ヒトは二百歳を超え病に勝つ

碧美安紗奈

ヒトは二百歳を超え病に勝つ

 殺風景な白い病室で、病衣のヘンリエッタは絶望的な気持ちに必死で抗っていた。

「負けない、わたしは打ち勝つ」

 質素なベッドの中での呟きは、夜の小さな病室に吸い込まれて消える。

 苦痛と不安。今彼女の心身を蝕んでいるのは、新種の病なのだ。

 まだ若く、子供も生まれたばかり。自分も家族も、人生はこれからだ。

 なのに、この腫瘍をもたらした病気は未来を覆い隠すように改善の兆しを見せない。

 それでもヘンリエッタは信じていた。

「必ず病気に勝って、あの子たちの未来を守ってみせる」


 しかし願いは叶わず、やがて彼女は亡くなった。



 ……ずっと後。

 二百年ほど経った頃、人類を未知の病原菌が襲っていた。

 季節を問わず流行し、空気感染、飛沫感染、接触感染する感染力の高さでありながら毒性も強く、致死率は90%以上。真空にも強力な放射線にも耐え、高温にも低温にも耐性を持ち、風邪をひかないことで知られる南極でさえ流行った。それは、当初は似た外見と症状を有することから新型ライノウイルスと呼ばれていた。もっとも、見直す機会も訪れぬまま追い詰められた人類にその名で呼ばれ続けたウイルスの正体が判明したのは、全てが手遅れになりつつあるときだった。

 かつてない規模のパンデミックにより瞬く間に医療体制は崩壊、社会システムは瓦解し、暴動や戦争が多発、人類文明は荒廃、絶滅に近づきつつあった中。残された僅かな研究機関のうち、とある研究所の会議室で真相は明かされたのだ。防護服に全身を包んだ研究員たちが、ウイルスに関する絶望的な分析結果を聞かされたのである。


「この新型ライノウイルスは二百年前、カナダに落下したエイビー隕石に付着していたと見られる地球外生命体。未知の電波によって離れていても各ウイルスが交信することで一つの群知能を構成していると思われる、いわゆる宇宙生命による地球侵略のようなものです」

 大型スクリーンに写し出された禍々しいウイルスの拡大映像隣で、やはり防護服の博士がそう報告したのだった。

「知性の程度は不明ですが、飛来した二百年前から人類のDNAに浸透し、遺伝子を解析するという全く新しい特徴を有し、それが完了した近年になって遠く離れた場所にいるものも含めて世界中で一斉に同じ進化を遂げ、正確に人類のみを攻撃しているようです。〝宇宙ウイルス〟と呼ぶ方が相応しいかもしれません」

 会議の場は短時間混乱にさらされた。

 が、ここまで追い込まれるまでに、あまりに奇怪なウイルスの特徴から研究者たちの間ではある程度予想されだしていた結果だったので、衝撃はさほどでなくて済んだ。


 なにせ、この新型ライノウイルス――もとい宇宙ウイルスは、動物や虫などにも感染しながらそれらには毒性を発揮せず、人へ媒介する乗り物としてのみ利用、人間のみを殺して人体外でも長期間生存するという特徴を有していたのだから。

 通常、病原菌は自分たちの生存場所である宿主に死なれても困るのだが、宇宙ウイルスは人の死体でも生存し、地球上で生き続ける。まさしく、地球に寄生し、彼らが敵と見なした人間のみを駆逐しているようなのだ。

 さらに毒性をもたらす変異は、全世界的に同時期に起きていた。ウイルスは突然変異しやすいが本来なら変化した種が同じ地域で増殖していくものだ。なのに、宇宙ウイルスは互いに遥かな距離を置いていたものも同じときに同じ進化を遂げていた。距離に囚われない何らかの繋がりを持っていると考えねばあり得ないことだ。

 パニックを防ぐためとの名目で、こうした奇怪な性質は長らく一般から隠されていたが、ついに公開する暇もなく人類は絶滅寸前まで追い詰められてしまったわけだ。現状ワクチンなどを作ってウイルスたる彼らを根絶する知性を有するのはおそらく人であろうことを鑑みれば、賢い攻め方をされたのかもしれない。


 やがて、落ち着きを取り戻した研究員の一人が尋ねた。

「今さら取り乱している時間もない。何か対抗手段はあるのですか?」

「……現状、有効な手立てはありません。いえ、あるにはありますがあり得ない手段だ。この宇宙ウイルスに確実な抵抗ができる者がいるとすればそれは――」

 やや迷ったあと、博士は口にした。

「ウイルスが遺伝子を解析しきれていない、二百年以上前の生きた人間だけかと思われます」


 人類はなす術もなかった。

 なにせ発表の通り、このウイルスは約二百年潜伏して人類の生体構造を分析しており、以降の人間は対策できないような進化を遂げていたのだから。

 現状これを打破する可能性があるとすればまさに、二百年前の人間。彼らに解析されていない人間だけだということになる。

 未だ百歳生きれば長生きな方の人類に、そんな長寿はいないのだから。


『警告、警告』

 追い討ちをかけるように、室内に合成音声による放送が鳴り響いた。

『研究所内で新型ライノウイルスを検知、発生区画を即時緊急閉鎖します』

 感染警報だった。

 所内中の照明が消え、代わりに赤いランプが灯って明滅を繰り返しだす。

 会議室の外界に通じる扉たちもことごとく電子ロックされ、隙間では圧縮空気がバルーンを膨らませて室内を隔離した。

「まさか」どよめく研究者たちの中で、博士が悟って叫んだ。「ここで進化したのか!?」

 そう、会議室に施されたのは外部にウイルスが広がらないようにする措置だ。感染は監視カメラに組み込まれたサーモグラフィーによって発熱を確認することなどでわかるが、この部屋は研究所の奥深くにある。

