「なんとぼくは君の大好きなさくらちゃんから、君に意地悪をされてとても迷惑しているからどうにかしてほしいとお願いされてだね。このことについてどう思うかな、ひろと君」

「べ、べつにどうもおもわねえし……。むしろうざかったから清々するっていうかあ……」


 少年は目の端に涙をにじませながら震え声で強がった。自業自得と言えなくもないが、見てるこっちの心が痛くなってくるほど見事な落ち込みっぷりである。


「だがしかし!君にはまだ彼女と仲直りできるチャンスがあるんだよひろと君」

「ちゃ、チャンスってなんだよホームレス!」

「ホームレスって呼ぶなし」


 少年は名前を呼ぶなと言うのも忘れ、食い気味にぼくの言葉に飛びついた。


「おやあ? ひろと君はさくらちゃんのこと、どうでもいいとか言ってなかったっけ?」


 ぼくがそう言うと、少年は「そうだし! べ、べつに全然興味ねえし」とそっぽ向く。


「君はこんな感じで、謝れと言ってもどうせ素直に謝ることはできないと思う」

「な、なんでおれがさくらなんかに謝らなきゃならねーんだよ!」


 ご覧の通りである。


 多分、今回のお願いは、ひろと君が一言ごめんなさいといえば解決する話だ。それでさくらちゃんとこの少年が仲良くできるのかどうかは別として。


 しかしひろと君が変な恥ずかしさやプライドのせいで素直になれないのは、さくらちゃんが好きなのに意地悪をしてしまっている時点でお察しである。


 小さい頃のぼくも似たようなものだったからよくわかる。そういうやつが謝るには、それなら謝っても仕方がないなー。仕方ないから謝ってやるかあーと思えるきっかけが必要なのだ。じゃないと自分からなんて死んでも謝れないのである。


「だからぼくが、君が素直にごめんなさいを言える免罪符をあげよう」


 ぼくはそう言ってにんまりと笑った。



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 次の日、今度はさくらちゃんを神社へと呼び出した。


「ひろと君、いっつもうざい絡み方をしてくるのに、今日はチラチラ見てくるだけでなにも言ってきませんでした! お願い叶えてくれたんですか?」


 がさりと茂みが揺れた。……あそこには待機して合図を待っているひろと君がいたはずだ。少女の言葉にひろと君は大ダメージをさけられなかったらしい。これからの演技に支障がでないことを祈りたい。


「そのことなんだけどね。実のところまだなんだよ。だけど防犯ブザーから手を離して話を最後まで聞いてほしいかな」


 流れるように防犯ブザーに手をかけた少女にぼくは早口でまくしたてた。


「まだお願いも叶えられていないのにおめおめとなんのようですか?」


 ぱっちりとした大きな目がぼくを貫いた。


「いやね? どうもひろと君はどうやら君のことを嫌いだから意地悪をしていたわけじゃないようなんだよ」

「そんなはずない! だってひろと君、消しゴムをぶつけてきたり、上履きを取ってきたり、嫌なことばっかりするんだもん!」


 またがさりと茂みが揺れた。うん。完全に嫌われて当然ではある。


「まあ行動的にそう思われても仕方ないと思うけど、そこは本人に聞いたほうが早いと思うよ」


 ぼくはパンパンと手を叩いた。すると、スタンバイしていたひろとくんがゆらゆらと不安定な足取りでゆっくりとこちらに歩いてくる。


 その足取りも、目の焦点も定まってなかったりのはべつに少女の発言にショックを受けて意気消沈しているからではなく、そういう演技をするようにぼくが頼んだからである。……たぶん。


「え?ひろと君」


 突如現れたひろと君の様子がおかしいことに気づいたのか、少女はすこし心配そうに声をかけた。


「このひろと君、なんと今は聞かれたことになんでも正直に答えるよう魔法をかけてあるんだ」

「それって洗脳なんじゃ……」


 と少女がつぶやくがなんと人聞きの悪い。ただの素直になれる魔法である。


 もちろん本当に洗脳……魔法なんて使えるわけもなく、ただの演技だ。洗脳されているという体なら、無駄なプライドとかを気にせず素直に話せる可能性が高いだろうと踏んでやってみた。


 下準備として、ひろと君には洗脳されてるんだから素直に話しちゃっても仕方ない、かっこわるくないということをこれでもかと吹き込んでおいた。だから、そういう意味では洗脳というのはあながち間違いではないものかもしれない。


 しかし、そこまでしてもひろと君が謝れない、救いようのない意地っ張りだった場合、すぐさま逃げられるようストレッチは完璧である。


「たとえば……ひろと君、君がさくらちゃんに意地悪してしまったのはなぜなんかな」

「さくらと仲良くしたいけど、どうやって関わればいいかよくわからなくて、ついいじわるな感じになっちゃった」


 どうやらストレッチは無駄に終わりそうだった。


「じゃ、じゃあ、ひろと君はわたしにいじわるしたことについてはどう思ってるの」


 少女が戸惑いながらもひろと君に尋ねた。


「いじわるするたびに、本当はこんなことしたいわけじゃないのにって思って、たけど、自分から謝るのはなんか恥ずかしくて、素直にあやまれなかった。……ごめんなさい」


 そう言って、ひろと君が頭を下げた。お膳立てしたにしても、こうも素直に謝れるところからみて、少年も根はいいやつなんだろうなあ。……アプローチが致命的に下手だっただけで。


 ぼくはふと良いことを思いついて、もう一つひろと君に質問を投げかけることにした。


「それで、ひろと君はさくらちゃんのことをどう思ってるのかな」

「お、おれはさくらと……と、ともだちになりたいです」


 告白できるシチュエーションを整えてみたけど、どうやらひよったらしい。まあ、まずはお友達からというのも定番だ。


 問題は、友達になりたいと言われたさくらちゃんの方がどうするかである。


「今更、どんなに謝られてもいじわるしてきたことは許さない!」


 少女がそう言い放ってそっぽを向き、ひろと君の瞳がずーんと暗くなった。


 しかし、少女がもう一度ひろと君の方を見て口を開く。


「……でも、悪気はなかったっていうのはわかったから、とりあえずしっこーゆうよということにしておいてあげる!」


 そしてそう付け加えた。


 つまり、次に同じようなことをしたら有罪ということだろう。少年が執行猶予という言葉が理解できたかは定かではない。しかし許してもらえたということはなんとなく伝わったのか、ひろと君に口角があがるのを押さえられないらしく、にへらー、とだらしない顔をしていた。


 その表情を見た少女は、「うわあ、洗脳ってこわい……」と完全に引いていた。少年には今後、少女の前で同じ顔を披露しないよう注意しておこう。


 ぼくは再度手を叩いた。演劇終了の合図である。


 まあ、演劇と言っても決めておいたのは最初の出てくるときと、終わりの合図くらいなものだ。だから、ひろと君の少女に対する誠意が嘘ということはないだろう。だから、きっとこれから先もなんとかなりそうな気はする。


「う、うーん。ここはどこだあ?」


 少年が棒読みでそう言いながら目をこする。


「えー、ひろと君のせんの、じゃなくて魔法を解いたよ。で、お願いはこんな感じでいいかな?」

「うん!」


 少女がうなずいたのを見て、ぼくは一安心した。


「ではぼくはこれで天界へと帰ることにするよ」

「え?まだだよ!」


 少女は適当に話を締めて逃げようとしていたぼくに待ったをかけてきた。


「だって神様って願いごとを3つ叶えてくれるんでしょ?」


 それはランプの魔神や。いやたしかに神ってついてるけどさあ……。


「だから次は2つ目のお願い! これが叶えられたら、本物の神様だって信じてあげる! そしたら3つ目の、わたしの本当のおねがいを教えてあげるね」


「いやあそのそれはちょっと聞いていた話が違うというか……」


 ぼくがそう言うやいなや、彼女が何も言わずに防犯ブザーに手をのばしたのが見えた。


 ぼくが彼女の言葉に反抗の意志を示そうとする度に、彼女の防犯ブザーへの動きは洗練され、ぼくの諦めが早くなっていく。


 ぼくは、もはや無言で少女に向かってどうぞと手のひらを向ける。


 彼女はぼくの身振りの意図を理解したらしく、その整った顔を輝かせて口を開いた。


「2つ目のお願いはね、最近喧嘩してるわたしのパパとママを仲直りさせてほしいの!」


 彼女は天使のように笑った。 ……ぼくにとっては悪魔の笑みなのだけども。



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 さくらちゃんをもう遅いからとか、運勢が悪いとかなんだかんだ適当な理由をつけて家まで送った。残った少年も家に送っている最中、


「つーか結局おまえが神様ってどういうことだよ」


 と少年が聞いてきた、自分の好きな少女がぼくを神様と呼ぶことにえらくご立腹らしい。そんな少年にこれまでの経緯をざっくばらんに説明したところ、「おれ、おまえみたいな大人にはなりたくないわ」という言葉を心底軽蔑したような視線とともに頂戴した。


