第8話 画面の向こう側にいる相手
朝の九時。いよいよこの日がやってきた。
待ってもいないし、望んでもいないけれど、魔法基礎研究の発表の日だ。たった十五分。たった十五分のことなのに緊張する。Mはめずらしく緊張している。
過去の魔法使いによって生み出された基礎魔法のやり方の発表の課題がクラスの生徒全員に出されていた。二十人ほどの小さなクラス。世界中に拡がる疫病のせいでほとんど顔を合わせてはいないけれど、それでも何人かの顔は知っている。
そう、彼らの前で発表をするのだ。
といっても、家にいながらパソコンのカメラを通してだ。お気に入りの薄緑の机に置かれたパソコン。その内臓カメラがMをじっと見つめている。
Mが選んだ題材は言語魔法の一種だった。喋る言葉がそのまま可視化される、とても色あざやかな魔法だ。
そして、その手法はたいして複雑でもないのに、やたらと長い論文に纏められていた。魔法の研究書は大抵、Mが大の苦手な魔法公用語で書かれている。発表の一週間前に課題を初めて、論文を読み、そしてなんどもなんども読み返して見たけれど、さっぱり意味が分からなかった。単語単語は理解できる。なんとなく文章の意味も分かる。なのに文章は全体的なまとまった意味にならない。
『へー。こんなことをすればいいのか』
と感激した次の瞬間には、その段落のテーマがなんだったか忘れている。
集中できずに、三日ほどぼんやりして、二日ほどだらだらとした。
その間、なんどか嫌気がさして紙束を宙に放り投げた。
部屋の中をくるくるひらひら舞う紙片はまるで夢のようだった。とてもとても美しかった。
世の中のすべてがまるで儚い幻想に感じられたとき、ふと、Mの神経回路に稲妻が走るように、革命的なアイデアが脳裏に浮かんだ。
そう、そうなのだ。いっそのこと、全文の翻訳をしてしまえばいい!
多少遠回りはするかもしれないけど、それが確実な進歩をもたらす。それはとても魅力的で、画期的なアイデアに思えた。
いったん作業を始めてしまえば、部屋に置いてある山積みの本も、ネットの大海も気にならなくなった。翻訳作業はとても楽しいものだった。そして、大体の翻訳を終えたとき、とても満足感に包まれ、そして気がついた。
『あれ、やっぱり全体の意味が理解できてないような…?』
しかもMの母国語に翻訳してしまったので、発表するには再度、学校で使用している言語に翻訳し直す必要があった。これが発表の前々日のことだった。
絶望した。
世の中というのはなんて手厳しいのだろうと、わけのわからない苛立ちも覚えた。もちろん、そんな感情が勉強に役立つはずもなく、ただ不満が溜まっただけだった。
もしかしたら、二晩、寝なければ課題を終わらせられるのだろうか、と慄いたとき、クラスの友人からメッセージが入った。
『翻訳魔法を教えてあげよう』
天からの恵みの手のように差し出された救済にMは歓喜した。もうなにも考えたくなかった。教えてもらった魔法を使うと、あれだけ時間がかかったのがウソのように、またたく間に論文はべつの言語に塗り替えられていった。しかもそれはMが翻訳したものよりよっぽど分かりやすかった。
Mはよろこびのあまり、踊りをおどって、疲れて寝た。
発表前日。
必死に内容をまとめ上げた。
できるだけ分かりやすいように、相手に伝えられるように言葉をまとめた。ときどき無関係な文章が割り込んでこようとしたものだから、それの制御にてまどった。それから、なんど発表の練習をしても、所要時間を超えるからこまった。時間はあまりにも反抗的すぎた。
どうやっても成功しなかったから、少し早起きすればいいやと結局寝た。
それが昨日のことだ。
今日はすこし早起きして、気力を取り戻し、いらない文章も、多少必要そうな文章も削って、時間を短縮した。逃げまわっても削除したし、隠れようとしているのも消した。こうして、選ばれしエリートによる、いっけん完璧な隊列ができ上がったのだった。
カメラの向こう側で、先生が発表の順序を生徒たちに告げる。Mは四人中、三番目だ。
ほかの生徒の発表を聴きながら、不安になる。どうせなら、一番がよかった。
Mはたいてい、自信があることなら堂々と発表できるし、間違っていてもとくに根拠のない自信に裏打ちされて堂々と発表できるのだけど、今回の課題はほんとうに自信がなかった。
原文をどれだけ理解できているのか自信がない。
魔法に頼ったとはいえ、ネイティブでない言語での発表をどれだけ理解してもらえるか分からない。
そもそも自分の研究でもない。
とても不安だけど、すこし愉快でもあった。こういうのは、たのしい。
Mより前の生徒が最後に、フラッシュ魔法を披露して、発表を終えた。
発表の順番が回ってきた。
大きく息を吸い込む。ゆっくりと吐き出す。
「M、発表をどうぞ」
先生に促されて、じっとカメラを見つめる。
「言語魔法の一分野である可視化について発表します」
最初のパートは時間を測るためになんども練習した部分だ。だから自然に言葉が流れる。Mは安心した。内容が合っているのかは分からないけれど、これはいけるぞ!と。
なんだかだんだん楽しくなってきて、その部分がカメラに映っていないのを分かっていたけれど、身振りも交えて話し出した。
そうして余裕も出てきたとき、気がついてしまった。カメラはMのことだけを映していて、ほかの生徒のカメラはオフになっている。先生のも同じだ。無言の液晶。
むくむくと疑念が湧いてきた。
『あれ…? インターネット、つながっている?』
もしかして、部屋で一人、壁に向かって話しかけているんじゃないだろうか…、そう思うものの、流れを中断するほどでもない。ただ、一旦そう意識すると、急に意識をそっちにひっぱられた。スタート時のような高度の集中も切れてくる。とたん、気はそぞろになり、文章がカタコトになる。
もしネットが切れていたら、どこから再スタートすればいいのだろう?
二分目、五分目、十分目?
そういえば。最近ネットの調子が悪かったなあ。大丈夫かなあ。
あれ、聴衆のいない閉じた空間で一人で語り続けるなんて、さながら迷路に迷い込んだ狂人だ!
「ええっと、最後に研究で取り扱われた魔法を披露します」
呪文を唱えて、
「ヤドリギの木の下のトナカイがやさしい五本目の脚で食べたから、飛翔がためらいを覚えた」
適当な文章を呟くと、どこか形のおぼつかない双角の獣が現れ、七色に爆発した。
「以上です」
その言葉を最後に黙ると、部屋に沈黙が訪れた。
推定狂人ははたして本当に狂人なのだろうか。魔法を扱っていると、それに溺れすぎて出られなくなる人の話を聞いたりする。画面の向こうに人がいると思っているのは、当人だけで、実際にはなにもなかったりするんじゃないだろうか。
Mがハラハラしていると、パソコンがしゃべった。
「ああ、うん。とてもよかったですよ」
Mは胸を撫で下ろし、ほめられた事に狂喜乱舞した。
パソコンがなおも続ける。
「さあ、この調子で発表を続けていきましょう」
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