荒波に降り立つ翼――US-2救難飛行艇
島村
荒波に降り立つ翼
どこまでも深く、青く澄んだ海原は穏やかに凪いでいた。降り注ぐ太陽の光を受けて、目に沁みるほど
航平は海に出るのが好きだった。
小学校が休みの今日も、朝暗いうちから起き出し、父親にくっついて漁船に乗り込んだ。波を割って軽快に進む船の甲板に立ち、潮風と塩からい
漁場に着くと網入れを手伝い、波が
海は航平にとって楽しい遊び場であり、物心つかないうちから慣れ親しんだ場所であり、気の置けない幼馴染のような存在だった。
ただ、そうやって気ままに数時間を過ごした後が問題だった。仕掛けを引き上げる時が、航平は苦手でたまらない。
網の中で跳ね回る魚たちを見ていると、ついさっきまでは自由に広い海を泳ぎまわっていたのに、突然網にかかって自分の世界から引き離されるのはどんなに辛いことだろう……と想像しては心が痛んだ。
メカジキが揚がった時などは、長く鋭い
そうやって涙目になる息子を見る度に、父親の哲雄は「お前はほんとに気が弱えなぁ」と潮に灼けた顔に苦笑を浮かべた。航平自身もすぐに涙が滲んでしまうのは情けないとは思っていたが、それでも海に出るのをためらわずにいられるのは、父親が息子の強すぎる感受性を尊重し、漁業という営みに無理に慣らそうとしないおかげと言えた。
網をまとめる父親の脇で、雑魚を海に戻していた航平は、ふと波間の彼方に注意をひかれて目を凝らした。
「父ちゃん、雲が来そうだよ」
息子の声に、仕事の手を休めることなく顔を上げた哲雄は、水平線上に発達しつつある入道雲の姿を認めた。
「ほんとだ。荒れないうちに港に戻るか」
哲雄は手早く漁具を片付けると、操舵室に入っていた。
船が動き出すのに備えて足を踏ん張りながら、航平はいつものようにエンジン音が吹き上がるのを待っていた――だが、いっこうに始動する気配がない。
「父ちゃん?」
振り返ると、いつもなら窓越しに見える父親の姿がない。
どうしたんだろう――不思議に思って操舵室を覗き、ぎょっと足をすくませた。
哲雄が狭い床にうずくまり呻いている。
「父ちゃん! どうしたの!? 父ちゃん!?」
とっさに縋りついて無我夢中で呼びかけると、哲雄は薄く目を開けた。手をおぼつかなく動かして壁を指さす。何かあったら押すようにと教えられていた救急支援連絡装置だ。
航平は遮二無二駆け寄り、必死にスイッチを押し込んだ。
後はもう、なすすべがなかった。何度呼びかけても哲雄は苦しげに呻くばかりで、どこが痛むのか、何が原因なのかすら分からず、その声からも徐々に力がなくなってゆく。
父ちゃんが死んじゃう……父ちゃんが死んじゃう……。
何ひとつ役に立てない無力さと動揺、胸が潰れんばかりの不安と心配。この広い海原で、頼れる相手が誰一人としていないという、身の内が冷たくなるような心細さ――9歳の航平はただただ泣きじゃくることしかできない。
いつの間にか陽は陰り、波音は騒がしく、船の揺れは大きくなっていた。ひんやりとした風が不穏な気配をはらんで操舵室に吹き込んでくる。
何か掛けてあげないと。
自分ができることを精一杯考え、嗚咽を漏らしながらも毛布を探しに立ち上がろうとした航平の前に、数人の男たちが現れた。ヘルメットを被りオレンジ色のライフジャケットを着ている。
「海上保安庁です。救急信号を受信しましたが――」
驚きで棒立ちになった航平をよそに、彼らは船室に横たわる哲雄を目にするやすぐさま駆け寄った。心臓マッサージが開始される様子を呆然と見ていた航平は、職員のひとりに促されて外に出た。気づかぬ間に巡視艇が漁船に横付けされていた。
「君、名前は?」
「航平……み、三浦、航平」
しゃっくりをあげながらどうにか答えると、更に哲雄との関係や倒れた状況を尋ねられた。その間にも巡視艇と漁船の間ではせわしなくやり取りが交わされ、医療器具が運び込まれ、ノイズ混じりの無線交信が飛び交っていた。波はいっそう高さを増し、飛沫が甲板に吹きつける。
揺動によろめきかけた航平を支えて、職員は声に力を込めて言う。
「いいかい、航平君。これからお父さんを病院へ運ぶ。でも船だと時間がかかりすぎるから、飛行機で運ぶことになったんだ。飛行機は今こっちに向かってる。だから心配しなくていいからね」
――嘘だ。
降りかかる波飛沫と止まらない涙で顔をぐしょぐしょにしながら、航平は更に泣きたくなって腹を立てた――だってここは海なんだ。飛行機が下りられるはずない。そんなこと僕にだってわかる。きっと安心させようとしているだけなんだ。飛行機なんて来るわけない……。
やり場のない不安と訳の分からない怒りに新たな涙が込み上げてきた時、ふと風の合間に低い唸りを聞いた気がして航平は顔を上げた。
いつの間にか青空を遮り、頭上一面を覆う灰色の雲。その下に、ぽつんと一点の光が見えた。目を凝らす航平の視界の中で、小さな光は徐々にその姿を大きく、はっきりさせてゆく――カモメを思わせる白い機体に、オレンジ色の機首。機体の背から左右にまっすぐ伸びた翼には4発のプロペラ。翼の両端を支える浮舟。そして何より目を引く胴体の下部――鋭いV字を描く輪郭はまるで船底のようだ。
船だ……船が飛んでる……!