「ぼくもこんな大人にはなりたくなかったんだけどなあ」

「……なんかごめん。」


 虚空を見つめていたぼくに少年が謝ってきた。


「いいんだよ」


 謝られたほうがむしろ辛くなるからやめてくれ。小学生に気遣われるという事実に、さっきからなぜか胸が痛んで困るのだ。


「あのさー、さくらのお願い、おれも手伝ってやるよ」

「お?なんだ好感度稼ぎか?」

「別にそんなんじゃねーよ!」


 ぼくがからかうと少年は顔をすぐに真っ赤にした。


「おれはただ……」「かける?」


 少年の言葉を遮るように背後からした聞き覚えのある声に振り返ると、そこにはジャージ姿ですこし息を弾ませる短髪黒髪の女、ぼくの幼馴染が立っていた。


「ひ、ひさしぶり」


 と手を中途半端な高さに上げるがまったく反応がなかった。いやそっちが声をかけてきたんだろと思うが、まあ、学校をやめてから疎遠になったし仕方ないかなとも思う。


「……あんたなにやってんの?」

「なにって、知り合いの小学生を家に送ってる最ちゅ」「そういうことじゃない。高跳びも、学校もやめて、今なにやってんのかって聞いてんの」


 彼女はすこしイライラしたような荒い口調で聞いてきた。


「い、今はコンビニでバイトしてるよ」


 頭に今はという単語を付け加えることで、とりあえずはそうだけど、これから先はわかんないからという意思をアピールした。


「おまえ働いてたの?」


 と横で少年が驚愕したように目をまんまるに見開いてぼくを見てきた。ほっとけ。


「コンビニでバイトね……」


 幼馴染は意味ありげにつぶやいて、


「小学と中学の陸上大会で全国一位だった西条かけるがそこまで堕ちたんだ」


 心底失望したような顔で彼女はそう吐き捨てた。


「い、今はわけあって、ある女の子のお願いを叶えてるんだ。別に将来なんの役にも立たない高跳びなんかよりよっぽどやりがいがあるよ」


 なんだか蔑まれているような気がして、気づけばぼくはそんなことを口走っていた。



 だけど自分で言っておいて、「高跳びなんか」と口にした瞬間、吐き気と自己嫌悪感がこみ上げてくる。


「高跳びからも、学校からも、わたしからも逃げた臆病者のあんたが他人の願いを叶えるって?」

「ッ!」


 彼女の言葉に何も言い返せないぼくを、彼女は鼻で笑って、顎にしたたった汗を腕で拭った。


「……別に今なにをしてようとあんたの勝手だけどさ。どうせすぐ逃げるくせして、中途半端にできもしないことを期待させるのは迷惑でしかないからね」


 彼女の、まるで人殺しでも見るかのような冷えた瞳がぼくを射抜いていた。


「体が冷えるから、じゃあ」


 そう言ってまた走りはじめた彼女が遠くへ見えなくなるまで、ぼくは一言も発することができなかった。


 なぜなら彼女に言われたことがすべて図星だったから。事実、ぼくは今日だってさくらちゃんから何度も逃げようとしていたのだ。


 さくらちゃんのお願いは、流れ上仕方なくやっていたことだったはずなのに、それを否定されたことがなぜだかたまらなく悔しくて。そしてなにより彼女の言い分はその通り過ぎて、あれだけ散々いわれたというのにかけらも怒りは湧いてこなかった自分が悔しくて、気づけばぼくはぎりぎりと歯を食いしばった。


「実はおまえってすげえやつだったるすんの?なんだっけ?幅跳び?」


 少ししてからひろと君がそう話しかけてきて、嫌な会話を聞かせてしまった申し訳無さとか、かっこわるいところを見られてしまった恥ずかしさとかが一気に溢れてきた。


「幅跳びじゃなくて高跳びな」


 ぼくはそれを悟られてこれ以上かっこわるさを重ねないよう、なんにも気にしてなんかないような態度で答える。


「そう。それ」

「……正しくは、すごかったやつだな。今じゃあ何にもありゃしないさ」

「ふーん。確かに家もないもんな」

「強いていうならネカフェがぼくのホームだな」

「やっぱりおれ、おまえみたいな大人にはなりたくないや」


 本日二度目の反面教師扱いである。また少年を正しい方向導いてしまった。


「……おまえみたいな大人にはなりたくないけどさ、もし本当におまえになんにも無いならさ、おれは今おまえを手伝おうなんてしてないけどな」


 そんなセリフが続いて、ぼくは目を見開いて驚いた。目線を下におろすと、そこにはぶすっとそっぽ向いた少年の横顔がある。


「おまえ、ガキ大将の次はツンデレに転向したのか?」

「うるせえバーカ!」


 少年はそう叫んで、ぼくの股間を蹴り上げた。




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 小学生たちには学校が終わったあと神社にきてもらった。そして、少女の2つ目のお願いの内容を詳しく聞くことにする。


「あのね、このあいだトイレに行きたくなって夜起きたの。そしたら、リビングからなにか言い争ってるみたいなパパとママの声が聞こえてね?」


 ―――アレのことどうするのよ!―――俺だってあんなのの面倒みるのなんかごめんだ!


 ぼくの脳裏に、小学生のとき少女と同じように夜起きて、離婚話をしている両親の喧嘩を覗き見ててしまったときのことがフラッシュバックして、呼吸が荒くなった。


「おまえ、なんか汗すごいぞ? 病気か?」

「ヤドナシさんこれ使う?」


 二人が、心配した様子でぼくを見上げている。


「あ、ありがとう」


 少女が差し出されたピンクのハンカチで、ドロっとした汗を拭う。あとで洗わないと。


「それでね、リビングを覗いたら、パパとママはすぐにわたしに気づいて喧嘩をやめて、もう寝なさいって言ってきたんだけど……」


 少女が両親の喧嘩を聞いていないとわかってぼくはほっとした。


「内容を確かめようにも、わたし、眠くておきてられないから。……だからヤドナシさん。なにで喧嘩してるかはわからないけど、パパとママを仲直りさせてほしいの」


 少女はうるんだ瞳でぼくを見た。ぼくは息を吐いて、自分を落ち着ける。大丈夫。ぼくはあいつが言うみたいに、途中で逃げたりなんかしない。


「よし、じゃあこれを使おう」


 ぼくは自分のスマホを取り出した。


「電話するの?」

「いや、録音機能を使うんだ。多分、夜の間ぐらいなら余裕で録音しつづけられるから、これを喧嘩してた部屋に隠しとこう」

「おまえ、それ盗聴なんじゃねえの?」

「おまえ、そんな人のことを犯罪者でも見るかのように……」


「だってそうじゃん」とでも言いたげに少年は更にぼくを睨んだ。


「まあ、さくらちゃんに許可を取れば大丈夫だろ」

「うん。それでパパとママの喧嘩の理由がわかるなら、わたしやる!」


 そう言って、少女は両手をぎゅっと握りしめて、「ふん!」と力強く鼻から息を出した。


 なんだか不服そうな少年を尻目に、少女に録音機能の使い方を伝える。幸い、彼女はぼくの使っているスマホと同じ機種だったのでスムーズに教えることができた。


 そしてぼくは最後、少女に一つ大事な約束をもちかける。


「それと、録音された音声の内容は絶対聞かずに、朝、ぼくの連絡先に添付してくれ」

「えっと、よくわかんないけど、わかった!」

「じゃあ、約束だよ」

「うん! じゃあ盗聴器、ばれないように仕掛けてくるね!」


 通行人がいたらぎょっとするだろう発言をしながら笑顔で手を振る少女を見て、少年がなんとも言えない顔でぼくを睨んだ。うん、ごめんて。


「……なあ、なんで録音聞いちゃダメなんだよ? だって確かめないと本当に喧嘩が取れてるかとかわからないだろ?」


 少女が見えなくなったあと、少年がもっともなことを疑問を投げかけてきた。


 小学生のころ……彼女と違って両親の喧嘩をしっかりと見てしまったぼくは、その内容のあまりの気持ち悪さにトイレに直行した。それは尿意が限界に達したためではなく、吐き気を催したからだ。少女に、同じようなことになってほしくなかった。それが彼女に録音を聞いてほしくなかった理由だ。


「おまえは両親が喧嘩してるの聞いたらどう思う?」

「あー、そっか」


 それをマイルドにして伝えると、少年は納得したようにうなずいた。しかしすぐにうーんと唸る。


「なんか納得いかなかったか?」


「いや、そのとおりだと思ったよ。でも、あんなこと言われたら、おれだったら絶対聞いちゃうけどなあって」


 少年が漏らしたつぶやきは、ぼくをたまらなく不安にさせた。


 そして次の日、学校は休みで、ぼくもバイトがないので昼から神社に集まることになっていた。しかし朝、さくらちゃんに頼んだ録音データは一向に送られてこなかった。


 寝坊かとも思ったが、昼前になっても少女からデータが送られてくる気配がなかった。ぼくとひろと君が神社ついて、集合時間になっても少女は現れない。そして、集合時間の2時間後、ようやくぼくたちの前に姿をみせた少女は、目の周りを赤く腫れさせていた。



