2話目
靴がクシャッと枯れ葉を踏んだ。
私は権吉のリードを握りしめた。6月なのに、足元に大量の枯れ葉が山積している。まるで晩秋だ。
「なんか寒くない?」
腕に鳥肌が立っている。いつの間にか、空も夕方のように暗くなってきた。いくら曇天と言っても暗すぎる。
杏は何も言わなかった。じりじりと音のしそうな視線を、権吉の背と進む方向とに交互に送る。
「杏、大丈夫? 最近様子がおかしくない? 萌香さんのことが気になるのかもしれないけど、皆も杏を心配してるよ」
「すみません。でも」
杏は顔を伏せた。「萌香の話、していいですか」
私の返事を待たず、彼女は話し始めた。
「萌香は私と同じ高校で、一緒に吹奏楽部でボーンやってたんです。同じ大学に入るって決まったときも、吹部があったら一緒に入ろうって」
「へぇ。ほんとに入ってほしかったなぁ。うち、ボーン足りな」
「鞠さん、『宝島』のサードはどうするんですか?」
突然、私の言葉を打ち消すように杏が言った。私は戸惑いながらも答えた。
「えっと、OBの浅川さんに賛助で乗ってもらうけど」
「違いますよ、サードは萌香でしょ。萌香も吹部だもん」
私は思わず、権吉のリードを取り落としそうになった。
どうして杏はこんなおかしなことを言うのだろう? 萌香さんが吹部だなんて、そんなはずがない。
私の知らない人なのに。
杏は私の目をまっすぐ見つめて続けた。
「萌香がいなくなったとき、私、はぐれたと思って、LINEを送ろうとしたんです。でも何度探しても、萌香のアカウントがなかった」
そう言いながら、水色のハンカチを両手でぎゅっと握りしめる。
「学校に行っても、萌香のロッカーがないんです。吹部の部室に置いてたはずの萌香のボーンも楽譜も、全部なくなってるんです。あの子の家にも行ったけど、人違いじゃないですかってお母さんに言われました。皆、萌香のこと知らないんです。鞠さんもですか? 萌香のことダモエって呼び始めたの、鞠さんなのに」
救いを求めるような声だった。私は必死に頭の中を探した。原田萌香。3人目のボーン奏者。私の後輩。
思い出せない。
「私のアパートで宅飲みして、そのとき『宝島』のパートも決めましたよね? 3人いるからちょうどいいねって、鞠さんが言ったんですよ!」
杏の声が突然大きくなった。
「毬さんも皆も、どうして萌香のこと忘れちゃったの!? 人って、そんな簡単にいなかったことになっちゃうんですか!?」
突然、開けた場所に出た。
真っ赤なベンチが、私の目に飛び込んできた。
色褪せたウサギの絵がついたシーソー。
ポールに巻き付けられ、針金でぐるぐる巻かれたブランコ。
塗装があちこち剥がれて、今にも崩れ落ちそうな滑り台。
私のこめかみを冷たい汗が伝う。
そこは異様な場所だった。
恐ろしいものは何もないはずなのに、なぜか戦争画のように生々しく不吉な気配を漂わせていた。
耳を伏せた権吉が、私の足に体をすり寄せてきた。そのとき、突然私の頭の中に自分自身の声が響いた。
(杏とダモエが入ってくれてよかったぁ。これで『宝島』は完璧だね)
同時に、そのときの記憶がありありと脳裏に蘇る。原田萌香。通称ダモエ。私と杏と三人でトロンボーンを吹いていた子。ほっそりして可愛い子だった。寒色系が好きで、よく水色のブラウスを着ていた。
どうして原田萌香を、ダモエのことを忘れていたのだろう。これではまるで、ある日突然彼女の存在そのものが消えてしまったみたいじゃないか。
そう思った瞬間、私の全身に悪寒が走った。まるで足元に空いていた見えない穴に、ふと気づいたような気分だった。
木々の葉が擦れあう音が、何かの笑い声に聞こえる。
「鞠さん!」
杏が叫んだ。「あれ!」
私は彼女の指差す方を見た。
ブランコの下に、いつの間にか女性が立っていた。水色のブラウスを着た、華奢な姿。
「ダモエ?」
「萌香!」
私と杏が呼びかけるのが、ほとんど一緒だった。杏ははじかれたようにブランコへと走っていく。私も続こうとしたとき、右手がぐっと引っ張られた。
権吉だ。
「グァオッ」
聞いたことのない声で吠え、権吉は私を反対の方向へ引っ張る。
私はとっさに権吉に従った。
「杏!」
走りながら振り返ったとき、杏はブランコの下で、女性の手を取っていた。
気がつくと私は、ボート池にかかる橋に立って、小さな波の立つ水面を見下ろしていた。
権吉が私の足元に座っている。
1羽だけのスワンボートが、ボート場に帰っていく。
「杏?」
辺りを見渡したが、彼女の姿はなかった。
そのとき私のスマホが鳴った。
「もしもし、杏?」
『違うよ、近江でーす』
吹奏楽部の同級生だ。思わず全身から力が抜けた。
『鞠、「宝島」のボーンの楽譜知らない? 今、浅川さんが来ててコピーが欲しいっていうんだけど、原本がないんだよね』
「浅川さん?」
『賛助で乗ってもらうんでしょ? 浅川さんと冴子さんに。現役、もう鞠だけだもんね』
「私だけって……杏は? ねぇ、楽器置き場に杏のボーンがない? 赤いハードケースの」
『え?』
電話の向こうに、戸惑うような気配があった。
『ないけど……てか、アンって誰? 賛助の人?』
気が遠くなった。
私は電話を切って、橋の上に立ち尽くした。
「……権吉、人って、簡単にいなかったことになっちゃうの?」
私は足元を見下ろした。権吉は困ったようにフーンと鳴いた。
そのとき、ふと違和感を覚えて、私はズボンのポケットを探った。柔らかいものが手に触れる。
取り出すと、水色のハンカチだった。角にM の字が刺繍されている。
ダモエのハンカチだ。どうしてこんなところに入っているんだろう。
そのとき、私はあることに気づいて立ち尽くした。
このハンカチは「誘い」だ。
ふたりを探しに、もう一度あの場所に来いと呼んでいるのだ。
得体の知れない、「なにか」が。
私は権吉のリードを握りしめ、公園の遊歩道の奥を見透かそうとした。
木の葉が風に揺れてざわめいた。私の耳にはそれが、誰かがあの空間に迷い込むのを待っている「なにか」の囁きに聞こえた。
【リライト版】穴 尾八原ジュージ @zi-yon
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