強風の中にあっても揺らぐことなく、あたかも空中に静止しているのかと思えるほどゆっくりと、慎重に、うねりの間を目指して降りてくる。
航平は目を凝らし、我を忘れてただ一心に見つめ続けた――。
*
「機長より全
女性にしてはハスキーな声が機内搭乗員のヘッドセットに流れる。声とともに機体は緩く翼を傾けて旋回を開始。空には雲が厚く垂れ込め、コクピットから見下ろす海原は鉛色にくすんでいる。風に煽られ白波が立つ海面に、目指す船は浮かんでいた。
船内で待つ急患を安全に収容し、可能な限り迅速に遅滞なく本土の医療機関に引き渡す――その任務に、今、海上自衛隊の救難飛行艇US-2のクリュー11名は一丸となって向かっていた。
「三浦2尉」
機長の
「着水を任せる」
予想していなかった指示に、思わず航平は機長を見つめた。
雨に煙る視界、うねりを伴う海上、波頭を白く泡立たせて寄せ来る波。決して良いとは言えない海象条件――訓練では幾度となく経験してきた。だが、一瞬として同じ波はない。そしてこの条件下、実際の救助現場で自分の操縦による着水は初めてだ。
しかし航平はすぐにしっかりと頷いた。
「了解しました、操縦を代わります」
波に弄されている船の中には、一刻を惜しむ思いで助けを待つ人がいる。隔絶された海の上で不慮の事態に見舞われることがどれほど心細く、どれほど寄る辺ない気持ちにさせるか、航平は身をもって知っている。
昔、9歳の自分が縋る思いで見つめていたUS-1の白い翼。あの時、救難飛行艇が来てくれたからこそ、父親は海とともに生きる生活を取り戻すことができた。そのUS-1の使命を引き継ぐこの濃紺の飛行艇の到着を、待ちわびる人がすぐ目前にいる……。
「三浦」
志築の淡々とした声が耳に届いた。
「今は余計なことを考えない。自分たち操縦士が考えるべきは――」
「『波を見極め、機体とクリューを安全に、確実に海上に下ろすことだけ』」
航平は機長の言葉を引き取ってきっぱりと言った。海面に視線を当てながら、この場にあって感傷的になりかけた自分自身を戒める。志築が口元に笑みを覗かせ、小さく頷く。
救助活動の現場では、個々人がヒーローになろうとしてはいけない。「自分が助ける」という突出した気負いはむしろ全体の支障になりかねない。救難飛行艇の行動はチームプレーだ。操縦士、捜索救難調整官、機上整備員、航法通信員、機上救護員、機上救助員――クリュー11名がそれぞれの役割を完璧にこなすことで、初めて任務完遂が可能となる。
『訓練で泣き、実動で笑おう』――それがこの救難飛行艇を運用する第71航空隊のモットーだ。笑顔で任務を締めくくれるように。そして何より、危機に瀕した命を繋ぎとめる、その一助が確実に果たせるように――隊員それぞれが強い想いを胸に、訓練に励んできた。荒れ模様の天候となれば、休日を返上してでも皆で沖に向かうことさえあった。日々の訓練を通じて連帯感を培い、クリュー同士の信頼と連携を高めてきた。
「波高、現在約2.5メートル」
クリューからの報告とともに、コクピットの計器上にも着水に必要な情報が映し出される。波は高いが、上限値には届いていない。他の数値も着水基準を満たしている。
航平は最後に改めて自分の目で波長と波高を見定め、着水するための回廊を荒海に見出した。
よし、行こう――。
そっと息を吸い、進入を開始する。
絶えず動き、重なり合い、不規則に形を変え、寄せてくる波。海とともに育ち、知らず知らずのうちに波を読む力を身に備えていた航平にとっても、荒れた海は手強い相手だった――そして今、容赦のない自然の、強大なエネルギーのはざまに機体を滑り込ませなければならない。
高さ約10メートル、全長33メートルもある大きな体に反して動きが軽く、パワーに優れたUS-2はある意味じゃじゃ馬だ。その馬力のある巨体を時速100キロ以下のスピードに抑え、操縦桿とスロットルを慎重に操作して進入角度を調整しながら降下させてゆく。
コクピットから見える波が、次第にはっきりと荒々しさを増してくる。せり上がり、うねる海面が間近に迫る。
「全クリューへ、まもなく着水」
4発のプロペラが海水を巻き上げ、激しい飛沫がほとばしる。船底が波頭を切り――ドン、と突き上げるような衝撃を感じた瞬間、航平は一気に制動をかけた。
ビュオォォォ……!