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「わたし、わだじのせいでっ。パパとママなんにも、わるぐないのに」


 少女は泣きながら、ぼくたちに約束を破って録音を聞いてしまったと告げた。そして、喧嘩の理由が自分のせいだったと泣き崩れた。


「ごめん。ぼくがこんなやり方を提案したばかりに」

「ううん。ヤドナシさんはダメって言ってくれてたのに、わたしが勝手にきいじゃっだがらあ。うあああん」


 少女はそう答えて、天を仰いで大粒の涙をぼろぼろとこぼした。ぼくはそんな少女にどうすることもできず、ただただ背中をさすった。


 しばらくして泣き止んだものの、疲れたのかうとうととしだした少女をおぶって家へと送ったあと、ぼくとひろと君だけで神社に戻った。


「怒らないんだな」


 てっきり少女を泣かせてしまったことをひろと君に殴られるぐらいはしょうがないかなと思っていたので、予想より静かな少年にぼくはそう問いかけた。


「……まあ勝手に見たのが悪いだろうし、しょうがないだろ。正直ちょっとムカついてはいるけど、それ聞くのが先だろうし」


 そういって少年が、さきほど録音データを添付してもらったぼくのスマホを指す。


 ぼくは自分の左耳にイヤホンをはめて、少年にイヤホンの右耳部分を渡した。少年が耳にイヤホンをはめたのを見て、ぼくは録音を再生する。そして無音の箇所を飛ばして、目的である喧嘩しているところを探した。


「――若葉が事故にあってから、あの子はすっかり暗くなって。いいかげんなんとかするべきだろう」

「あの子はまだ11歳よ? それなのに突然おねえちゃんをなくして、向き合えないのも仕方ないじゃない。あの子が自分で向き合うまで見守ってあげましょうよ」

「俺もそう思って一年間待ったさ。なのにあの子は今じゃめっきり友達とも遊ばなくなって、最近は黒魔術だとか神様だとか、なんだかよくわからないあやしい本ばかり読んで、元通りになるどころか、どんどんおかしくなってるじゃないか」

「まだ一年でしょう?」

「まだじゃなくてもう一年だ!あの子、若葉のお見舞いにだって一度も行こうとしないんだぞ!」

「あの子もあんなことになってしまったおねえちゃんを見るのが辛いのよ! どうしてあなたはそれを――」


 ……喧嘩は約二時間ほど続いていた。内容はだいたい、若葉という人になにかがあってから、変わってしまったさくらちゃんのことを心配するものの、さくらちゃんを見守るべきという母親と、そろそろ現実と向き合わせるべきという父親の口論がヒートアップしていくものだった。


「……さくらのねーちゃんさ、20歳の時、不幸な事故にあったんだって。歳の離れた姉妹だったらしいから、俺は会ったことも見たこともないんだけどさ。それで今は、なんだっけ?植物状態ってやつらしいって、母ちゃんが言ってた」

「そう、か。」


 静かなトーンで言う少年に、ぼくはなんとか返事を絞り出した。


「なあ。この喧嘩って、そんなに悪いものなのかな?」


 少年がそう呟いた。


「そりゃあ言い争ってるけどさ、さくらのためになにかしようっていうのはどっちもおんなじなんだと思うんだ。喧嘩するほど仲良いとか……それはちょっと違うかもしれないけど」

「どうだろうな」


 どちらも少女のためを思うがための喧嘩というのは、ぼくも感じた。

 でもだからこそ、少女にとってはそんな両親が自分のために喧嘩をしてしまったということが一番堪えたのかもしれない。


「おれもおんなじだったんだ」

「ん?」


 ぼくは少年の主語が定かでないセリフに首をかしげた。それは少女の両親と、ということだろうか。


「おまえに素直になれる魔法っていうのかけられてた時さ、おれちょっと嘘ついたんだ」

「まあ、人間嘘くらいつくだろ。それにさくらちゃんと仲良くしたがってたのは本当だって、会ったばかりのぼくでもすぐにわかったし」


 その気持ちが嘘じゃなかったなら、細かいところはどうでもいいと思う。


「それが……嘘だったんだ。いや、仲良くしたかったのもあったけど。おれ、さくらとは四年連続で同じクラスでさ。けどこれまでは全然絡みにいけないどころか、声もかけられなかったんだ。ちょっかいとかそういうレベルじゃなくて、まったく一声もかけれられなかった」


 それでよく好きになったもんだとぼくは呆れた。一目惚れだったんだろうか。


「あいつ姉ちゃんが事故にあってからめっきり暗くなってさ。学校でも喋らなくなって、友達付き合いも悪くなって。だんだんみんな、あいつのこと避けるようになってさ」


 少年がもたらした情報に、ぼくは息をつまらせた。


 ぼくにとっては眩しいほどに明るく、笑顔の似合う子だと思っていたさくらちゃんが、学校でそんなふうだとはまったく想像できなかったから。



「おれがちょっかい出すようになったのは、たとえ怒ってもいいから、前みたいに元気になってほしかったからなんだよ。さくらのお父さんも、そんな感じなのかなって。……まあ、俺の場合、結果はああなっちゃったけど」


 そう言って少年が頬をかいた。


「でさ、この神社でお願いのことを話してるさくらは、昔みたいな笑顔で笑ってた。だからさ、その、あり、あり……」


 少年は口をもごもごさせた。なんだ?アリーデヴェルチか?


「ありがとうよ。さくらを元気にしてくれて」


 それは感謝の言葉なのに、ぼくの胸はぎゅうっと締め付けられるように痛んだ。


「……結局ぼくがしたことは女の子を泣かせて現実を突きつけただけだよ。やっぱりあいつの言う通り、ぼくがやってるのは、ただの無責任なありがた迷惑だったのかな?」

「なに?おまえ、あの怖いねーちゃんに言われたことまだ気にしてんのかよ」

「おまえがもしさくらちゃんにあんなことを言われたことを想像してみろ。そりゃ気にするだろ」

「え、なにおまえ、あのねーちゃんのこと好きなの?」


 少年が「ドMかよと」と引き気味でつぶやいた。そうだよ。あんな扱いされるようになってもこっちは初恋をずるずる引きずってんだよ悪いか。


「おれはおまえがなにしてたとか、あの女の人のこととか、逃げたとかいろいろ言われてたこととか、よくわかんなかったんだけどさあ……」


 少年はがしがしと頭をかいてぼくを見た。


「少なくとも今ここでさくらのこと途中でなげ出したら、また逃げるってことになるんじゃねーの?」


 その言葉に、ぼくはハッとなる。


「おれバカだからさ、なんにも思いつかないんだ。元気だしてほしいって思ってやったのが嫌がらせって時点でわかるだろ?」

「まあ、男の子はみんな一度は通る道だから気にするなよ」

「うっせ。……だからさあ、なんか考えてくれよ。おれに魔法をかけてくれた時みたいにさ。おれホントに感謝してんだぞ。一人だったら、さくらに絶対謝れなかったからさ」


 少年は本日二度目となるぼくに対する感謝を言って、照れくさそうに耳を赤くして唇をとんがらせた。


 ……幼馴染に少女の願いを叶えていると言った時、おまえには無理だと言われてなぜ悔しくなったのかがわかった気がした。少女も少年も、なにもないゴミだと思っていた今のぼくに期待してくれたというのが嬉しかったのだ。


「そう、だよなあ。あんだけ言われといて、逃げちゃあダメだよな」


 たとえぼくが今までいろんなことから逃げ続けてきたのが事実だったとしても、またここで適当な理由をつけて逃げたら、幼馴染にそれ見たことかとより一層失望されることだろう。そんなのはごめんだった。


 そしてなによりぼくに期待してくれている少年や、たとえ神様と勘違いしているからだとしてもぼくに願いを託してくれた少女の期待に応えられなんて、死んでもごめんだった。



「そうだよ。べつに逃げたとかさあ、もうすんだことだろ。別に今から向き合えばいいだけじゃん。あ、そうだ。ぐわあああっ」


 なにやら少年が両手をぼくの方に向けて、変な叫び声を上げながら力みだした。


「どうしたんだ急に」

「おまえに勇気が出る魔法をかけた」


 少年はドヤ顔でそういった。


「おお、なんだが勇気が溢れる!今ならなんだってできるぞ!」

「見てるこっちがはずかしいからやめろよそういうの」


 腰をおとしてポーズを取るぼくを見て、少年は顔を手で覆った。おまえがやりはじめたんだろうが。


「……魔法ありがとうな」

「やめろ髪型がぐちゃぐちゃになるだろ」


 ぼくが少年の頭を撫で回すと、手で払われる。髪型なんか気にしてませたガキだ。小学生など、寝癖びよんびよんでも気にしないくらいがちょうどいいんだよ。


「……やっぱさ、ぼくは今まで逃げてきたってことに負い目があるんだと思う。だからさくらちゃんの件にも、首をつっこんでいいのかなって自信がないんだ。だから、おまえの言う通り、今から向き合ってくることにするわ」


