【リライト版】穴

尾八原ジュージ

1話目

 コンビニのある角を曲がると、藤見川公園の入り口に杏が立っているのが見えた。私の足元で、一緒にやってきた権吉がワンと吠えた。

 杏は大学の1学年下の後輩で、私と同じく学内の吹奏楽部でトロンボーンを担当している。

 金曜日の午後1時。昨夜からの雨は今は止んでいるが、空気はしっとりと重い。そういえばついこの間、ニュースで梅雨入り宣言を聞いた気がする。

「鞠さん」

 私に気づいた杏が手を振る。

「本物の権吉くん、かっこいいですね」

「ありがと。一応、元警察犬だからね」

 私がそう言うと、自分の話だとわかっているように、権吉がまたワンと吠えた。ジャーマンシェパードの権吉は10歳。もういい年だ。

 私は彼が現役だった頃を知らない。引退後、紆余曲折を経て我が家にやってきたときにはすでにシニア一歩手前で、これが警察犬か? と思うほどおっとりしている。でもすごく賢い……はずだ。

「空いてるね、公園」

「平日だし、天気悪いですしね。すみません、こんな日に」

「いーのいーの。どうせ権吉の散歩はしなきゃならないから」

 長時間の散歩は大型犬の宿命だ。私の横について歩く権吉は、散歩っていいよね! とでも言いたげに、私の顔を見上げた。

 私たちはそろって中に入った。樹木に囲まれた公園の空気は、外よりもじっとりと湿っていた。

 藤見川公園は広い。ボートに乗れる池や屋外ステージ、子供用の遊具があるスペースにトレーニング用の設備、テニスコートまで備わっている。公園を南北に分けるように藤見川が流れ、途中に橋がいくつかかけられている。土日にはフリーマーケットやストリートパフォーマンスなどが催され、たくさんの人が集まるが、今日は平日で、おまけに天気も悪いとあって、公園にはほとんど人気がなかった。

 歩きながら私は杏に話しかけた。

「あのさ、確かに権吉は警察犬だったけど、人の匂いを追えるかって言われると、ちょっと自信ないな。もう引退した子だし、私もそういう経験ないし」

「それでも試してみたいんです」

 杏は薄い唇をきゅっと結んだ。できそうなことは何でもやってみる。いかにも彼女らしい行動だ。

 そういえば、希少なバストロンボーンの賛助出演者を連れてきてくれたのも杏だった、と私は吹奏楽部のことを思い出す。おかげでOBも加えて、4人で『宝島』を演奏できることになった。この曲にはボーン3本、バストロ1本が必要なのだ。

 私たちは公園内の案内板の前で一旦立ち止まった。杏が肩からかけたポシェットを開け、ビニール袋に入った水色のハンカチを取り出した。タオル地で、端にアルファベットのMが刺繍されている。

「権吉くん、この人わかる?」

 杏は権吉の前にハンカチを差し出した。権吉はそれを興味深そうに嗅いでいたが、やがて私の顔を見上げるとおもむろに歩きだした。

「あっちですよ!」

「ホントかなぁ」

 曖昧な返事をしながらも、私たちは権吉に従うことにした。


 右手にボート池が現れた。権吉は池に沿ってどんどん進む。私と杏がそれを追う。

「速すぎない?」

「大丈夫です」

「ねぇ、話に聞いてた杏の友達さ。その……ほんとに行方不明なんだよね?」

 私は隣を歩く彼女の顔を覗き込んだ。

 杏が私をわざわざ権吉付きで呼び出したのには、理由があった。

 何でもこの公園内で、彼女の友達がいなくなってしまったらしい。そこで権吉に、友達の匂いを辿らせてみたいというのだ。そうすれば何か手掛かりが見つかるかもしれない……少なくとも、杏はそう考えているらしい。