 入り口のもっと詳細な身体検査から、所内のあちこちに設置された検疫設備まで欺いて、ここでいきなり発症することなどまずありえない。

 つまりは、今まさに無害なものから有害なものへと変化したという可能性が高い。

 博士は、素早く研究所のローカルネットと接続したスマホで防疫状況を確認する。

 やはり。感染による隔離措置はいたるところ、人のいる全フロアで起こっていた。

 宇宙ウイルスは未知の電波で交信し合い、毒性を発揮する進化をおのおのが離れていながら全世界規模で開始したのだからある意味当然かもしれなかった。

 見つからないように無害化して潜伏し、この会議の結果を受けて対策される前に研究者たちを始末しようと進化したのならば、隔離など意味をなさない。各フロアの人間にそれぞれ寄生しているウイルスが、互いに交信し合い毒性を発揮することを決めれば止められないのだから。


 たちまちパニックに陥る研究員たちだったが、さっき正体を知ったばかりの凶悪なウイルスサイズの敵になす術などあるはずもなかった。

 恐るべき感染力と致死率を誇る宇宙ウイルスは、隔離措置も虚しく、高熱で人々を倒れさせ、瞬く間に研究所全域へと拡大していった。

 会議室でもみなが力尽き、博士も崩れて意識が薄れていく。


「これまでか――!」


 誰もが、そう悟ったに違いなかった。


 ところが――。


 ある研究資料室にまで感染が到達したとき、異変が起きた。

 感染拡大は唐突に停止。逆に、人々の病状を回復させるものとなって広がりだしたのだ。


「……い、いったい何が起きたんだ?」


 研究員たちは徐々に改善していく体調でやっと起き上がりながらそのように囁き合い、一様に首を傾げたが原因はこのときまだわからなかった。

 しかし、回復は研究所からさらに外部にまで拡大し、長い期間を経て全世界の人々を癒し、ついには全人類を救って病原菌を地球上から駆逐するにまで至ったのである。


「奇跡だ!」

「神が救ってくださった!」


 絶望的な状況からの思わぬ逆転劇に、窮屈な防護衣やマスクを外した人々は口々にそんなことを叫んで喝采にわいた。

 ウイルスの蔓延による衰弱と混乱、自棄になっての暴動で廃墟と化した街は、一転して喜びの勢いを取り戻した人々で溢れていったのだった。


「……奇跡でも神でもなかった」

 それからさらにずっとあと。

 ようやく落ち着きを取り戻した世界。あの逆転劇が起きた研究所の小さな研究室で、当時絶望を告げそれが希望に取って変わる瞬間を目近に目撃したあの博士が、小綺麗な白衣姿で電子顕微鏡から顔を上げ、一人呟いた。

「人類が、ヒーラが勝ったんだ」

 仲間たちが仕事を終えたあとも、真相を知りたくて夜遅くまで一人究明を続けていた彼。その執念で原因を突き止めた言葉は、このときまだ誰も聞いていなかった。

 ただ、博士は頬を伝う雫と共に囁かずにはいられなかった。

「宇宙ウイルスは、二百年前の生きた人間には敵わないとわたしは分析していた。まさに、資料室にまで及んでそこに保管されていたヒーラ細胞に感染したウイルスは彼女に敗北し、人類に無害なものに変異して世界に広がり、逆に人々を癒したんだ」


 HeLaヒーラ細胞。

 それは、ヒト由来である世界初の細胞株だ。いくつにも分割され、世界中の様々な試験や研究に幅広く用いられるものとなっていた。この研究所の資料室にも保管されていたものだ。

 正体は、1951年に子宮頸癌で亡くなった30代黒人女性の腫瘍病変から分離され、株化されたものである。

 癌は、本来寿命を持つはずの細胞が異常によって不死化し、増殖を続けてしまうがために人体に有害なものとなる病だ。ヒーラ細胞は最初に株化されたそれであり、癌患者であった本人が死んだあとも、彼女の癌細胞だけは生き続けていたのだ。

 つまりは、宇宙ウイルスが対抗手段を持たない二百年以上生きるヒト細胞そのものだったのである。

 より強い新種が生まれると、旧世代の種を淘汰してしまうことは自然界でも珍しくはない。対抗手段を持たないヒーラ細胞に接触して人類に無害な種へと突然変異させられた宇宙ウイルスは、人に有害な原種を根絶やしにしたのであろう。

 そしてヒーラ細胞とは、その元となった癌患者の氏名、ヘンリエッタ・ラックスからアルファベット二文字ずつを取って命名されたものだ。


 彼女が、かつて病室で信念を抱いたまま亡くなったあのヘンリエッタと同じであるかは定かでない。されど、彼女は言っていた。


「必ず病気に勝って、あの子たちの未来を守ってみせる」と。


 もしそうであったなら、ヘンリエッタは言葉通り、最後には人類を蝕む病に打ち勝ち、自らの子孫たちの未来を護ったということなのかもしれない。

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