 でないとぼくは少年や少女とは向き合えない気がするから。


「え?どういうこと?」


 意味がよくわからないのか、少年はおまえなに言ってんだって顔をしてた


「まあ、ちょっと幼馴染に会いに行ってくる」

「……いやおまえ、それはさすがに勇気だしすぎじゃないか?だってあのねーちゃん、おまえのこと殺しそうな目で睨んでたぞ」


 ぼくはあの冷えた目を思い出して怖気づきそうになったが頬を手のひらで叩いて気合を入れ直した。


「大丈夫だ。なんたって今はなぜだか勇気が出て仕方がないんだからな!」


 キメ顔をしながらそう叫んで、ぼくはそのまま神社の階段を駆け下りていく。


「がんばれよー」と背後から少年の声が響いてきた。



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 ぼくとあいつは腐っても幼馴染である。昔はよく遊んだから当然家だって知っている。


 しかしぼくが今あいつを待っているのは以前ひろと君を送っている途中、ばったり出会ってしまった小道だった。


 あの時会ってしまったのは偶然ではなく、この道はあいつが昔から毎日走っているランニングコースだったのだ。一緒に走ったりもしてた。ぼくが恥ずかしくなって、タイミングをずらして走るようになったけど。


 ……いまさらながら一人になるとやっぱりやめとこうかなとか、今日はお腹いたいし明日にしとこうかなとか、思考が逃げるための言い訳で溢れてくるぼくは根っからの臆病者なのだろう。


 しかし、少年にかけて貰った魔法は未だ効力を発揮していた。だって少年の魔法がなかったら、ぼくは言い訳に負けてすでに逃げてしまっていただろうから。


 ぼくは深呼吸で湧いてくる言い訳をかき消しながら、あいつを待った。


 あいつがぼくと遭遇したコースを避けるという可能性もあったが、どうやらその心配はなかったらしい。


 目の前から見覚えのあるフォームでこちらに走ってくる人影が見えた。


 ぼくに気づいた彼女は立ち止まって耳からイヤホンを外す。


「ちょっと話いいか?」

「するならすぐにして」


 ぼくがそう聞くと、彼女はとげとげしい声で吐き捨てた


「おれ、たぶんおまえの言う通り、逃げてばっかりいた。でも学校や高跳びはどうしようもないけどさ、弱い自分と、おまえからはもう逃げないようにしたいんだ」


「っ!高跳びだって怪我は治ってもう跳べるくせしてどうしようもないとか言う、そういうところが逃げてるって言ってんのがわかんないの!?」


 彼女はぼくの言葉に顔を歪めて声を荒げた。しかし彼女の言うことはもっともだ。彼女には確かにそう伝えた。ただ……


「怪我は、治った。でもさ、実は跳べないんだ。助走をして、いざ跳ぼうとしたときだけ、足に全然力が入らなくなる。まるで自分の足じゃないみたいで、結局怪我が治ってから退学するまでの半年間、一度も跳べさえしてないんだ。」


 ぼくがそう言って頭をかくと、彼女はさっきまでの怒りが嘘のように豆鉄砲でも食らったような顔をした。


「う、嘘。だってわたし、あんたからそんなの全然、一言だって聞いてない。それに今だって普通に走って……」

「医者が言うには、怪我したときのことがトラウマになってるせいなんじゃないかってさ。そりゃあ他の人には言ってないから知るわけないよ。特に、おまえにだけは知られたくなかったから」

「……なにそれ。そんなことわたしなんかに言ったところでどうしようもないと思った!? それともわたしはあんたにとってそんなに頼りなかったわけ!?」


 先日の冷めた彼女とはまるで別人のように、今日の彼女は怒り狂っていた。


 この前はひろと君がいたこともあって、感情をセーブしていたのかもしれない。


「……ぼくさ、このまえ18の誕生日だっただろ?」

「そんなこと今は関係ないでしょふざけないで!」



 腐っても幼馴染の誕生日をそんなこと扱いとは随分嫌われたものだ。しかしぼくだって祝ってくれなくて悲しかったなんて話をするために言ったわけじゃない。


 ぼくはごくりとつばを飲み込んだ。大丈夫。ぼくには少年の魔法があるのだから。


「誕生日にさ、親に勘当されたんだ」

「あんた、なに……言ってるの?」


 そう言う彼女の瞳は大きく揺れていて、動揺しているのが見て取れた。


「うちの親、離婚してるのは知ってるだろ?」


 そう聞いても、彼女はうなずくでも声を出すでもなく固まったまま反応がなかった。


「もともと夫婦仲が良くないというのはぼくも幼いながらになんとなく理解はしててさ」


 彼女が聞いてはいることを信じて、ぼくは話を続けた。


「初めての高跳びの大会で、ぼくの応援にきた時は二人とも仲良さそうに笑っていたんだ。それをみてぼくががんばれば、父さんと母さんは仲良くしてくれるんだって思って、必死で練習したよ。」


 ただ、仲が良さそうに見えたのは単純に、ただの世間体というやつだった。当時のぼくにはそれが分からず、大会の応援にくる両親を見るたびに、ぼくが頑張れば父と母が仲良くしてくれるものだと勘違いして、必死に高跳びの練習に励んだ。


 しかしぼくはある日、両親が、離婚したらどちらがぼくの親権を持つかで言い争っているのを聞いてしまった。それはどちらがぼくの親権を手に入れるかではなく、どちらにぼくの親権を押し付けるかという争いで。ぼくは自分のしてきたことがなにもかも無駄だったことを知った。


 その数日後、両親は離婚した。ぼくの親権は父が持つことになった。


 高跳びがなかったらぼくにはもうなにもないのだと余計に練習に打ち込んで、打ち込んで。そして怪我をした。


 前十字靭帯損傷および半月板損傷。


 病院で医師から診断を聞いた父は、


「なんのために金のかかるおまえの親権を引き取ったと思ってるんだ!」


 とつばを飛ばしてぼくを罵倒した。高跳びができないお前になんの意味があるんだとか、色々言われた気がするけどよく覚えていない。父親にとって、ぼくはアクセサリーかなにかと同じ扱いだったのだろう。もしくは競争馬が近いのかもしれない。走れなくなったら処分される。それだけのことだ。


 そして半年たっても跳べないままだったぼくは、金の無駄だからという理由で退学させられることになった。


「じゃあ退学も自分でしたんじゃ……」

「でも実際ぼくもやめたいとも思ってたのも事実だよ。もともとスポーツ推薦で入ったところだったしさ。勉強もついていけなかったし」


 さっきとは打って変わった弱々しい声に、ぼくはそう答えた。


 ……ぼくが跳べなくなったのはきっと、両親に自分が価値のある存在だと証明するためという不純な動機で跳ぶようになったぼくへの罰なのだ。当時のぼくはそう思った。



 彼女が下をむく。


「……なんであんたなんにも言わないの?今までずっと一緒だったのに。わたし、今あんた言ったこと、なんにも知らなかった。なに一つ聞かされてなかった!」


 彼女は声を荒げる。うつむいているので、どんな顔かはわからないけど、握った手に力が入っているのは見えた。


「怖かったんだ。父親みたいに、高跳びができるぼくにしかみんな興味はないんじゃないかって思ってさ。おまえも、ぼくが跳べないんだとわかったら離れていってしまいそうな気がして」


 だからだるくなったとか、やめたくなっただとか適当な理由でもう跳ばないと嘘をついた。跳べないよりも、跳べるけど跳ばないという方が、まだ価値があるように思えたから。


「バカにするな!わたしがいつからあんたの幼馴染やってると思ってんだ!あんたが高跳び始める前からこっちはあんたの幼馴染やってんだ!学校やめようと、跳べなくなっても、親と仲が悪かろうがそんなのどうでもいい! なのに勝手に一人でわたしを決めつけるな!」


 顔をあげて怒鳴る彼女の顔から、キラキラと光るものが宙に散った。


「ごめん。本当にごめん」

「……わたし、あんたの幼馴染なんだ。ずっと近くにいたのに。なのにあんたの悩みとか、なんにも気づけなくて。それで勝手に裏切られた気になって、軽蔑して。……ホント救いようのないバカじゃんわたし」

