じばくれいのじじょう




 そのまま、どれほどの時間が経っただろう。この場には影たちの他には何も――全てであって何でもないものしかなく――さらにすでに死んでいる影たちにはもう時間の概念など不要になっていたから、流れていた――かどうかさえ本当は曖昧だったけれど――時間は、ほんの数秒だったのかもしれない。

 ともあれ、殺された影はゆっくりと顔を上げると、目の前の空間を、黙りこくったままの影の方をボンヤリと眺めながら「どう、しましたか」と控えめに尋ねた。


「なんか、雰囲気が悪くなってしまいましたね。殺された話も、考えてみれば当然、楽しい話ではなかったということですかね」


 無理をして絞り出した乾いた「は、は」という笑いを無視するように、自殺した影は「あなたは」と鋭く研がれた刃のような声色で切り出した。


「その相手を、本当に愛していたんですか」

「なんですか、急に」

「自分が死んでも仕方ないとは、思わなかったんですか」

「な」


 自殺した影の言葉に跳ねるように立ち上がると、殺された影は目の前にいるであろう影を見下ろすようにして怒鳴りつけた。


「何を、馬鹿なことを言ってるんだあなたは」


 そしてまた、自分を殺した相手へ向けたものとは違った、目の前にいる相手への半ば義憤のような感情がよみがえってきたように「そもそも」


「こっちの事情も知らないで、さっきからあなたはなんなんだ。殺されたこともないくせに。死んで仕方ないだって。……は。あなたは、きっとそうなんでしょうよ。あなたは死んでも仕方なかったんだ。死んで、あっちの世界から逃げ果せてここまで来たんだ。良かったじゃないですか。あなたは死んで、思い通りになったんだ。それなのに、なんです。他人の死を当然のように扱って、何が目的ですか」

「……確かに、自殺は、ただの逃避です」


 自殺した影は、静かな、けれども確信を持った声色で続ける。


「私は現実から逃げてここまで来ました。現実から目を背けたくて、自分を殺しました。文字通り」


 けれど。


「逃避は、悪いことじゃないですよ」


 自殺した影は、諭すような口調で、自分を語る。


「自殺は別に、悪いことじゃないですよ。勝手にすればいいんです。勿論、様々折り合いをつけないことには、悪く言われ続けるでしょうけれど。他人が、自殺なんていけないと悟った風なことを言うのは、なんてことはない、目の前の人に死んで欲しくないからですよ。何の根拠に基づいた真理でもない。個々人の勝手な欲望です。親も恋人も先生も、彼ら彼女らの望みをさも正当なものかのように述べているに過ぎないのです。……そうは思えませんか」

「…………だとして、何が言いたいんですか。あなたが自信を持って、自身を以て自分自身を葬ったというのはわかりましたよ。その分だと、『後悔』することもなさそうですけれど。それで、私に何を言いたいんですか」

「自殺は、悪いことじゃないということですよ」

「はあ」


 呆れたような声を上げて、威勢も削がれたのか、また元居た場所に腰を下ろすと影は「私の話、聞いていましたか」とため息をついた。


「それに、私の質問にだって、答えてもらっていない。私の何を知って、そんなことを言うんです。さっき会ったばかりのあなたが」

「あなたの病気は決して治すことなんてできなかったということを、ですよ」

「……なんです」


 まるで聞き取れなかったように声を上げて、しかし影は口を噤む。


「あなたが悪くしていたのは、足ではありませんよ。頭です。ふ、人聞きが悪いですかね、脳、でしょうね。あなたが本当に強か打ち付けた頭蓋の中身は、徐々にではありますが着実に、あなたの体を蝕んでいた。足が動かなくなったのはそのごく初期症状に過ぎません。いずれは、あなたは眉一つ動かせなくなっていたことでしょう」

「…………やめろ」

「そうなれば、最早死んだも同然。あなたは常々そう思っていた。生きながらにして、ここに、この場所とそう違わない追憶の荒野に投げ出され、そのまま肉体が朽ちるまで、あちら側へは何一つ干渉することもできない」

