サヨナラ、小さな罪

尾八原ジュージ

サヨナラ、小さな罪

 火葬炉に消えていく姉の棺を見ながら、私はキーホルダーのことを思い出した。プラスチック製の二枚貝と鈴がついた、小さなキーホルダーのことだ。

 それは私がまだ小学一年生のとき、仲のいい友達に、海水浴のおみやげとしてもらったものだった。幼心にとてもきれいだと思ってランドセルにつけておいたのに、ある日なくしてしまった。もしやと思って姉のランドセルを確認すると、案の定そのキーホルダーがぶら下がっていた。

 私は泣きながら母に言いつけた。母に問い詰められた姉は、さほど堪えているわけでもなさそうな顔で「盗んでないもん。ちょっと動かしただけだもん」と言った。同じ屋根の下で移動させただけなのだから、盗んだことにならないという屁理屈である。もちろん母には通用しなかった。

 ところが祖母が帰宅すると、途端にこのトンデモ理屈が通ってしまった。こうなると母も私に諦めさせる他はなく、二枚貝のキーホルダーは姉のランドセルに落ち着いてしまい、そのうちうっかり落としたとかで、本当にどこかに行ってしまった。


◇ ◇ ◇


 姉を焼いている間、私たちは火葬場の控室で待つことになっていた。

 喪服姿の母が背中を丸めて泣いている。この人は姉のために流す涙があるのだな、と私は他人事のように感心する。

 母と祖母は折り合いが悪く、今思えば私も姉も、嫁姑戦争の犠牲者だったと言えなくもない。祖母は父と顔がよく似ている姉をかわいがり、母似の私のことはまるで赤の他人の居候であるかのように扱った。

 私が小さい頃、家の中は祖母の天下だった。その影響を強く受けた姉は、母と私のことを召使のごとく扱うようになった。そんな状況であればこそ、キーホルダーのときのような屁理屈も通ったのだ。

 その祖母は七年前に亡くなって、今はもう写真の中にしかいない。

 父が片手でハンカチを目に当て、もう片方の手で母の背中を撫でている。嫁姑戦争の余波は父と母の間にもおよび、一時は離婚寸前までいったが、今ではあの頃の冷え切った関係が嘘のように見える。ああやって慰め合っているところは、まるで「ごく普通の仲のいい夫婦」のようだ。もっとも姉のことがあったから、ふたりはひとつ屋根の下で一致団結するのが最もいい手段だと思ったのだろう。

 晩年の姉は仕事も家事もせずに引きこもり、他人の手助けなしではまともに暮らせる状態ではなかったようだ。結局その生活の中で姉は健康を損ない、とうとう心不全で亡くなった。まだ三十四歳だった。

 私はまた物思いにふける。膝の上で握った両手の中に、あのキーホルダーが突然出てきやしないかと思うほど、過去を精密に思い浮かべようとする。

 あのとき姉が言った「盗んでないもん。ちょっと動かしただけだもん」という言葉は、私の中のどこかに棘のように引っかかり、いつのころからか私は、たびたび姉の持ち物を隠すようになった。

 姉は祖母からよくお小遣いをもらっていたから、かわいい文房具やちょっとしたアクセサリーをたくさん持っていた。私は日頃の鬱憤が溜まると、きれいな鉛筆やかわいい形の消しゴムなんかを姉の机からさらっては、「家の中を移動」させていた。

 家の風呂場の窓を開けると右横にガス給湯器があって、その上にちょっとした庇が設けられている。そのすぐ上には出窓が突き出していて、庇との間に、人の目の届かないちょっとした暗闇を作っていた。風呂の窓からいっぱいに腕を伸ばすと、どうにかそこの隙間にものを投げ込むことができる。

 私はそうやって、姉の持ち物を「移動させて」いた。その作業は私の入浴時にこっそり行われていたため、家族の誰も気づかなかった。また田舎のため、夜間に誰かが表を通りかかるということもなかった。

 ここだってうちの敷地内であり、建物の屋根の下なのだから、家の中と言えなくはない。家の中を移動させただけなのだから、私は悪いことをしたわけじゃない。

 姉のこねた屁理屈は、いつの間にか私のための言い訳になっていた。姉はたくさん持っている小物の所在を自ら見失うことも多く、私がものを隠すことはあまり大きな問題ではないようだった。私はそれでもよかった。姉のものを隠すことで、ほんの少しガス抜きができる。それだけでよかった。

 悪いことをしている、という意識は薄かった。仮に私に非があるとしても、それはごくごく小さなものだろうと思った。私にこんなことをさせる姉が悪いのだ。

 月日が過ぎていった。やがて私が隠すのは、きれいな鉛筆から、イヤリングの片方や使いかけの口紅に変わった。姉は大学に通い、私は高卒で働き始めた。早く家を出たかったが、祖母と父が許してくれなかった。