「そりゃあ全部隠してたんだから、バレてたら困るよ。むしろバカさ加減で言ったら、勝手におまえのことを疑って逃げたぼくの方がひどいよ」

「もうなにも隠すなバカ!」

「ごめん」


 彼女は握りこぶしをハンマーのように使って、ぼくの胸をドスドスと叩いた。心臓が止まりそうだ。


 ……たぶん色々理由は並べたけど、結局のところ、ぼくは好きな子にかっこ悪いところを見せたくなかったのだ。両親のことも、跳べないことも。

 弱さを隠そうとすることが一番かっこわるいということに気づいたというそれだけの話。


 そして、気づかせてくれたのはあの小学生たちだ。


「なんというか、勝手に離れてどの面さげてって自分でも思うんだけどさ、また前みたいに友達になりたいんだ。……だめか?」


 ぼくは固唾を呑んで返答を待った。


「……条件がある」

「なんでも聞く」


 ぼくも、そう簡単に許してもらえるとはおもっていない。彼女と仲直りができるなら、なんだってする覚悟でここにきた。


「もう二度とわたしにかくしごとしないこと」

「うん。わかった」

「もし嘘ついたらあんたのこと殺して、もう二度と話さない。どんな言い訳も聞かない」


 たぶんそれ、殺された時点でもう二度と話せない


「うん」

「……なら、いい」

「ありが」「まだ隠してることないでしょうね?」


 彼女は涙を指で拭き取りながら、こちらを睨んだ。


 ぼくが彼女に隠していることはもうこれで全部だ。隠し事も嘘も、もうなにひとつも……「あっ」

「ほらみろ!」


 声を漏らしたぼくに、彼女がまた握りこぶしを振り下ろした。




「なんというか、今、ぼく神様やってるんだよ」

「ふざけないで」

「実は結構マジなんだよなあこれが」


 ぼくは今にもブチギレそうな彼女に今までの経緯を話した。


「わたしだったら神様だとか抜かすまえに速攻ぶっとばして警察に連れて行くけど、運がよかったね」

「つくづく見つかったのがさくらちゃんでよかったと実感してるよ」

「……やっぱり、重ねちゃったの?その子と自分のこと」


 彼女は眉を八の字にして聞いてきた。


「ちょっとね。でもあの子の両親は、あの子のために喧嘩してるんだ。だから同じだなんて言ったら失礼だよ」

「そっか。それで、これからどうするの?」

「まあ、とりあえず本当のことを言いに行こうかなと」

「通報されるかもよ?その子からしたら騙されたわけだし」

「まあ、仕方ないよ。2つ目の願いはともかく、3つ目は本当に神様じゃなきゃ、叶えられないだろうから」

「まあ……そうだろうね」


 すこし目を暗くして、彼女は同意した。彼女も少女が3つ目の願いでなにを願うか、だいたい検討がついているのだろう。


「じゃあ、出所したらカツ丼おごってあげようか」

「いらんわ」


 どっちかっていうと取り調べで食べるやつだろそれ。


「じゃあ、またな」

「うん。ラ○ンのブロック解除しとくから、連絡して」


 なお彼女の言葉でぼくはブロックされていたことを初めて知ったわけだが。



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「ヤドナシさん、仲直りの方法考えてくれた?」


 いつもの神社で、いつもよりテンションが低めの少女がどこか自信なさげに聞いてきた。


 そして、それを聞くぼくの方もあまり明るいとは言えない。


 なぜなら、今からぼくは彼女に現実をつきつけなければならないから。


「さくらちゃんのご両親の喧嘩を止めるには、きっとさくらちゃんの3つ目の願いを先に叶える必要がある。でもぼく、実は神様でもなんでもないから、君の2つ目のお願いも、3つ目の願いも、叶えられない」

「……嘘つき」


 少し沈黙してからつぶやいた少女のその一言が、ぼくの心をザクッと突き刺した。


「そうだね。嘘つきは泥棒の始まりだ。賽銭泥棒未遂でぼくを通報する?」

「……しない。というかできないよ。だってほんとうは、一番嘘つきなの、わたしだもん」


「嘘つきが泥棒の始まりなら、わたしはきっと大泥棒になるんだろうなあ。」と、彼女は曇った空を見上げた。


「わたしね、ヤドナシさんが神様じゃないなんて最初からわかってた。おねえちゃんが治らないのだってちゃんとわかってたのに。わたし、わかってるのに、わかってないって自分のこと騙そうとしてた」


 そう。さくらちゃんの3つ目のお願いはきっと、お姉さんを治してくださいだ。


 ぼくは最初、彼女のことを無垢な少女だと思っていた。こんな適当な嘘で騙せるなんて、なんてちょろい子なんだろうと。でも彼女はぼくが思うよりバカじゃなかった。


「だって神様がいるのなら本当に事故に遭うのはお姉ちゃんじゃなくて、わたしのはずだもん」

「さくら、ちゃん……?」

「わたしのせいで、お姉ちゃんは事故にあったの」


 少女から、信じられない言葉が飛び出した。


「ひろと君に聞いた話だと、飲酒運転の車に轢かれたって聞いたんだけど……」


 この少女のせいでお姉さんが事故にあうとは、ぼくにはどうも考えられなかった。


「わたし、事件があった日お姉ちゃんと喧嘩しちゃったの。わたしの大事にしてるお人形、学校の授業で使おうと思って床においてたら、部屋に入ってきたお姉ちゃんがそれを踏んづけて壊しちゃって。それで次の日、おねえちゃんが急に、M公園にきて!ってラ○ンで言ってきたんだけど、わたしまだちょっとムカついてて、無視して行かなかった。……そしたら、おねえちゃん事故に遭っちゃった」


 少女が眉を曲げて、見ていると心が痛くなるような、そんな顔で笑った。


「だからと言って、君のお姉さんはそのせいで事故にあったわじゃあ……」

「事故にあった時間、そのラインが来た4時間くらいあとで、事故にあったのは公園から帰る途中だったの」

「それは……」


 彼女が何を言いたいかを今ようやく理解した。


「お姉ちゃん、わたしを待ってたんだと思う。もし私がちゃんと行ってれば、おねえちゃんは別の時間に家に帰って、事故になんて遭わなかった。だから、わたしのせい」


 もしあのとき〇〇していれば、と悩むことは誰だってある。当然、過去に戻ってやり直すことなど不可能だから、たらればの話はいくら考えたって答えが出ることはなく、ずっと頭を悩ませ続けるものだ。……ただ、そのたらればは、少女が抱くには大きすぎた。


「……確かに君がお姉さんのメッセージを無視しなければ、お姉さんは事故には遭わなかったかもしれない。でもね、もし運転手が飲酒運転なんてしなければ、お姉さんが一分でも早く帰っていれば、事故に遭うことはなかったかもしれない。だから、君のせいなんかじゃないよ。いろんな偶然が重なって起ってしまうのが事故なんだから」


 彼女が飲酒運転をした結果事故が起こるなんてことを察するのは不可能なのだ。



「大嫌いっていったのが最後なの」


 しかしぼくの慰めも虚しく、彼女は暗い表情でポロポロと涙をこぼした


「大嫌いって言っちゃって、わたしのせいであんなことになったのに。合わせる顔がなくて、お見舞いにも行く勇気がでなくて。だっておねえちゃん、きっとわたしのことすごく恨んでるに決まってるもん。会いになんて来てほしくないに決まってる」


 ぼくは彼女から貸してもらったハンカチを、彼女に返した。彼女はそれを「ありがとう」と受け取って、涙を拭いながら鼻をすすった。


「なのにパパもママも、学校の友達や先生も、わたしに辛かったね、大丈夫だよって優しい言葉ばっかりかけてくれて。それが、すごく辛かった。……だって、本当はおねえちゃんがあんなことになったのはわたしのせいで、優しくなんてされる資格がないから」



 この前ひろと君は、明るかったさくらちゃんが学校で暗くなったと言っていた。喧嘩の中でさくらちゃんの父親は、さくらちゃんが部屋に引きこもるようになったと言っていた。それは、お姉さんのことがあってショックだったからだとぼくは思っていた。きっと他の人もそうだろう。だけどそうじゃなかったのだ。


 だってそうだとしたら、さくらちゃんがぼくに明るく接していたのはおかしいのだから。


 彼女は、ぼくが事故やらなにやらを何も知らない、赤の他人だったからこそ明るく接することができたのだろう。


「みんなの優しさが責められてるみたいで痛くてだんだん関わるのが嫌になって、家でも部屋から出なくなって。でもわたし、本当のことを言うのも怖くて。だからせめてお姉ちゃんのためになにかしないといけないって。無理だってわかってても、無駄ってわかっててもなにかおねえちゃんのためにしなきゃってと思って」


 彼女が溢れる涙を拭うそばから、目尻から次の涙が溢れてくる。


 ぼくが彼女と出会ったのは神社だ。神社にくる理由なんて、なにかお願いしたいことがある時と相場が決まっている。


 彼女は神様なんていないとわかっていると言った。それでも信じたかったのだろう。だって、彼女の願いを叶えられるのは神様くらいしかいないから。


 きっと、いくらぼくが慰めの言葉をかけても少女が救われることはない。何をしても自分を許せないままだろう。きっと少女を救ってあげられるのは、少女のお姉さんしかいないのだ。