「あなた、お前、お前は……」

「死んでしまおうと思ったこともありました、と言いましたか。違う。あなたは、ずっとずっとそれについてだけ考えていた。ふと口を開けばどうしたら楽に死ねるかと譫言を吐き出し、代わり映えのしない毎日の中、どこかに救いを求め続けていた」

「お前は、だから」

「だから、私は」


 二つの影は同時に、その先を。


あなたわたしを、殺した」


 これまでの話を聞いて、最早自殺した影には、迷いのようなものは残っていなかった。今はもう、自分に与えられた役割を十全に理解し、それをただただ実行しているだけだった。


「ずっと、ここに来てから考えていたんですよ。どうして、死してなお『足りない』などと言われなければならないのか。『見切りをつける』ために、なぜ他者の存在が必要なのか。そしてそれが必要だとすれば、その相手は一体、誰なのか」


 けれど、相対する殺された影はそうはいかない。目の前の影に掴みかからんとする勢いで怒鳴り声を上げる。


「私を、殺しておいて、お前は、自殺したっていうのか。それで今さら、私と、なにか、和解でもしようっていうのか。もう遅いんだよ。くそくらえだ。お叱りだかなんだか知らないが、どんなお叱りを受けたのかも知らないが、死ぬ前も死んでからもお前の都合で勝手なことをつらつらと。お前の良いようにだけは、してやらんぞ」


 ここに来てから一度として見せたことのない剣幕で、影はそのまま、初めて、目の前の影に掴みかかった。

 ただ影は、気圧された風もなく、どころかにこやかに、また初めて、影の肩に手を乗せた。


「あなたは、意外とお優しい方なんですね」

「なんだと」


 乗せられた手を即座に振り払うと、影は「どういう意味だ」と詰め寄る。


「死んでなお、とわかり合う必要なんて、あるはずがないじゃないですか。血も繋がっていない、最後にはあなたを殺した殺人犯のことなんて、これっぽっちも気にかける必要はありません」


 和解なんてくそくらえだ。


「違いますか」


 その瞬間――否、それは一瞬にも満たないほどの短い時間ではあったが、影に表情のようなものが見えた気がして、影はびくりと肩を強ばらせた。その表情は、憎しみに燃える影から見ても些少ならぬ恐怖を覚えさせられるような、底の知れない笑みだった。


「覚えていませんか。あの人殺しよりも、私はずっとあなたの近くにいたんですよ。いまわの際に激しい痛みなんて味わう必要はないですよね。だからあなたは、真っ先に意識を失うように、神経系を確実に阻害して破壊する猛毒をご自分で準備したんじゃありませんか。私が、あるいは、、そちらの毒だ」


 影は、強ばらせた肩を弛緩させて、一転、「ふ、はは」と笑い声を漏らした。それは、ふと恐怖をかき立てられたその影の表情が、実はこれ以上なく見覚えのあるものだったからであり。


「死への恐怖で、あなたは私を切り離した。あなたは最期まで自分の病に気付くことはなく、私はその間、あなたが日々を過ごしている裏であちらの世界に見切りを付けていた。一瞬で終えられれば、恐怖も最小限に抑えられると、思っていたんですが」


 結局、失敗しちまったよ。

 表情を綻ばせて「やってらんねえよ」と呟くのは、紛れもなく、だった。


 ああ、思い出した。


 恨みに身を焦がしていたのも、

 自分で自分の病を耐えきれずに服毒自殺を図ったのも、

 問題を先延ばしにして、見送って、サボっていたツケを、払いきれずに償いきれずに死を選んだのも、

 自分が死んでも仕方ないと思っていたのも、

 長年連れ添ってきた伴侶に毒を盛られて絶命したのも、

 自殺は悪いことじゃないと自分自身に言い聞かせていたのも、

 自殺は逃げだと自縄自縛におちいっていたのも、

 自殺して後悔しやしないかと最後まで怯えていたのも、

 滑稽なことに、今の今まで自分で作り出した自分自身と言い争いをしていたのも、

 全部。


 私、だった。


 見れば、目の前の私は大学生時分の姿になっていた。

 また見れば、会社勤めを始めた頃の自分が私を見つめていた。

 また見れば、それは車椅子姿の私だった。その顔は、さっき見た。殺された恨みで恐ろしいほどに歪んでいた。

 全ての時代の私が入れ違い互い違いに入れ替わって、私の目の前に居た。目の前の私にとっても、それは同じように見えていたことだろう。全ての私と、全ての私が、互いを見つめ合っていた。

