じじょう
どこか淀んだ川のようにも見え始めた周囲の景色から頭をふりふり目を背けると、その場に三角座りのように体を落ち着けて、待っていた影は顔を膝に埋める。
「あぁ……はい。あー、はい」
後から来た影は、声の元が突然下方に移ったのを見て、慰めるような声色で「こういうこともありますよ」と声をかけた。
「私もまさか、こんなに早く死ぬことになるだなんて、思ってもみませんでしたから」
「…………ん」
億劫そうに一つだけ返事とも呼べないような呻きをあげて、待っていた影はまた一つ、二つ、三つとため息をついた。苦笑するかのように息をついて、後から来た影は「幸いなことに、時間はまだまだあるみたいですよ。心の整理をつけて、ここの凄涼に慣れ親しむほどの時間が」と呟いて、周囲に目を向けた。
影たちの周囲の景色は、未だめまぐるしく変化し続けていた。一瞬前と同じ景色が現れることはなく、また、永劫の昔から一度として同じ光景が描かれることはなかった。
その有り様は、ほんの少しでもこの場に居さえすれば、みなみなに等しく寂寥の念を抱かせるものであった。影たちが居るのは、どこでもあるように見え、その実、決してどこでもない場所であるからだ。目の前の景色がこれ以上ないほどに偽りであると突きつけられる、突きつけられ続けるその空しさで、誰もがその影を焦がすのだ。
後から来た影はほんの数瞬、景色に目を向けて、また、座り込んでいる影に目を向ける。また、今度も数瞬、周囲に目を向けて、視線を戻す。「時間というものは」また周囲に目を向けると、今度は数秒間、幾百幾千の景色を受け止めて、「影響と干渉の上にあって始めて成立するもの、らしいですから」また、視線を動かした。
「私達はもう、時間に縛られることはできないそうですよ」
あれほどしがみついていた時間には。
あれほどまでに疎ましかった時間には。
後から来た影の独白にしばらく耳を傾けていた待っていた影は、死気に満ちた目を上げ、届くかどうかもわからないような声で訪ねた。
「あなたは……色々お詳しいようだ」
訝しむような声色からは、しかし、真剣味を感じ取ることはできない。
「長いんですか、ここは。他に誰か、人がいたりするんでしょうか」
「いえ、ここではどなたにも会っていませんね。それに、誤解ですよ。私もここへは来たばかりなんです。あなたとそう変わらないんじゃないでしょうか」
立っていた影は、嬉しそうに答える。
「ただ、ここに来る前に、二、三、お叱りを受けました。今の話は、その際に聞き知ったことなのですよ」
影は足下を見下ろして、もう一つの影が座っている場所を見繕い、そこから少し離れたところに腰を下ろした。
「お叱り、ですか」
「ええ。『その自殺は駄目だ』と」
自殺した影はこともなげに左隣の影に「あなたはお叱りを受けましたか」と零す。
「ええと、いえ。私は」
気付いたら、ここに。
自殺した影はにこりと笑ったような声を出して、ならばと続ける。
「ならばあなたには、きっと非がないのでしょう。非の打ちどころが、ないのでしょう。……打ちどころが悪かったとも言えますが」
はぐらかすような自殺した影の物言いに、「はあ」と適当な相づちを打ちながらも、影は体をそちらへと向ける。
「私は……」
「あなたは、だとすればどなたかに殺されたのでしょう」
自殺した影は、これもまたこともなげに、殺された影に対して言う。
実際にそれは、その通りであった。殺された影は殺されたからこそ、『お叱り』を受けることはなく、自分で望んでもいない内にこの場所に来てしまったからこそ、その記憶は剥がれ落ち、自分の境遇を受け入れることができないでいたのだから。
そしてまた、新たにそんな事実を――あるいは、影にとってそれは推測の域を出ないものではあったが――告げられて、殺された影はまた一つ。大きなため息を漏らした。
「殺された……」
ふううううう、と。
さらにもう一度、体ならぬ、影の中の空気を全て吐き出してしまうかというほどに長い長い嘆息の後、殺された影はやや自嘲気味に「妙なものですね」と独りごちた。