 しかしそのお姉さんは今、いつ覚めるかわからない眠りについている。


 目覚めるまで、彼女は周りからの優しさでさえ重荷に感じながら生きていかなくてはいけないのだろうか。


「……そっか。じゃあさ、おねえさんが君のことを憎んでいないって証明すればいいんだね」


 なんの根拠も自信もないけど、ぼくは神様のフリをしているときみたいに、さも自分はなんでもできるんだというふうに笑ってみせた。


「でもそんなの無理だもん。だっておねえちゃんは……」


 言葉を切って、彼女はうなだれる。


 彼女の話を聞いた時、ぼくにできることはなにもないと、そんな思考が頭をよぎった。でも同時に少なくとも何もしないままに諦めるのなんてのは嫌だとも思った。


「ぼくは神様じゃないけど、神様じゃなくてもできることだってきっとあると思うんだ」


 自分に言い聞かせるようにそう言った。そうだ。この子のためにぼくにもできることがきっとあるはずだ。そう信じたい。


「……わたし、期待なんてしない」


 たかがネカフェ難民、たかがフリーターの根拠のない言葉。神様に、魔法に、色々なものに期待して報われなかった少女がそうつぶやくのは当然のことだった。


「うん。それでいいよ。期待されなくても、ぼくが勝手に頑張るだけだから」


 ぼくは高跳びを失ってから、失望されて、期待されないことをただ嘆くだけだった。


 確かに今のぼくに、彼女に信じてもらえるような要素はなにもない。なら、期待してもらえる人間になれるよう一から行動を示していくしかないのだと最近気がついた。


 どうせ自分なんかと腐ってる暇など一秒もないのだ。



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「で?そんな啖呵を切ったおまえのプランは?」

「なせばなる」

「死ねよもう」「このゴミ野郎」


 夕方に、少女のおねえさんが待っていたという公園に呼び出したひろと君と幼馴染に事情を説明したところ、罵倒が二重になってとんできた。人選を誤ったかなあと思わなくもない。


「さくら、期待しないって言っても絶対期待してるだろ」

「だから裏切らないようにがんばるんだよ。ほら頭を捻れ」

「あんた、頼れる相手がいるからって連れてくるのが小学生って恥ずかしくないの?」

「とりあえずおれは小学生に頭をひねれってアイデアを求めるのはすげー恥ずかしいやつだと思う」


 ……散々である。そもそも交友関係がおまえらかバイトのおばさんくらいしかいないんだ。たまに世間話する程度のおばさんにはさすがに頼めないだろうに。


「とりあえず喧嘩したあと、お姉さんがなんでこの公園にさくらちゃんを呼んだか、っていうのがわかればなーっと来てみたんだけど……」


 しかし当たり前だけど、これといってなにもない。もう事故から二年が立つのだから、若葉さんの手がかりがなにか残っているわけもなく。


「それにしてもなんでここに呼んだんだろうなあ。さくらのねーちゃん」


 少年が間抜けな顔で首をかしげた。


「それを今考えてるんだろ」


 こいつはぼくの話を聞いていたのだろうか。


「いやちょっと違くてさ。あの家の近くにも公園あるじゃん」


 たしかにここ、M公園は少女の家からはけっこう離れたところにある公園だ。もっと近く、それこそ彼女の家のすぐそばにA公園がが存在していた。


「で、おまえはその公園に少女がくるかもって頻繁に通ってたわけか?」

「し、してねーよそんなこと!」


 少年の顔がみるみる赤にグラデーションされていく。してたなこれは。


 ぼくは少年の言っていたことを考えてみる。もし話したいことがあるのなら家でもいいのだ。それなのにわざわざ少し遠いところにある公園を指定したのにはなにか理由があるはず……と思いたい。


 しかし、ここにはさくらちゃんの家の近くにあるA公園より遊具も少なく、これと言って変わったものがあるわけでもない。この公園でなければならない理由など検討もつかなかった。


「なにか妹さんと思い出があったからとかじゃないの?」

「ぼくもそう思って、それは事前にさくらちゃんに聞いたんだけど、少なくとも覚えてる限りじゃ、この公園にお姉さんと来た覚えはないって」


 むしろ、A公園で一緒に遊んだことならそこそこあるようだった。


「……あのさ、結局こんなのいくら考えたところで憶測にしかならないんじゃないの?」


 幼馴染が言いにくそうに、そう切り出した。彼女にしてはやわらかい言い方だ。おそらく彼女はぼくに、こんなことをしても無駄だと言いたいのだろう。


「それでいいんだよ。重要なのはその憶測がもっともらしくて、さくらちゃんが納得できるものかどうかってことだから」


 それで少女が自分のことを許せると思えるのなら、事実である必要はないのだ。でも……


「無駄足だったのかなあ」


 ここが空振りなら、ぼくには少女のお姉さんがなにを思っていたかを確かめるすべはなくなるに等しい。途方にくれながら、ぼくらを赤く染める夕日を眺めて、目を細める。


 赤く照らされる砂場で、幼い少年少女たちが砂場でスコップ片手に建築に勤しんでいた。そこに、母親らしき人たちが「そろそろ帰るよー」と声をかけ、二人はそれぞれの親のもとにとてとてと駆けていく。


「……そういえば、四年生のとき学校でタイムカプセル作って家の庭に埋めたなあ」


 少年が、砂場に残ったスコップと砂の建築を見てぽつりとつぶやいた。


「おまえ、今何年生なんだ?」

「六年生だよ。……なんだよその驚いた顔ぶっとばすぞ」


 正直四年生くらいかとなーと思ってた。


「タイムカプセルなあ。まだやってたんだな。ぼくらもやったなあそれ」

「なんか、その年は保管しておくけど、基本的に廃棄することにしてるらしいぞ。おまえ取りに行ったのか?」

「そういえば行ってないな。あれいつ取りにいくもんなんだろう」

「10歳に埋めて、20歳になる年になるときに開けるやつだから、私たちは来年でしょ。ていうか、今この話題いる?」


 幼馴染が呆れた顔でぼくを睨んだ。


「ま、まあ、ちょっとはいいだろ。脳のリフレッシュも大切だしさ。確か、持ち帰るか学校に保管してもらうか選べたんじゃなかったか?ぼくは穴掘るのも面倒くさいなあって思って保管してもらったけど、お二人がたは?」

「おれは家の庭に埋めた」

「わたしも庭に埋めてある」


 当時は家に庭がある人はほとんど持ち帰っていた印象で、庭があるのに学校に保管してもらったぼくが少数派ですこし寂しい気持ちになったのを覚えている。


 タイムカプセル自体は未来の自分への手紙とそれと一緒になにか自由に選んだものを入れるとか、感じだった気がする。


「で、ひろと君はさくらちゃんと結婚できますようにとでも書いたのか?」

「は、はあ~?そんなのか、書いてねえし。小学生なのにけ、結婚とかバカじゃねえの?」

「いやあ、むしろ子供のころなら微笑ましい夢だと想うよ」


 必死で否定する少年を見ると、実に微笑ましい。


 歳を取ってくると結婚というものへの執着がものすごいことになる人が多いから、鬼気迫る感じで怖いのだ。


「なあ、幼馴染もそう思うだろ?」


 同意を求めて横を見ると、幼馴染はひろと君と一緒になって顔を赤く染め上げていた。あーこれは……

「まさかおまえもひろと君と同類?」

「書いてないから!」

「だから書いてねーって!」


 幼馴染がプンスカと否定して、ひろと君に至ってはなお見苦しい抵抗をし続けていた。

「幼馴染は来年だからな。見せ合いっこしようぜ」

「絶対しないから」

「でも隠しごとは無しにするんじゃなかったのか」

「あんたはわたしに対してなにも隠さない。わたしは好きなだけ隠す。そういうことだから」


 彼女はジャイアンみたいな理不尽理論をふりかざした。


 それにしても、タイムカプセルか。ぼくはなにを書いて、なにを一緒に入れたんだっけかと思い返してみるが、どうも思い出せなかった。ぼくは確か……。ん?


