第4話 チャペルの宝石
街には、まるで宝石の内側に潜り込んだような気分になれるチャペルがある。
もともと王宮と隠し通路で繋がっていたと言われるチャペルで、二階建てだ。下も上も礼拝堂になっていて、どうしてそんな奇妙なことになったかというと、それは訪れる人間の差によるものだった。下は聖職者用のもので、上は王様とその一族専用だったのだ。
どうしてそんな場所に落ちこぼれ生徒のMが来れるかというと、もうとっくの昔に王様一家は革命によっていなくなったからだった。王族が処刑されたことによる恩恵の一部を、遠い未来で異人であるMが享受していたりすることは、なんだかとても奇妙なことだけれども、そういうことも世の中にはあるらしかった。
王様専用のチャペルは、下の階の下々向けの礼拝堂に比べても、はるかに素晴らしかった。
壁いちめんを覆うステンドグラス。
それらが陽の光を受けて、煌めいている。日光や風の具合によって、うちがわの光も変化し、まるで水の中から水面を見上げているような、宝石の内側から外のかがやく世界を眺めているような、そんな気分になれる。
Mはめずらしく早起きをしたので、なんとなく外に出ようという気分になった。そこで、市場に行って野菜を買うか、礼拝堂を訪れるかで逡巡し、結局、ここに来たのだった。
まだ観光客が大挙して押しかけるには早い時間帯だったようで、Mはこの宝石を独り占めした。せまい室内を行ったり来たりする。だんだんそれにも飽きて、せっかく外に出たのだから、どうせなら他の場所にも行ってやろうという気分になった。
礼拝堂を抜けて、今度は美術館に向かう。道すがら、露天で売っているスムージーを買った。バナナの甘さが口にやさしい。どんよりしがちな秋の日にはめずらしく、空は晴れていて、木漏れ日の遊歩道の中を歩くのがきもちいい。とても爽やかな朝だ。
歩きで美術館にやってきたMは、正門の前で列をなしている観光客の脇をすり抜け、地元に住んでいる人間が使う脇の入り口から中に入った。この通路を使うとだいぶ時短になるのだ。
Mはこの美術館がチャペルと同じくらい好きだ。
もともとは十二世紀ごろに要塞として建てられた建物で、時代が下ってからは宮殿として使われ、革命以降は美術館になった。もともと宮殿であっただけに、とても広大だ。それだけに所蔵品も豊富で、それを目当てに世界中から人が集まってくる。だから美術館内を多くの人間がうろついているのだけど、場所柄か、にぎやかさとは程遠い。
そしてこの美術館は広すぎるせいで、まるで迷路のように入りくんでいる。その中を地図も持たずに散歩するのがMのお気に入りだ。自分がどこにいるのか分からなくなることすら、楽しい。
大理石の床。
大きな天窓。
壁や天井を覆う壁画。
それからたくさんの絵画や石像。
中世の宗教画。ロココ。印象派。写実派。
たくさんの世界。ここではない時間。ここではない場所。
虐殺。詐欺。難破。受難。王さまの威光。恋愛のかけひき。親子の愛情。
だれも喋らない。ただ静かにそこに存在する。
Mは想像してみた。
夜。閉館時間もとっくにすぎた頃。彼らが魔法にかけられて動き出す瞬間を。
時代も生まれた場所も違う彼らは、一体、どんな会話を交わすのだろう。言葉が通じたとして、優雅にほほえむ十五世紀の貴婦人と、紀元前のファラオンに、共通の話題はあるのだろうか。
いつの時代だって共通する話題と言ったらなんだろうか。
天気の話。
『今日は雲ひとつない、惚れ惚れするような秋晴れですな』
『ええ、ええ。そうですね。こんな日にはチェンバロでも弾きたくなりますわ』
『チェンバロ…。…そうだろうとも! 朕は狩りの方が好きだがな』
『まあ、狩りだなんて。これだから殿方は』
どうした訳かMの脳内の二人は険悪な雰囲気になってしまった。
もう少し踏み込んだ話題はどうだろうか、…男女のかけひき?
ファラオンが貴婦人を口説き落とす様子を想像してみる。
『そなたの控えめな目はとてもかわいらしいな』
…失敗した。そもそもファラオンは、白粉で死体のようにまっしろい顔をした女性は好みだろうか? なんだか、違う気がした。
Mは額の中で微笑みを浮かべてこちらを見つめる美青年と目を合わせる。
彼らは額縁の中で、あるいは石化して、瞬間を切り取られ、永遠に時を止めている。
Mが老婆になっても、彼らは保存魔法がとけて絵画や像本体が朽ちない限り、永遠にその姿を保ち続けるのだろう。それは、祝福のようであり、呪いのようでもある。周りが死に絶えても生き続けることは、きっと苦痛だ。彼らに目や神経や脳がないのは幸いなことかもしれなかった。それとも、意識があったとして、同じ美術品仲間に囲まれていれば、案外、耐えられることなのだろうか。
人が絶えたはるか未来。
美術館のガラス張りの天井にはいつしか大穴があき、そこから入り込んでくる雨水が滴り、石像のしろい肌の上を滑り落ちていくだろう。ある時には、陽光に照らされる。やがてそこには植物が芽吹き、花を咲かせるようになる。すると小鳥がやってきて、どこかに巣を作るかもしれない。
人の叡智と、自然の豊かが調和した美術館は、きっと美しいことだろう。
そして廃墟の中で、美術品たちはほほえんだり、悲しんだり、嘆いたり、笑ったり、復讐したりし続けるのだ。もはや観覧者がだれもいなくなったこの場所で。
くるくるした巻き毛の青年と見つめ合いながら、まだみぬ未来を、Mは幻視する。
彼はじっと、Mにほほえみ続けていた。
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