第7話 黒塗りの長い廊下

 研究室、兼自室が薄暗い。

 魔法に集中していたせいで、日が暮れたことに、視界が悪くなってようやく気がついた。集中してなにかをすることの麻薬的な気持ちよさにMは虜になって、その酔いから覚めると急に疲れを感じたのだった。


 いつの間にかお茶を入れていたマグカップが空っぽになっている。そういえば作業をしながら飲んだような気もする。お代わりを入れに行こうと、のろのろと椅子から立ち上がり、カップを手に、廊下の先にあるキッチンに向かった。


 エムの家は、部屋が四つ(うち、二つも空いてる!)、キッチン、リビング、お風呂場、トイレの構成になっているそこそこ大きいおうちなのだけど、Mの部屋は家の一番奥まったところにあり、家の反対側にあるキッチンに行くには、長い廊下を突っ切っていかなければならない。距離にしてせいぜい二十メートルほどだけど、そんな距離でもめんどくさい時は、めんどくさい。


 大家の書棚やだれもいない個室、なぜか飾ってある大鏡の横をすぎ、お風呂場までやっとたどり着き、Mは頭の中で考え事を始めた。


『そういえば、最近外に出ていないなあ』


 もともとMが引きこもり体質なのに加えて、最近世界では未知のウイルスが流行っており、市民は家にいることを余儀なくされていた。それでも、大抵の人は買い物だったり、散歩だったり外に出るものの、Mと言えばこの一週間椅子の上に座りっぱなしだった。少し魔法の勉強をした以外に、なにをしていたのか記憶は曖昧にしか残っていない。


『昨日と今日と、まるで別の日のはず。どちらも一生に一回しかない日のはず』


 考えながら、大家の書棚やだれもいない個室、なぜか飾ってある大鏡の横をすぎ、お風呂場も通り過ぎる。


『でも、私には昨日と今日の差が思い出せない。きっとちがうことをしたはず。でも、なにが違ったんだろう? ああ、そういえば、今日はなんにちだっけ?』


 家にいて、毎日同じような日々を過ごすことで、時間の感覚が非常に曖昧になっている。

 Mは自分の幼い頃のことを思い出した。

 十にも満たない頃、Mは一週間が、一日が、十五分でさえも、今より長く感じられたような気がする。その時にしていた事だって日常の繰り返しであったはずなのだけど、今よりは新鮮味があったような気もするのだ。顎に手を当てて、大家の書棚やだれもいない個室、なぜか飾ってある大鏡の横をすぎ、お風呂場も通り過ぎる。


 それから思考は飛躍を遂げ、世界で流行っている未知のウイルスへと移行する。


『その昔、ペストが流行った時、感染を避けるために、貴族のお歴々の方々が田舎の屋敷に集まって物語を紡ぐ会を開催したんだっけ』


 そうして生まれたのが『ヴァンパイア』だったり、『フランケンシュタイン』だったりのゴシック小説だ。Mは後者の作者であるメアリ・シェリーの生き方を興味深く思っている。


 メアリー・シェリー。彼女は十八世紀の終わりに生まれ、無神論者の父親と継母のもとで育つ。

 夫となる詩人のパーシー・シェリーはメアリと出会った時、すでに既婚者だった。けれど、恋に狂った人間にそんなことは関係ない。父親の大激怒も大反対も関係ない。アガサクリスティーも言っていた。『反対されれば、されるほど、若い恋は燃え盛るものよ』って。二人は恋人になる。


 それに、メアリはきっと出たかったのだ。父親と継母が支配する居心地の悪くて、せまい世界を。きっと、メアリはパーシーを通して自由な世界に恋していた。

 だから、二人は大陸に駆け落ちをする。


『なんで妹、ついてきたんだろうか』


 疑問に思いながら、大家の書棚やだれもいない個室、なぜか飾ってある大鏡の横をすぎ、お風呂場も通り過ぎる。


 そう、なぜかその恋の逃避行にメアリの妹はついてきた。すごい度胸だ。そしてカップルと一緒に暮らし始めるが、今度はそのメアリの妹とパーシーの関係がなんだか怪しくなるのだ。それはメアリに子供ができても変わらない。


 きっと、パーシーという人間は、流されやすい人間だったのだろう、とMは思う。軽薄にあっちに流され、こっちに流され、その場のノリで生きている。見た目がよくて、生まれ持った地位も高いから、そうやっても生きていける。

 被害をこうむるのは周りの人間だ。こういう人は飴細工のようなもので、ともに生きていくことがむずかしい。甘くて、うつくしくて、おいしくて、やみつきになるけれど、それだけで人は生きていくことができない。


 メアリが若さゆえの浅慮でその選択をしたのか、それとも、なにもかもを覚悟してでもパーシーが欲しかったのかは分からない。でも、人から奪ってでも一緒になりたかった人が、自分の妹に惹かれているのを見るのは、楽しいことではなかっただろう。


 そんなどろどろの環境の中で、メアリは物語を紡ぎ始める。新しい生命を生み出す物語。悲しい物語。メアリは、人の手によって生み出されてしまった哀れで醜い怪物を、だれと重ねていたのだろう?


 なにはともあれメアリは物語を書き進めた。

 パーシーの奥方が亡くなっても、自分の子供たちが病死しても、そしてついには夫を亡くしても。

 書かずにはいられなかったからにちがいない。情熱に似たなにか、衝動が、メアリを執筆へ突き動かした。書くことで、メアリは、自分の時間を、前へと進めたのだ。パーシーを通して見ていた自由を、今度は紙の上に、きっと見つけたのだ。


『私も、前へ進みたいなあ』


 Mは思う。

 お風呂場と、それからリビングを通り過ぎて玄関まで到着する。

 そのタイミングで、鍵のガチャガチャという音がすると、玄関の扉が開いて、大家が入ってきた。少し早い帰宅時間。どうやら仕事がいつもより早く終わったらしい。


「なにしてるの?」


 四角い顔をけげんそうにさせて、Mに尋ねた。


「お茶、飲みたいと思って」


 Mは手に持ったマグカップを掲げて見せると、すぐ右手側にあるキッチンに入った。ケトルに水を汲み、スイッチを入れる。ケトルからはやがて、コポコポと水が沸き立つ音が聞こえてきた。


「今日職場でケーキもらったからあげるよ」


 大家がそんなことを言いながら、白い紙の箱をMに差し出したものだから、Mは飛び上がって喜んだ。

 今日はいい日だ。

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