プロペラの回転音が海鳴りと風音をかき消す。
機体は緩くバウンドして海面に降り立った。荒波に機首が大きく上下に振れ、翼が左右に
背後に座る機上整備員とともに素早く計器をチェックする航平に、志築が鷹揚な笑みを向けた。
「悪くない着水だった」
そのひと言に、航平もほっと息をついて頷く。
「救助用意! 搬送者の収容を開始せよ。目標の船舶の位置、本機から11時方向、距離100メートル」
志築の下令に、潮気を含んだ風がコクピットにもさっと吹き込んできた。救助ボートを出すために後部扉が開け放たれたのだ。無事、US-2が海に浮かぶ船となれば、ここからは機体後部でスタンバイしている隊員たちの出番だ。
「搬送者の収容に向かえ」
続く指示で、すぐさま救助員と救難員がボートに乗り込む。うねる波間に見え隠れする船を目指し、可能な限りの速力で進んでゆく。
その間にも、航平と志築は機上整備員とともに離水に向けて機器の点検を開始した。
波に翻弄され、機内は上下左右に大きく揺れる。航平が操縦席からエンジンの様子を窺うと、翼端もプロペラも時折激しい飛沫を受けて水を滴らせている。
頼む、収容完了まで耐えてくれよ……。
海面にいる時間は最小限に抑えたい。
コクピットの窓からは、飛沫に煙る視界を透かして収容活動の様子が見て取れた。救助ボートは船に接舷し、隊員たちが患者を慎重にボートへと移している。ほどなくして船を離れたボートは、波間を縫って患者とともに達着。
機体とボート、波に揺られ異なるタイミングで上下する二つの場所を安全に移動できるよう、航平は必死になって機体を制御した。
「搬送者収容完了!」
捜索救難調整官からの報告を受けて、志築が再び航平に頷く。
機体後部では医療資格を持つ救助員が応急処置を開始しているはずだった。後は一筋に本土を目指すのみ。
「全クリューへ、本機はこれより離水する」
志築と機上整備員とに確認し、航平はスロットルを押し上げた。
ビュオォォォォ……と再び力強い風切り音が轟き、濃紺の翼が白い水煙に包まれる。
急激に推力を得て、US-2は一気に加速してゆく。波を切る激しい振動が続くのはわずか10秒ほど。機体は軽々と浮き上がると、瞬く間に海面を離れた。船底から水飛沫を曳きながら、ためらうことなく高度を上げてゆく。
灰色の雲を抜けると、コクピットの窓の向こうには快晴の空が広がっていた。透きとおった薄青はうっすらと夕暮れの気配をはらみ始めている。荒れた大海原から無事に離脱し、安堵に肩が軽くなる。
だが、まだ任務は終わっていない――航平は改めて気を引き締めた。患者をしかるべき機関に引き継いで初めて任務は完了だ。
助けたい――そう思うのは不遜だと分かっている。それでも、助かってほしいという強い願いはいつでも心にある。この救難飛行艇しか達成が見込み得ない任務だからこそ、自分たちに出動が求められるのだ。広大な海とともに生きる人たちの最後の砦として、大きな安心感の
操縦桿を握りながら空の彼方に目を注ぐ航平を、志築が静かに窺う。
どこまでも続く雲の波を眼下にして、濃紺の飛行艇は一路、陸を目指して粛々と進む。
<完>
荒波に降り立つ翼――US-2救難飛行艇 島村 @MikekoShimamura
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