「ていうか、それじゃないか?」

「なにが?まださっきの話するつもりならぶん殴るけど」

「タイムカプセルだよって違う違うなに書いたかとかじゃなくてお姉さんがこの公園に来た目的の話!」


 幼馴染が拳を振りかぶったのを見て、ぼくは顔を両手でかばいながら早口で補足した。


「埋めたのがこの公園だったって思ってるの? どうせ今ちょっと思いついただけでしょ」

「それに、さくらの家は庭がちゃんとあるじゃん。公園なんかに埋めないだろ」


 幼馴染は白い目でぼくを見る。そして少年もそれっぽい理由でぼくのひらめきを否定してきた。


「そこはほら、えっと……なんか家に埋めたくなかったとかさあ」

「あ」


 ぼくがフル回転させてなにかそれっぽい理由をひねりだそうとしている横で、幼馴染が声をあげた。


「どうした。なんか思いついたか?」

「いや、わたしんちってもともとアパートでさ。ちっちゃいときに一軒家に引っ越したんだけど……それと同じような理由で、当時は庭に埋められなかったっていう可能性もあるのかなって」

「それだ!……まあ、そういうことだよひろと君」

「なんでおまえがドヤ顔なんだよ」

「ドヤ顔なんてしてないさ」

「助け舟なんて出すんじゃなかったって、わたしが後悔するくらいぶん殴りたい顔してるよあんた」


 幼馴染が突き刺すようにぼくを見るが、ドヤ顔とぶん殴りたい顔って違うと思うんだ。


「ぼくはもとからこういう顔だよ」

「たしかにあんたいっつも殴りたい顔してるけど」


 もはやただの悪口である。


「なぁ、ひろと君がタイムカプセル埋めたのって、2年前ってことだろ?それっていつ?」

「いつって、二年前は二年前だろ。強いていうなら、夏?」

「なんというか、それってさくらちゃんのお姉さんが事故にあったのと近かったりするか?」

「あー……。確か、ちょうど埋める時だった気がする。正確にはちょっと前、かな」

「やっぱりか」

「なんだよ。なんかわかったなら言えよ」


 一人頷くぼくに、少年がムッとしたように口をとがらせる。ぼくだけでわかったような素振りをしているのが気に食わないらしい。


「さくらちゃんがさ、お姉さんと喧嘩になった理由が、学校の授業で使う予定だった、床に置いてた人形を壊されたからって言ってたんだけど、その人形ってタイムカプセルに入れようとしてたものだったのかなって」


 じゃないと、大切な人形をわざわざ学校になんて持っていかないだろう。人形を使うような授業なんて思いつかないし。


「だから、さくらちゃんからタイムカプセルについて聴いてたお姉さんが、自分の埋めたタイムカプセルのことを気にするってのは自然な気がしないか?」

「なくはないとは思うけど……」


 幼馴染はしぶしぶと言った様子でうなずいた。なぜ素直に褒めてくれないのだろう……。


「まあ、埋まってようが、そうじゃなかろうが、確かめる方法は簡単じゃないか」

「まさかとは思うけど、あんたこの公園全部掘り返すつもり?どんだけあると思ってるの?深さだってわからないのに」

「もし埋めたなら小学生のときだろうから、そんなに深くは掘らないだろ」

「おれ、タイムカプセル埋めるとき、落とし穴かってくらい深く掘った」


 少年がちょっと恥ずかしそうに身をよじった。


「そ、それは少年が張り切りすぎたというだけで」

「こういうのは案外子供のほうが深く掘ったりするもんなのよ。だって子供って好きでしょそういうの。どっちにしろ、そのお姉さんが深く掘ってないっていう保証はないでしょ」


 幼馴染が呆れたようにため息をつく。


「えーと、じゃ、じゃあシャベル!シャベル買ってくる!それで深めに公園中を堀りまくればいいんだ!」

「あーもう!まずはこれまでの憶測についての確認でしょ!ちょっとそこの小学生!」

「はい!」


 幼馴染のハキハキとした呼び声に、少年はピーンとまっすぐに背筋を伸ばして気をつけをした。


「明日も学校いくんでしょ?」

「そりゃあ、そこのダメ人間とは違うから」

 タイムカプセルの件でいじられたのがお気に召さなかったのか、少年がぼくの方を向いてそう毒づいた。中退ネカフェ難民フリーターには実によく刺さる言葉である


「じゃあ、先生に確かめてほしいことがあるんだけど、まず……」「うん、わかった」

「で、かける!」

「はい!」


 少年と話終えた幼馴染に、ぼくも少年ののように背筋を伸ばして、ついでに敬礼もした。


「あんたはさくらちゃんとかに連絡していつから一軒家に住んでるかすぐに聞く」

「はい!……それであの~、肝心のタイムカプセルを探す方法についてはどうするんでしょうか?」

「そこはちゃんと考えてあるから住所不定フリーターは黙ってろ。あと次その口調で一言でも喋ったら殴る」

「はい!了解しました!……あっ」

「あんたに学習能力はないのかこのミジンコ頭」


 幼馴染から醸し出る威圧感からつい敬語を使ってしまったぼくに、彼女はしっかりと有言実行した。そしてぼくの脳細胞がたくさんお亡くなりになった。



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 2日後、ぼくたちはさくらちゃんを公園に呼び出した。


「これを見せたくて、お姉さんは君をここに呼んだんだと思う」


 そう少女に語りかけるぼくの手には、ポリ袋が握られていた。これはタイムカプセルの中から出てきたものだ。中には封筒と、何体かの人形や、ぬいぐるみが見える。


 結論からいうと、ぼくらの憶測は怖いくらいにドンピシャだった。


 ひろと君が学校にタイムカプセルについて問い合わせたところ、さくらちゃんのお姉さんの世代のタイムカプセルは、受け取りに来なかったものも廃棄されず、当時の担任だった人が保管しているとのことだった。しかし、そこにお姉さんのものはなかった。受け取りにも来ていないらしい。


 そして、さくらちゃんに引っ越しの有無を確かめたところ、以前はアパート暮らしで、さくらちゃんが生まれたことをきっかけに引っ越しをした、という答えをもらった。

 壊されたという人形も、タイムカプセルに入れようとしていたもので合っていたらしい。


 少女に、両親へ以前住んでいたアパートの場所を聞いてもらうよう頼むと、あの公園のすぐそばだということもわかった。


 つまり、あの公園にタイムカプセルが埋まっているというのが現実味を帯びてきたのだ。


 しかし、そこら中ほじくり返して確かめるというぼくの案は却下され、ぼくらは金属探知機を使った。


 いくつかの反応があって、そのほとんどが空き缶などのゴミだったけど、ようやく本命を見つけたのだ。


「金属探知機って、わざわざ買ったの?そういうの、高いんじゃ……?」


 ぼくの話を聞いた少女は、呆れたような驚いたような、そんな顔をしていた。


「まあたいした金額じゃないよって痛った!」


 隣にいる幼馴染がかかとでぼくの足を思いっきり踏み抜いた。


 まあ、金属探知機を買ったのはぼくじゃないので、怒られてもしょうがないとは思う。


 金属探知機をネットで購入したのは幼馴染だ。


 幼馴染の言っていたタイムカプセルを見つけるための考えというのは金属探知機のことだったらしい。あのとき住所不定フリーター野郎は黙ってろと言ってきたのは、一応ぼくの身の上や懐具合への配慮だった……のかもしれない。


「でも、タイムカプセルなんてなにが関係あるの? それをわたしが見ても、姉ちゃんがわたしを恨んでないかどうかなんて、わからないよ」

「ぼくらもそう思ったよ」


 お姉さんがここにさくらちゃんを呼んだのは、タイムカプセルを掘り起こして、それをさくらちゃんに見せようとした。それは間違いないと思う。


 しかし、いざタイムカプセルを掘り起こしたのはいいものの、この中に入っているものがさくらちゃんとまったく関係がないものだったらどうしよう、お姉さんの意図がわからなかったらどうしようと不安を覚えた。


「だから、先に中を見てしまったんだ。ごめん。……これを読んだらお姉さんが目をさますなんてことはないよ。でも、さくらちゃんはこの手紙読んだ方がいいと思う」


 ぼくはポリ袋から手紙を取り出して、少女の目の前に差し出した。表面には、「未来のわたしへ」と、つたない字ででかでかと書いてある。さくらちゃんは手紙に向かって、その小さな手をだしたり引っ込めたりを繰り返す。そしておそるおそる伸ばされた震える指が、ついに手紙に触れた。


 少女の手で、折りたたまれた手紙がゆっくりと開かれていく。




『未来のわたしへ。


 今のわたしは、とってもさみしいです。家でもお父さんとお母さんは仕事にいっていることが多くて、友達もあんまりいません。でもそんなわたしですが、もうすぐ妹ができます。妹を守ってあげる、立派なおねえちゃんになりたいです。


 だから、タイムカプセルの中に、わたしのたからもので、お友達の人形さんたちもおもちゃも、全部入れました。


 わたしの友達の人形さんとお別れするのは、すごく辛いです。でも、いつまでもお人形たちに頼っていたら、わたしはきっと立派なお姉ちゃんにはなれないと思います。

 未来のわたしがこのタイムカプセルを開けるころには、妹は今のわたしとおなじくらいになっていて、それで、きっとわたしは立派なおねえちゃんで、すてきなおとなになっていると思います。


 そしたら、わたしはおおきくなった妹にタイムカプセルに入れたたからものを全部あげます。さみしいわたしをなんども助けてくれた、わたしの大切な友達たち。お別れするの、本当に辛いけど、わたしは立派なおねえちゃんになって妹を守らなきゃいけません。だから、お人形さんたちには、今度は妹がさみしい思いをしないように助けてあげてほしいです