「死んだ後に……それも、殺された後にこうやって何かを考えることができるだなんて。……なんといいましょうか。ほんの、ほんの少しだけ、救われたような気分です」
これまでに殺されたであろう幾億もの影を思えば、その安心にも似た感情は、この荒涼たる世界の中で、殺された影の心の中で、とても小さく、しかし暖かい灯のように感じられた。
「ずっと、ここにいたいくらいですよ」
「救い。救いですか。悪くないですね。ただ」
殺された影の同意を求めるような湿った声色に反応することなく、自殺した影は思案げに呟く。
「私なんかには、余計に感じられますがね。何せ、覚悟を決めて、錯誤を戒めて、やっとの思いで終わらせたのに。それを、ともすれば後悔するための猶予が与えられるだなんて。このまま、消えさせてくれないだなんて」
拷問のようです、と言葉を区切って、自殺した影もまた自嘲気味に「もっとも、だからこそこれが、自殺した者に対する罰なのかもしれません」と結んだ。
自殺した影の穏やかな調子とは裏腹に、殺された影の腹の内は、その言葉を受けてふつと煮えかえっていた。
余計だと。あなたは、殺されたことがないから当然わからないだろう。突然、自分の関知しえない内に自分というものが世界から失われる恐怖をだ。それもなしに死んで、ここへ来て。どうせもといた世界でも逃げてばかりだったに違いない。問題を先延ばしにして、見送って、サボっていたツケを、払いきれずに償いきれずに死を選んだに決まっている。私は、あなたみたいな人間とは違う。
また同時に、その穏やかな調子の声に隠れて、自殺した影はある種、殺された影をうらやんでいた。
殺されるのは、嫌だろう。怖いだろう。憎い、だろう。……けれどこの影がおかれたそれは、私にとっては、実はなにより恵まれた境遇なのかもしれない。なにせ、この影には自分を責める必要がない。どんな辛い目に遭っても、例えそれが死であったとしても、他所にその責任を求めることができるとしたら、どれほど楽だろう。私には、それが、もうどうしたって手に入れることのできない特別切符のように思えてならなかった。これからを、この場所で苦悩とは無縁に過ごしてゆける半券。私は、こうなりたかったのだろうか。
……いや、なりたくあろうとなかろうと、どのみちどうしようもないことだ。
だとすれば、今、私にできることは。
今、私にできることを。
「罰、です。罰……。ええ。ここまで来て、またさらに逃避を重ねようとは思いませんよ」
自殺した影の『逃避』という言葉に反応して、殺された影は「は」と一言、乾いた吐息を漏らした。
「自覚は……あるんですね」
慎重に選びとったつもりの言葉は、しかし、目の前の影への敵意を隠しきれず、そのまま虚空へと霧散してゆく。普段ならば、ただことを荒立てるだけのそんな文言が、なぜか今は抑えきれず影の口をついていた。
「…………」
「………………」
「ああ。ええ。……ありますよ。あなたとは、違ってね」
その言葉の内の棘を感じ取ったのであろう、自殺した影も真似たような口調でそう返す。
「……私と、どう、違うと」
「いいですか。あなたは、死んだんだ」
自殺した影は一言一句を言い聞かせるように、そう呟いた。
「死んだんだ」
もう一度。
「この場所は、けして救いのための、私たちのような影が憩うための場所なんかじゃないですよ」
景色は、全てを映し続ける。
「ここは、見切りのための場所なのだと言われました。私たちが自分自身に見切りをつけて、それで、自分たち自身を観切るための場所、ということでしょう」
自殺した影は自分に言い聞かせる。
「私は、きっと、自分の死を後悔しなければならない。そしてあなたも、自身の死を受け入れなければならない。そうやって初めて」
私たちは、見切りをつけることができるのです。
「見切りをつける、ですか」
殺された影は、その一字一句を己が身に染みこませるように幾度か反芻した後に、深くうなだれたままの声で自殺した影に応じる。