「だったら権吉より、警察にちゃんと相談した方がいいと思うんだけど」

 そう言うと、彼女は小さく首を振った。

「ちょっと事情があって……あの、鞠さん」

 杏は重要な打ち明け話をするように、少し言葉を詰まらせながら「その子、萌香って言うんです」と言った。

「萌香さん」私はその名前を反復した。聞き覚えのない名前だった。

「私と同級生なんです。あの、鞠さんは原田萌香って子、知りませんか?」と、杏は突然私にそう尋ねた。

「同じ大学で、鞠さんと同じ教育学専攻なんです。名字と名前をくっつけて、ダモエって呼ぶ人もいますけど」

 私たちの通う大学は比較的生徒数が少ない。キャンパスもひとつしかないので、知り合いの知り合いが実は知り合い、ということは珍しくない。でも、原田萌香という人物に心当たりはなかった。

「知らないなぁ。専攻が同じなら授業で会ってるかもだけど。写真ある?」

「ないんです。SNSとかもなくて」

 今時珍しい子だ。

「そっか。見つかるといいね」

「はい……」

 杏はなぜか、ひどくがっかりしたように見えた。私は元警察犬の飼い主というだけで、警察でも何でもない。そんな顔をされても……と思ってしまうが、きっと萌香さんのことが心配で、藁にもすがる思いなのだろう。ここ最近の杏の様子はおかしいと、彼女を知る皆が口を揃えるくらいだ。

 権吉は時々私たちの方を振り返りながら、公園の奥へと導いていく。

「萌香なんですけど、私とふたりでここに来たときにいなくなったんです。この中って、小さな児童公園みたいなところがいくつかあるでしょ?」

「ああ、遊具があるとこね」

「そこで消えちゃったんです」

「消えた?」

 しっかりものの杏には珍しく、妙なことを言うなと思った。

「はい……そこには真っ赤なベンチがあって」

 杏は指を折りながら話す。

「ウサギのシーソーがあって、ブランコは乗れないようにポールにぐるぐる巻いて、針金で留められてるんです。あと、錆びだらけで見るからにボロボロの滑り台」

「そんなとこ、あったかなぁ……」

 私は権吉の散歩のため、この公園を度々訪れている。確かに遊具が設置されている場所はいくつかあるけれど、使えないブランコやボロボロの滑り台を放置しているところなんてあっただろうか?

「萌香さんって、いついなくなったの?」

「先月の30日です」

 横目で池を眺めながら、杏は答えた。今日は酔狂なスワンボートが一艘浮かんでいるだけだ。仲間のいないスワンボートは、何だか寂しそうに見える。

「確か土曜日だっけ?」

「そうです。私たち、ストリートライブを観に来たついでに、都市伝説を検証してみようって話になって」

「都市伝説?」

「そうです。知りませんか? 藤見川公園の都市伝説」

 残念ながら聞いたことがない。怖い話が苦手な私は、「怪談」とか「都市伝説」とかいう種類の話が始まると、耳をふさいで逃げ出してしまうのが常だった。

 杏には悪いけど嫌だな、と思った。こんな天気の悪い日には、特に聞きたくない。

「藤見川公園って、橋がいくつもあるでしょ?」

 杏がそう言ったとき、私たちはまさに、ボート池にかかる橋を渡っていたところだった。

「その橋を決まった順番で渡ると、おかしな世界にまぎれ込んでしまうっていう話なんです。決まった順番っていうのがよくわからないから、とにかく出鱈目に歩いたんですけど」

「ねぇ、まさか萌香さんってその、『おかしな世界』に行っちゃった、とか言わないよね?」

 杏は答えなかった。

 権吉は鼻を地面につけながら、私たちを先導する。スニーカーの爪先が、いつの間にか泥で汚れている。いつの間にか私たちは藤見川の近くに来ていた。欄干に「ほたるばし」と書かれた小さな橋を、私たちは渡った。

 しばらく無言の散歩が続いた。権吉の後に続いて、川のこちら側とあちら側を何度も行き来する。

 そろそろ疲れたな、と思い始めた頃、また橋を渡った。そのとき私は、ふと違和感を覚えて立ち止まった。

「ねぇ、なんか変だよね?」

 私は辺りを見回した。

 いつの間にか遊歩道の周囲は、廃屋のような建物で囲まれていた。樹木の間からガラスのない窓や、ボロボロになった洗濯物が見える。こんな場所はなかったはずだ。

 権吉が私を振り返って、鼻声で鳴く。

「ありがとう、権吉くん。私ひとりだと、どうしてもここに来られなかったの」

 不安そうな権吉に、杏がそう言った。

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