 出窓と庇の間には、相当のものが溜まっているはずだったが、相変わらず誰もそれに気づくことはなかった。私もあえてそこを確認しようとは思わなかった。


◇ ◇ ◇


 お骨になってしまった姉を壺の中に移しながら、(そういえば、指輪って棺に入れてもいいのかしら)と、私は何気なく考える。

 脳裏に、プラチナの台にダイヤモンドのついた指輪が浮かぶ。もしもなくなっていなければ、あれもきっと例の場所にあるはずだ。

 それは姉の婚約指輪だった。


 姉が婚約したのは、私が二十二歳のときだった。

 婚約者は傍から見ても素敵な人だった。県庁勤めの二十六歳の男性で、背が高くて整った顔をしていた。

「婚約指輪は給料三か月分」なんて時代はもうとっくに終わっていたけれど、姉はそれなりの指輪をもらっていた。左手の薬指にはめたそれを私に見せびらかしながら、彼女は「一生もらえないだろうから見せてあげるわ」と言った。

 その時の姉の顔はぞっとするほど醜く見えた。それは夢の中にまで出てきて、私を真夜中に目覚めさせた。

 三日続けて同じ夢を見た。三回目に飛び起きたとき、私は何をすべきか心に決めていた。

 大学を出た姉は調理師として働いていたため、出勤時は婚約指輪を外して、自分の部屋の鏡台に置いていた。

 人目のない時間を見計らって、私はそこから婚約指輪を取り出し、例の場所に「移動させた」。

 指輪がないと気づいたときの、姉の取り乱し様といったらなかった。日頃から冷たく当たっている引け目があったのだろう。はなから私を指輪を盗んだ犯人と決めつけて問いただし、そのあまりの必死さに私はつい笑ってしまった。小学生のときにこねた屁理屈など、姉自身は忘れているに違いないが、私はそれを口には出さず、ただ心の中で盾にしていた。何度も「盗んでなんかいない」とだけ答えて突っぱねた。

 やがて私が尋問に疲れて部屋を出ると、姉が走って追ってきた。ぶつかった瞬間、右の脇腹がカッと熱くなった気がした。

 見ると、そこから包丁の柄が生えていた。逆上した姉が、彼女の商売道具で刺したのだとわかった瞬間、私はまた笑った。物心ついて以来、あんなに痛快だったことはなかった。荒い息を吐きながら、私はざまあみろ、と呟いた。

 私はわざと悲鳴を上げながら外に転がり出た。大声で「助けて!」と叫んだあと、近所の人がわらわらとやってくるのを確認して、気を失った。


◇ ◇ ◇


 その後退院した私は、姉から離れるという口実をもって、すぐに実家を出てしまった。

だから、姉の法的な罪状がどうなったのか、詳しくは知らない。

 ただ、本物の傷害事件を起こした姉の結婚はおじゃんになったし、仕事も辞めてしまったと聞いた。ご近所の好奇の目に晒されて引きこもりになった姉は、それまでの明るさをすっかり失ってしまい、結局死ぬまで家から出ることがなかった。

 私は遠くの地で再就職し、一人暮らしを始めた。とても楽しかった。ようやく自分のための自分の人生を得た気がした。

 あっという間に十年が過ぎた。姉の訃報を聞いたのは、そんな折のことだった。

 家を出るとき、もう姉には二度と会うまいと願ったことが、本当のことになってしまった。せめてお骨くらいは拾ってやってもいいだろうと思った。

 箸につまんだ骨のかけらが、なんとなく指輪の燃えさしのように思えて、私はほんの少し身震いをする。

 そして例の隠し場所のことを、ずっと忘れていた友達の顔のように思い出す。


◇ ◇ ◇


 葬儀を終えて実家に戻ると、私は早々に普段着に着替えた。

 ガス給湯器はかなり古くなってはいたものの現役で、トタンの庇もボロボロながら昔のままだった。

 私は木の枝を拾って、出窓と庇の間の闇を探った。

 何かが落ちてコンクリートに当たり、高い音を立てた。キャラクターの絵がついた鉛筆だった。お菓子のかたちの消しゴム、プラスチックの指輪……私が「移動させた」ものたちが、まるでタイムカプセルのように次々と出てきた。

 その中から私はとうとう、プラチナの指輪を探し当てた。

 今見ると古臭いデザインだ。それでもプラチナとダイヤモンドには違いない。私はそれを握りしめると、その足で繁華街にある質屋に向かった。

 一万二千円の現金が、私の手に残った。買いたたかれたのかもしれないが、どうでもよかった。

 私は三枚の紙幣を重ねて折りたたむと、駅前で声を張り上げているボーイスカウトに近寄り、募金箱にポイッと放り込んだ。

「ありがとうございます!」

 少年たちが声を揃える。

 もう姉もいない。指輪もない。そもそもさほど悪いことをしたわけじゃない。私に罪があったとしても、それはほんのちょっとしたものに違いない。家の中にあったものをちょっと移動させた。それだけ。

「サヨナラ」

 人混みの中を歩きながら、私は誰にともなくそう呟いた。サヨナラお姉ちゃん。サヨナラ婚約指輪。サヨナラ、私の小さな罪。

 もう誰も、それを知ることはないだろう。

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