「それは、まだ、いいじゃないですか」
まだ。
ずっと。
殺された影は、その内に湧いてきた思考を振り払うように努めて明るい声を出す。
「あなたも、少し違うことを考えてみたらいかがですか。気分転換といいますか。ほら……死んで、混乱しているんですよ。あなたも、きっと。ゆっくりとしていたら、楽しいことを、思いつきますよ」
それがいい。
消え入るような声で、懇願するような声で、殺された影は漏らした。
そうでもしていなければ、私は消えてしまうんじゃないか。このままことが進めば……。それだけは、嫌だ。
それは、今まで生きていた世界を思い、けしてそれに、そして自分自身に見切りを付けることなどできやしない殺された影が、唯一心に抱いていた純粋な気持ちだった。
自殺した影への恨み言も、自分を殺した誰かに対する怨嗟も、その思いの前には鳴りを潜めてしまうほどに、それは奥深く、影の内に巣食っていた。救いの手ならぬ巣食いの根が、殺された影をがんじがらめに縛り付けていた。
そんな影の振る舞いに、自殺した影は見えないその姿を震わせて、声を荒らげたい気持ちをすんでのところで抑えつけた。
「あなたは……いえ、そう。そうですね。そう、しましょうか」
影は、『お叱り』を受けた際にこうも聞いていた。
『このままではいけない。あなたは自ら命を絶った。そしてこれから会うことになる『影』はまた、その命を絶たれた。あなたはそのままでは足りていない。世界に見切りを付けるには』
影にとってそれは、意味を取るにはやや不鮮明で、不明瞭で、不親切な『お叱り』であった。影は、その言葉を自分なりに受け止め、行動するしかなかった。その他にもいくつか自分がするべきことを聞かされたような気もしていたが、いつの間にかそれらは昨日見た夢のようにおぼろげな記憶となってしまっていた。
しかし自殺した影はどこか納得してその言葉を信じることができていた。それが、これまで信じてもいなかった神秘的な何かの声なのか、はたまた、気付きもしない自分自身の声だったのか、それはもう判然としなかったけれど。
それでも。
自分が、目の前の影と何かをしなければいけないということは、さながら本能のように、生まれ出でた目的かのように自殺した影の芯に根付いていたのだ。
「楽しい話でも、身の上話でもしましょうか。あなたからどうぞ」
「えあ、ああ……う、ええと」
まさか自分の意見など通るとも思っていなかったように、殺された影が戸惑ったような声で「なぜ」短く尋ねると、自殺した影ははにかんだような声で、「これから自殺することになるような話を聞いても、楽しくはないでしょう」と笑った。
影の発したのは、そういった類いの「なぜ」ではなかったのだが、相対する影の――自殺した影と殺された影とは、隣り合うかたちから、今は向かい合って座るようにして互いに目の前の宙空に視線を投げかけていた――居催促に折れたようにほんの少しため息をつくと、「そうですね」と切り出す。
「ただ、なにから話したものでしょうか」
頭から言い淀んだ影は、宙空に映し出された天色に目を留めると、朝露のぴたりと滴るような声で「こんな」と、今度こそ切り出した。
「空の色が好きだったんです」
それは、身の上話というにはあまりにも単純で、あるいは誰も好き好んで耳を傾けないような独白であったが、自殺した影は耳をそばだてたまま、沈黙を保つ。
「空がどうして青いのか、なんて穿った……ひねくれた、でしょうか、そんな考えを持つよりも先に、世界の半分を覆う空のその大きさに、私は、惹かれていたんでしょうね」
影たちの背景は、透き通るような天色から徐々に遠ざかり、そこに浮かぶ雲や、木々の緑を映し出す。
それらが映し出されたのはどれも全て一秒にも満たないごくごくわずかな時間であった。しかし、相対している影たちにはその一瞬の光景でさえ、微に入り細を穿つまで眇めたほどに手に取るように、そのすでに失われた網膜に焼き付くまでに矯めたように、自分自身のもののように感じることができた。