 4年2組 家坂 わかば』



「わたしより字、汚いじゃん……」


 少女は手紙を読み終えると、震える声でポツリと呟いた。


「人形さんもぬいぐるみさんも、ぜんぜん可愛くないし……」


 そう悪態をつきながらも、彼女はうつむいて、手紙と人形たちを胸にぎゅっと抱き寄せた。手紙がくちゃりと折り曲がる。


 地面にぽたり、ぽたりと水滴が落ちる。


「さくらちゃんはお姉さんが自分のことを恨んでるって言うけどさ。こんなことを書く人がそんなことを思うだなんて、ぼくには思えないよ」

「……うん」

「さくらちゃんはさ。おねえさんと喧嘩した理由、大事にしてたものを壊されたからって言ってたよね?お姉さんは壊してしまった君の宝物の代わりに、自分の宝物だったものをあげようと思ってここに呼んだんじゃないかな」

「……おねえちゃん、ばか。物でどうにかしようってところが、ホントにばか……」

「お姉さんはきっと、さくらちゃんと仲直りしたかったんだよ」

「でも、もうおねえちゃんと仲直り、できない。だって……」


 彼女は言葉を切って、うつむく


「だっておねえちゃんとお話、できないからっ」


 悲痛な叫びとともに、ぼたぼたと地面にシミが増えていった。


 そんな少女を見ると、こっちが泣きそうになるけど、ぐっとこらえて、ぼくは少女に笑いかけた。


「……植物状態ってさ、意識があったり、声が聞こえてる可能性があるんだってさ」

「それって、ほんと……?」

「ホントだよ」


 もちろん聞こえていないかもしれない。でも、すがるような上目遣いでそう聞いてきた少女に対して、ぼくは力強くうなずいた。


「そう……なんだ」

「うん。だからさ、お姉さんと仲直りしにいこうよ」

「……うん、う゛んッ」


 彼女は何度もうなずいて、おねえさんのたからものを抱きしめながら泣き崩れた。



 その日の夜、少女からお姉さんのお見舞いに行ってきたと電話で報告がきた。


『気のせいかもしれないけど、おねえちゃん、笑ってるような気がした』

「きっと、さくらちゃんの声、ちゃんと聴こえたんだよ」

『そう、かなあ』

「そうだよ」

『そうだといいなあ』


 そうつぶやく少女は、まるで恋人のことを想ってるみたいだった。


『あ、そうだ。ヤドナシさん。あのね、明日の昼、神社に来てくれる?』

「うん。いいけど……」

『じゃあ明日!おねがいね!おやすみなさい!』

「うん、おやすみ」


 ぼくがおやすみと言い切る前に、ツー、ツーと通話が切れた。


 なんとなしに承諾したけど、少女の用事はいったいなんだろうなと思いながら、ぼくは眠りについた。



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「あのね。お父さんとお母さん、もう喧嘩してないみたい。だから、2つ目のお願いはちゃんと叶ったよ。ありがとう」

「それはよかったね」


 神社についてすぐ、少女はぼくにお礼を言ってくれた。


 でもそれはぼくらが何かをしたわけではなく、彼女がお姉さんと向き合った結果なのだ。

 だから、ぼくが感謝されるのはどうもしっくり来なかった。


「それでね?結局3つ目のお願い、なあなあになっちゃったから、今日はそれをお願いしにきたの!」


 満面の笑みを浮かべる少女をみて、ぼくの頭の中大量にハテナが浮かんだ。


「あのー、ぼく神様じゃないっていったよね?」

「うん。でも神様じゃなくても約束は守らないといけないでしょ?わたしの願いを叶えるって言ったんだから叶えないと」

「だから、あれはその場をしのぐためのただの嘘で」

「大丈夫、嘘も本当にすれば嘘つきじゃなくなるから!」


 それはつまり、ここで断ったら嘘つきだよと言われているわけだ。少女がぼくに反論の余地など与えるつもりがないということが、この短いやりとりで十分にわかった。


 少女はぼくが「はい。それで3つ目のお願いはなんなんでしょうか……」とか細い声で返事をするまで、終始ニコニコとしていた。


「じゃあ、とりあえず昨日の公園に行こ!」


 ぼくはなぜ場所を変えるのだろうと思いながらも、少女に言われるがままに公園へと連れて行かれた。肝心の願いは公園についてから教えてくれるのだそうだ。公園には、幼馴染とひろと君が先にいた。そして……


「なんだ、これ」

「なにって高跳び用のマットと、バーだけど」


 幼馴染が当たり前のように答えた。彼女の言う通り、そこには高跳びのための用具がセッティングされていた。


「いやそうじゃなくて、なんでこんなところにあるんだよ」

「そりゃあ、わたしが学校から持ち出したからでしょ。大変だったんだからね。そこの小学生ふたりにも手伝ってもらったんだから、感謝しなよ。もちろんわたしにも」

「マットがめっちゃ重かった」

 少年が手をプラプラと振って大変だったアピールしてくるが、だから、そういうことじゃなくて……。


「だから、なんで……」

「あんた、高跳びも学校も、自分でやめたわけじゃなかったわけでしょ?これから先、あんたはもう跳ぶ機会は来ないかもしれない。だから、今跳びな」


 腕を組んだ幼馴染の力強い瞳が、ぼくをまっすぐに射抜いて、ぼくはたまらず怯んだ。


「……言っただろ。何度跳ぼうとしても、跳べないんだよ。トラウマになってて」「だったら、それは今克服すればいい。あんた、わたしに言ったじゃない。もうにげないって」

「たしかに言ったけど……。怪我治って、半年跳ぼうとしてして一度も跳べなかったんだぞ。なのに今更……」「かける」


 下を向きそうになったぼくの名前を、幼馴染が呼んだ。


「私や、この子たちから逃げなかったあんたならきっと大丈夫だよ。……それにここには、あんたが跳べなかったからって笑うようなやつは一人もいないから」


 幼馴染はいつになく柔らかい表情で、まるで小さな子供にでも言い聞かせるように、ぼくに語りかけた。


「別に跳べないなら跳べないで、それでいいよ。でも、これがあんたが跳ぶことに挑戦できる最後のチャンスになるかもしれない。だから挑戦してほしい。だって、今は跳べるかもしれないじゃない。……それに、そう思ってるのはわたしだけじゃないから」


 そう言って、幼馴染は目線を小学生の二人に向けた。さくらちゃんが、ぼくの目の前へと歩いてきた。


「あのね、わたしの3つ目のお願い聞いてくれる? 神様じゃなくても叶えられるお願い」


 少女はそう言って、セッティングされた高跳びのバーを指差す。


「アレ、跳んで」


 そしてこれまでと同じように、笑顔でぼくに無茶振りをした。


 ……そう。少女がお願いをする時はいつだって、ぼくに拒否権はないだ。


「この子、思ったよりもSだから頑張れよ。いろいろとさ」

「う、うるせえよ!頑張るのはお前だろうが」


 ぼくは少女の後方でむすっとした顔をしている少年を茶化して、緊張をごまかした。


「……お願いなら、仕方ないな」

「うん!」


 そう答えると、少女は顔を輝かせる


 軽くストレッチをしたぼくは、胸に手を当てる。……どんな大会に出た時よりも、心臓がバクバクと脈打っていた。


 いざ跳ぼうと思うと、いろんなことが頭をよぎった。怪我をしたこと、両親のこと。……そして、幼馴染や、小学生たちのことも。


 ぼくは大きく深呼吸をして、こちらを見ているみんなを見た。


 さくらちゃんは相変わらずの笑顔で、少年はちょっと心配そうだ。このお人好しめ。


「早くしなー。あんた、バンジージャンプでいつまで経ってもまだ心の準備が~ってグズグズするタイプなんだから、やるならちゃちゃっと行った方がいいよ」


 幼馴染がチクチクと言葉のナイフでぼくを急かした。まったく、それがいざトラウマに打ち勝とうとしている幼馴染にかける言葉だろうか。さっき向けてきた優しい表情はどこに言ったのか。


「わかったから急かさないでくれよ……」


 ぼくがそう訴えると、彼女はふん、と鼻を鳴らした。


 その雑な対応で、彼女にとってはぼくが跳べても、跳べなくても、本当にどちらでもいいのだろうなと改めて理解する。


 そもそも、さくらちゃんはぼくが高跳びをやっていたことや怪我をしたことを知らなかったはずだ。だから少女の3つ目のお願いうんぬんは、幼馴染やひろと君がいろいろとさくらちゃんに吹き込んだことが関与しているのは間違いない。


 ……彼女たちにとって、ぼくが跳んでも跳べなくてもどっちでもいいと言うのなら、これはぼくへ過去と向き合う機会を作ろうという、彼女たちのおせっかいなのだろう。


 そう思うと、なんだかじんわりと胸が暖かくなって、ぼくはもう一度胸に手を当ててみる。


 不思議と心臓の高鳴りが、心地の良いものに変わっていた。


 怪我をしてから何度跳ぼうとしても跳べなかったとき、ぼくを支配していた恐怖心が、今はどこにもなかった。


「じゃあ、いくわ」


 みんなにそう告げて、ぼくはバーに向かってリズムよく距離を縮める。そして、ダンッ、と思い切り地面を蹴った。

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近所の少女に賽銭泥棒と間違えられたぼくは、とっさに自分は神様だとホラをふいた。 ジェロニモ @abclolita

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