 最期の最期。私という個が永遠に失われてしまうというときに、もし仮に、ただ一人、わかり合うべき相手が居るとしたら。

 ああ、そんなもの決まっている。

 自分自身だ。

 自殺は別に悪いことじゃないと、私は言った。勝手にすればいいと。自分勝手に、すれば良いと。

 そういうことだったのだ。

 ただいけないのは、自分で納得していない自殺だ。

 自信を持てない自死だ。

 それは良くない。

 『その自殺は駄目だ』。

 『足りない』。

 全てを丁度良く終えるためには。

 見切りを、つけるためには。

 私は思い違いをしていた。この場所は、死んでしまった自分に見切りをつけるための場所だと。

 けれど本当は、自分以外の全てに見切りを付けるための場所だったのだ。ここに至って、社会や世界といったどうでもいいもののことを気にかける必要は、もうなくなったのだから。

 私は、これからどうなるのだろう。

 そんな疑問は抱けど、いつの間にか、世界から自分が失われていくことへの恐怖は感じなくなっていた。

 この流れ移ろってゆく『背景』も、私がこれまでに経験してきた、私が私になった背景そのものだった。


 だからここには、私しかいなかった。


 私がいれば、私は私を感じられる。


 私がいなければ、私は私を感じられない。


 ただ、それだけだった。

 私が消えて、その後、なんてものは私にとって存在しない。

 だから、恐怖することもない。


「ここは一体、どこなんだろうな」

「さあ」


 始まるは、私と私と私と私、数多の私の自問自答。

 不安も恐怖も消え去った、真の意味でのエピローグ。


「死後の世界がこんなだったなんて知らなかったぜ」

「僕も、天国に行けると思ってた」

「アリンコ踏み潰してたお前じゃ天国には行けねえよ」

「案外、まだ息があるのかもしれませんよ」

「これまでの全部、走馬灯ってこと」

「だとしたら随分と猶予があるもんだな、死ぬ前ってのは」

「存分に後悔できそう、ですね」

「毒って、どんな毒を使ったの」

「ああ、覚えてませんね……。どこかにメモでもしておけばよかったですか」

「それにしても、まさか自殺するそのときに毒を入れられるだなんて思ってもみませんでしたね」

「ホントだよ。しかもあんないてえとは」

「まあまあ、最期の話はほどほどにしましょう。これまでにさんざ話してきたじゃないですか」

「それもそうですね」

「じゃあ、何の話する」

「あ、その前に」

「どうしたの」

「『自殺した私』、その、あなたに汚れ仕事、というか、大変な役割を押しつけていて、その」

「なんだ、そんなこと」

「いいよ」

「だって私も、れっきとした私なんだから」

「……ありがとう」

「いえいえ」

「そういえば、死んでもまだ意識があるってことは、俺たちって幽霊ってことになるのか」

「ちょっと、いきなりそんなこと言わないでくださいよ。私が怖がってるじゃないですか」

「自分に怖がるってどういうことだよ……」

「幽霊っていうと、浮遊霊とか」

「足はありますね」

「守護霊なんてどうです」

「別に誰も守りたかねえな。守護霊獣なんてどうだ」

「まだ終わってないの、あれ」

「背後霊っていうの、知ってる」

「誰かにずっと付いていくのは、やや骨が折れそうですね。こことそう境遇は変わらなさそうですし」

「それじゃ地縛霊ですか」

「地縛霊ね」

「く、くく、ふっ、はは」

「どうしました」

「いや、霊は霊でもよ。ほら」




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じばくれいのじじょう @North240

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