第5話 双葉ちゃんの魔法
土曜日の昼下がり。
Mは勉強をすることにした。本気の勉強だ。
その大仕事に取り掛かるにあたって、真っ先にしたのは、友達の双葉ちゃんに連絡をとることだった。Mの電話の通話履歴の一番上に出ている番号をタップして、電話をかける。すぐに双葉ちゃんが応答した。
「双葉ちゃん! 一緒に勉強しない?」
「いいよ。そろそろ本気で勉強しないとだもんね」
彼女がふたつ返事で了承する。そして街の図書館で落ち合うことになった。
自転車にのり、車にぶつからないように運転しながら、街の中心へ向かう。風がMの黒い髪をたなびかせた。
この双葉ちゃんという人は、女優さながらの大きな目に、雪のように真っ白い肌をしている人で、彼女が紅をひくと、さながら儚げな妖精のようになる。しかし、その本質は儚さとは程遠く、もともと大学で教育学を専攻して院まで卒業したというのに、魔法が勉強したい一心で、わざわざ魔法学校に入り直した猛者なのだ。酒と男がすきな、どちらかというと『悪い魔女』のような精神に不屈の心とガッツを持ち合わせたなかなかごちゃごちゃとした人なのだった。
図書館の日当たりのいい席で双葉ちゃんはすでに本を読んでいた。普段はかけない眼鏡をかけて、ページをめくっている。
Mは双葉ちゃんの肩をたたく。
「やっほ。なんの勉強してるの?」
「魔法神経学」
この世の終わりを観たような顔をして、双葉ちゃんが答える。
「この世の終わりよ」
それから、二人は一緒の空間で、そろって黙々と勉強した。
筆箱にノートだけを取り出す。Mは机に向かい、ペンを手に、ノートに書かれた大量の情報を頭に入れる努力をする。目の前に並ぶ大量の文字。文字は大好きだ。なにかを伝えることができる。それにしたって目の前のノートはMに伝えたいことがあまりにも多いようだった。そんなに言葉を重ねられても、Mとしては困ってしまう。そのうち、彼らはノートの隅で勝手に踊り出してしまった。
それにしたって、図書館は静かだ。人がまばらだからだ。時々紙がかすれる音やキーボードがカタカタいう音が聞こえる。それらはまるで心地いい子守唄のようだ。
Mはカッと目を見開いた。
ちがうちがう!
眠るわけには行かないのだ!
多くの情報を、多くの呪文を頭に入れなければならない。
それがMの偉大になるはずな将来への第一歩なのだ。Mは前に進みたいのだ。Mは野心家で、けっして後退したいわけではない。
けれども図書館の暖かい空気はMを包み込むようで、踊る文字も奏でられる子守唄も、まるでMを夢の世界に誘うようだ。あまりにもこの空間は心地いい。
Mは眠気覚ましに、ノートの隅にいたずらをすることにした。
小さな楕円を2つ、そのから伸びる棒線を描く。ついでにフェルトペンで緑色に塗った。これで簡素な双葉の完成だ。そしてその上から秘密の魔法の粉を擦り付ける。
それから周りをきょろきょろと見回して、だれも自分の方を見ていないことを確認すると、小さな声で呪文を唱えた。
すると、ぽんとポップコーンが弾けるような勢いで絵が体積を帯びる。Mがつんつんと指先でつつくと、本物の植物のように弾力があるので指先を軽くおしかえす。
『成功した』
先週習ったばかりの魔法の成功にMがにやにやしていると、その喜びに呼応するように双葉がしゅるしゅると背丈を伸ばしていく。
焦るMとは裏腹に、双葉の方はまるでそうあるのが当然、というふうにますます太く、ますます高くなっていった。枝に付いている蕾が開花すると、うすももの花の中からキャンディーがパラパラとこぼれ落ちてきた。
図書館の天井にその葉先がくっつくころには、Mは完全に図書館中の注目を集めていた。
『え、え。なにしてんの』
勉強に集中していた双葉ちゃんだが、ようやく人の視線が自分の方に向いていることに気がついて、後ろを振り返り、目を丸くする。
そのころには天使がラッパを手にエムたちの周りをぐるぐるまわっていた。
『想像力どうなってんのよ』
『失敗、しちゃった』
照れたように遠い目をしたMに双葉ちゃんに、双葉ちゃんも遠い目をする。
『解呪しないと』
『まだ習ってない』
『わたしも知らないわ…』
そんな悠長な会話がされるさなか、もはや大樹へと変貌を遂げた双葉が天井を突き破った。その拍子に壁の一部分がこぼれ落ち、それがMの頭に直撃した。
痛みのあまりに叫ぼうとしたMは、飛び起きた。
飛び起きた。
Mは辺りを見回して、大樹なんてどこにもないことに気がついた。周囲の人たちもまるで何事もなかったかのようにそれぞれ読書や勉強に勤しんでいる。平和な午後だ。
代わりに、目の前のノートにはよだれの小さなシミができている。気がつけば、『勉強』を始めてから一時間ほど経っていた。その間の記憶はなにもない。
後ろを振り返ると、双葉ちゃんはかりかりと紙になにかを書きつけていた。
なんだ、ただの夢だったのか。
Mがほっとして机に向き直り、勉強に取り掛かろうとしていたところで、自分の携帯が点滅していることに気がついた。差出人は後ろで勉強しているはずの双葉ちゃんだ。
開封すると、ただ一言、
『よく寝ているわね』
とだけ書かれていた。
Mが再度後ろを振り返る。双葉ちゃんも同じようにこちらを向いていて、Mと目が合うと、にや、と唇を釣り上げた。
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