「ああ、懐かしいですね。これは……もう見えやしませんが、あれは、たしか小学校の校庭から見た空ですよ。授業が終わってから、ずっと、じっと、空を眺めた日もありましたね。今思えば、無駄な時間を過ごしていたものです。いえ……」
少し言葉に詰まり、また、口を開いた影は、目の前の影との異口同音の「贅沢な時間」に少し笑い、「ですね」と安心したような声で同意した。
「今思えば、贅沢な時間でした。歳を重ねるにつれて、そんな時間も減っていったように思います」
「わかりますよ。私もそうでした」
「仲良くしていた友達と馬鹿やっている内は、それでも楽しいものでしたよ。忙しくて楽しくて、時間が無いことなんか、気にも留めなかった」
殺された影は、それからいくつか、学生時代の思い出を語り始めた。個人名は伏せて語られたそれは、部活動の苦労も、親との衝突も、恋愛の失敗も、どこにでもあるような、それこそ目の前の影がそれを自分に重ねても違和感が全くないほどに平凡なものではあったけれど、殺された影にとっては唯一の、自分の人生だった。
「……それでも、そんなもので時間を誤魔化せていたのは、仕事に就いてから、二十数年、それほどでもないか、二十年弱くらいの間だったように思います。人生の半分を仕事に費やして、いつの間にか疲れてしまったのかもしれません。ふと気付けば、年単位で時間が過ぎるようになっていた。空の青さに目を向けることも、いつしかなくなっていました」
「……飽きはどうしてもくるものですよ」
自殺した影は、まるで自分のことのように感じ入って、慰みの言葉を投げかけた。
「……いえ、わかっていますよ、慰めていただかなくても。私の見方の問題なんですよ。きっと」
見方の問題。
あるいは――
「恵まれたことに配偶者もおりました。私には勿体ないほどの人で……向こうも、昔は私と同じようなことを思っていたらしいですが」
「その方は、同僚ですか」
「ええ。二つ目の会社で同じ仕事を任された仲でした。気の合う人でした。空を見て美しいと思える感性を、私はその人と居て久しぶりに取り戻せたんです。いい人でした、本当に。……誰が敵になろうともこの人だけは私の味方だと、味方であって欲しいと。恥ずかしながらそんなことを、恥ずかしげもなく公言できるほどに。だからこそ、失いたくはなかった」
「…………その方は、ご病気か何か」
「ああ、いえ、比喩ですよ。何せ私は」
その
あるいは、味方の問題。
ばっ、と。影たちの視界中に、とある光景が映し出される。卓上に広がった黒々としたコーヒーと、それに向けて伸ばしたままぶるぶると震えている指先と、その先に移る人物の姿。顔までは見えない。
「一番最後の記憶です。私の最期」
自殺した影は絶句する。
「唯一救いと言えば……さて、救いでしょうか、これは。事実、とでもしておきましょう。事実と言えば、死んでしまう前に、死に終える前に、殺されたことに気付けたことでしょうかね。びりびりと手足を駆け回る激しい痛みで、毒を盛られたことに気付きました。そんなもの、私はもっていない」
落ち着いている、というよりもどこか諦めたようだった声色から打って変わって、殺された影のそれはふつふつと湧き上がる感情に焚きつけられるように、徐々に勢いを増していく。
「聞けば、きっと疲れたとでもぬかすんでしょう。ああ、いえね、この五年ほど前に大きな事故に遭いまして、足を強か打ち付けましてね、それ以来歩けなかったんですよ。だから日々、諸々の介助をお願いしていました。それまで、二人とも仕事が生きがいのようになっていましたから、その仕事も失って、私自身、死んでしまおうと思ったこともありました。ただ」
殺された影は捲し立てる。
「それが、殺されて良い理由なんかになるものか。なっていいはずがない。私のこれまでの人生を、全てを奪って良い理由になるわけがない。あんなやつを愛した私が…………馬鹿だった」
言うと影は、背景から目を背け、膝に顔を埋めた。
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