第6話 四角い空
空を見上げた。家の庭から見上げる四角い空を、まっしろいモコモコとした雲がすごい勢いで流れていく。あの雲の群れはどこまで流れていくのだろう。
午後のひととき。
Mはひとしきりベンチで日光浴をしながら、論文を読む。
論文を読むとき、だれが書いたものなのかを一応確認する。見たことのない名前を見つけると心が弾む。どんな人なのだろう。その人の周りにはどんな人がいて、どんな関係を築いて、どんなふうに暮らしているのだろう。右利きだろうか、左利きだろうか。どんなこだわりや癖があるのだろうか。見知らぬその人を想像する。
どんな人でもいい。
ただ、Mが知らない人間だということが大切なのだ。
世の中には、自分が知らないことがたくさんあって、これからそうした事と出会っていく。そういう期待があるからMは生きていられる。未知への興味が、発見への興奮が、寄る辺のない生き方に活力を与える。
もし世界が内包するものが自分が知っている程度のことしかなかったら、万能の存在になれるのかもしれないけれど、そんな陳腐な世界ではすぐに呼吸をすることすら億劫になったにちがいない。
Mは知っている。
自分の中にある小さな世界が、油絵具の層のように塗り変わる瞬間の心地よさを。だからMはいつだって、その瞬間を求めている。
この性質は生得的なものというよりは、経験によって徐々に培われたものだ。
幼いころ、Mはひどく内気な子供だった。外で遊ぶよりは家にいることを好む、ほとんどの場合、内側にベクトルが向いているようなそんな子供。もう少し歳をとると、周りの人間との輪郭が曖昧な、集団の中の一人というようなぼんやりとした子供になった。「やさしい」とか、「おとなしい」と言われて、よろこんだ。
世界にひるんでいて、ともだちの親に挨拶することさえ困難に感じた。
同時に、凶暴な子供でもあった。気に食わないことがあれば噛み付いた。
しかられれば、怯えて泣いた。
意地悪な部分もあった。
今でもそれらの性質は、根底の部分では、きっと変わっていない。ただ、ベクトルの向きがすこしずれただけだ。
そのきっかけとなった出来事をMは忘れたことはない。
世界は一回まっくろに塗りつぶされて、それから、ある時、ひとつの色を与えられた。その色を基点にして、ほかのいろんな色が追加されていった。ほとんどが、とても些細なもので、それでも、それらひとつひとつが特別なのだと理解していたから、できるだけ大切にしようと決めている。外から託されたものが、Mを構成するパーツになっている。
一時間ほど、論文を読み進めて、Mは散歩に出かけることにした。
家の周辺の住宅街を歩いていると、ふと、ヒイラギちゃんとの思い出が脳裏に蘇る。
そう、ヒイラギちゃんは、ヘンな子だった。
彼女は、同じ人種でも、Mとは国も文化もちがう場所から来ていて、Mが魔法学校に入る前、準備期間中に入った語学学校で知り合った。
そのとき、ヒイラギちゃんは大学を卒業したばかりの、商人になるのが目的の女の子だった。
そして学校では、すらっとした長い足でいろんな人に陽気なそぶりで話しかけて回っていた。国籍のちがう友達が欲しかったのだろう。でも、その試みは多くの場合、失敗していた。
人はいつだって、自分と似た人間と仲間になりたがる。
それは、すてきなことだけど、異文化交流をする時にはジャマな性質だ。せっかく異国の地に来たというのに、どこの国の人も、自分と同じ言語や風習をもった者同士で固まってしまう。それなのに、そこに勇猛果敢に真正面から突撃していったヒイラギちゃんは、見えないバリアに弾き飛ばされていた。
とくにMの同郷人との相性はよくなかった。それとも、もしかしたら、よすぎたのかもしれない。
ヒイラギちゃんはある時、Mの同郷人のうちの一人にターゲットを絞った。耐え忍ぶ性質の多い同郷人の性質をきっちり備えていた、この哀れなターゲットは、ヒイラギちゃんの相手をにこやかにこなし、授業中のおしゃべりにもガマンにガマンを重ね、そして他の人より滞在期間が短めだった彼女が故郷に帰る前日になって、とうとうぶちぎれてしまった。その日、徹底的にヒイラギちゃんはこの同郷人から無視されていた。
ヒイラギちゃんの方は、まさか怒らせていると夢にも思わなかったのだろう。申し訳なさそうに謝罪を繰り返しながらも、府に落ちないというような顔をしていた。Mは、怒るくらいなら、最初に「授業中に話しかけないで」と言えば済んだことなのに、と疑問だった。
気がついたら、Mはヒイラギちゃんの唯一の異国の友だちになっていた。
Mもべつだん国籍に興味がなく、自分に興味を持ってくれる人はだれでも嬉しかった。だから友だちになれたのかもしれない。
ヒイラギちゃんがする故郷の話も興味深かった。Mの故郷とヒイラギちゃんの故郷は隣同士にあるけど、仲がわるい。Mは今まで自分が抱いていたイメージと、ヒイラギちゃんの語る国の印象がいい意味で、すこし違うことに気がついた。
ヒイラギちゃんはMにとって理解がむずかしい相手だった。
行動が突拍子もなくて、ときどき理解不能で、それなのに最後には丸く収まっていて、しかも大抵、おいしいところをかっさらっていった。たくましくて、したたかで、やっぱりヘンな子だった。
ある日、Mはヒイラギちゃんと軍の施設で開催されるスポーツ体験に参加する約束をした。
この施設に入るには、出入り口のところで身分証を開示する必要があったのだけど、Mはそれをヒイラギちゃんに伝え忘れていた。
入り口で「身分証がなきゃ入れない」と拒否する軍人さんに、Mはそこが公的機関である以上、入るのはムリだろうな、と考えた。規則は規則で、それに対してそれ以上、深く考えたことがなかったのだ。
だから、ヒイラギちゃんが取りすがるように、
「ええっ! でも、もう三十分も歩いたの。疲れて帰れないよう。お願い、中に入れて」
と言い放った時は驚愕した。ちょっとだけ、軽蔑もした。
ところが、軍人さんの方も、
「しょうがないなあ。今回だけだよ」
と苦笑しながら通してくれたものだから、もっと驚愕した。
ヒイラギちゃんはしれっと中に入っていったけど、Mは理解ができなかった。その一連の流れはまったく、理解不能だったのだ。
それは、Mにとって世界が塗り変わるような衝撃だった。
対話をすればなにかを許されることがあるだなんて、物語の中だけのことかと思っていたのだ。Mの人生の中で初めて見たものだった。
だから一人、すごいすごいと騒いだ。
ヒイラギちゃんは嬉しそうにしていたけど、どうしてMが興奮しているのかは分からなかっただろう。その夜、Mはずっと興奮していた。
肝心のスポーツの方は、普段まったく運動をしないヒイラギちゃんがすぐさま匙を投げたせいで、そうそうに退散することになったけれど、そんなことはもはやMにとっては些細なことだった。
Mはヒイラギちゃんのことがその時、もっと好きになった。
文化がちがいすぎて、ヘンなヒイラギちゃんを誇らしく思った。
それが、今から六年も前の、Mとヒイラギちゃんの些細な思い出だ。あの出来事から三年ほどしてヒイラギちゃんは国に帰り、商人になった。
そんなことを思い出しながら空を見上げていたせいだろう。ぐしゃ、と靴が犬のフンを踏みつぶしたイヤな感覚がした。
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