第9話 暖炉とマシュマロ

 さむい。さむい。

 集中できない。


 自室で勉強していたMの指先と足先がかじかんでいる。本のページをめくる手がすこし震えた。暖房はついている。それでもシステムが古いから、大きな音をたてて動いている割に、外からの寒さの侵食を防げていない。

 たまらなくなって、部屋を出て、リビングルームにスキップすると、大家がソファでのんびりテレビを見ていた。


「さむいよ」


 文句を言うと、


「そっか」


 と返される。

 それだけで終わってしまったので、Mは自分がどれだけ寒さを感じているかアピールするために、大家とテレビの間に立って、踊りを踊った。すると、彼は根負けして、


「分かった、分かった」

 と手をひらひらさせた。


「しょうがないなあ。暖炉に火をつけよう」


 大家との共有スペースのリビングには、レンガでできた暖炉がひとつあって、大家の気が向くと火を灯してくれるのだ。普段はMが拝み倒してやっと使用に同意するのに、今回はめずらしくあっさりと事が運んだ。Mは狂喜乱舞して、さっそくキッチンに行きマシュマロが入ったビニール袋を引っ張り出してくる。


 その間にも大家が暖炉の準備を終えていた。暖炉のぱっくり開いた口の中に、いらない紙や新聞紙を丸めて下の方に置き、上から小枝と薪を重ねる。マッチで紙の部分に着火すると、すぐに火が燃え広がり、その勢いがすこし収まると炎が安定した。


 着火だけしてすぐテレビの前に戻ってしまった大家とは反対に、Mは暖炉の前に座り込む。タイルのひやりとする感触が脚に伝わり、暖炉の熱気はMの身体をあたためた。


 暖炉の前で、ちろちろと燃える炎の先をぼんやり見つめて、Mはなんだか安心した。暖かい膜のようなものに包まれたような心地だった。きっと炎には人を癒す効果があるにちがいない、とMは確信する。燃やしている木材は人工的な香料とはまた違い、甘さのないものだけど、心が安らぐ。


 Mはときどき、自分がなにかに癒されなければならないほどの事はしていないはずなのに、とんでもなく疲れているような気分になる時がある。どんなに眠っても、どんなに食べても、どんなに遊んでも、疲れがとれない。


 だから、きっと生きているというのは、とても疲れる事なんだとMは思っている。朝起きれるだけで人はすごいし、人と挨拶できるだけですごい。ご飯を食べれるのもすごければ、きっともう、そんなすごい事を積み重ねて生きているだけで、人はすごいのだ。人は奇跡で成り立っている。だから、きっと、すこし疲れてしまうくらい、そんなに不思議な事じゃない。


 キッチンから持ってきたフォークの先にマシュマロを突き刺し、炎にかざす。マシュマロはすぐに、ぷすぷすと気泡を作り、小さな煙をあげる。砂糖が焦げてキャラメルになる、やさしい香りがした。口に含むと、ムース状になった砂糖が、しゅわ、と溶けて消えた。しばらくMは無心になって、フォークにマシュマロを突き刺し、口に入れる作業を繰り返した。


 それから甘いものに飽きると、またぼうっと炎を見つめた。

 ふと、自分の部屋兼研究室にある大量の授業ノートを思い出し、『ここで燃やしたら、すかっとするだろうな』と思いついた。


「ピロマニアさん、どうしたの」


 しずかに黙り込んだMを不審に思った大家がテレビのチャンネルを回しつつ、声をかける。Mはちろちろと蛇の舌先のように動き回る炎を見つめながら質問した。


「ねえ、ここで紙燃やしてもいい?」

「灰を片してくれるならいいよ」

「分かった」


 家主の了解を得たMは、すぐさま部屋に駆け込むと大量のノートを持ってくる。魔法薬学、基礎講座、神経魔法、その他、その他。ノートと言ってもクリアファイルに入れてあるので、一枚一枚はバラバラになっている。

 ビニールから紙を一枚ずつ引き抜き、丸め、炎の中に投げ込んでいった。


『あ、これ、去年のノートか』


 Mはノートの取り方がとても下手くそだから、同じ内容のノートが三冊に、さらにはデジタルなデータでも持っていたりする。


『燃やしてしまえ、燃やしてしまえ』


 いい気分だった。

 Mにほとんど利益をもたらさなかった紙たちは、メモ用紙としての役目を終え、今はただはかなく一瞬で燃え尽きていくのみだ。あんなに苦しんで勉強した時間も、ここでこうやって紙を燃やすためにあったと思えば惜しくないとさえ思える。


 そういえば、なんども落第した時はそれはもう、つらかったものだ。まさか自分が、と驚愕したし、失われる時間を思えば恐怖した。ただでさえ人より人生の歩みが遅いのに、さらに遅れてしまうと愕然ともした。毎回、三日間くらい泣いたし、落とした科目の教授にまるで嫌がらせのように会ってくれるまで毎日手書きのメッセージを書き続けた。そして結局、点数を上げることはできない、と断られた。


 いま思い出すと、恥ずかしくてその先生にはもう二度と会いたくないけれど、その時はそのくらい必死だったのだ。いま同じ状況に陥ったらきっと同じことをするだろう。その自信がある。人は追い込まれると恥も外聞もなくなってしまうのだ。


 炎に吸い込まれ、消えていく紙を見ながら当時のことを思い出し、『ちゃんと、勉強しよ』とMは心に誓った。ちゃんと勉強しても、前に進めるかどうかは分からないけれども。


 でもまあ、失敗したらまた三日間くらい泣いて、ベッドの上でだらだらして、そして次こそ成功させようと意気込むんだろう、きっと。進歩のないことだ。


『私はすごいんだから、きっとだいじょうぶ』


 Mの心に、とくに根拠もない自信とともに、そっとやる気が芽生え、ひとり、うなずいた。


「あの、紙の灰で火が消えかけてるんだけど」


 決意とともに、背中側からはそんな呆れたような声が聞こえてきた。

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