第2話 白い家と大きなキャンバス
不審な紳士が現れてから一週間。
Mはことの顛末を話しに、知り合いの画家の家に遊びに行くことにした。気が向くとふらりと尋ねる場所だ。路面電車を乗り継ぎ、街の中心にある画家の家に向かう。移動中、大聖堂が七時の時を告げた。
街の中心には、街が積極的に支援を行っている芸術家が住んでいる一画がある。元々白の多い街だけれども、その区画はとくに白塗りの壁が多いので、他と容易に見分けがつく。
ブロックの角にある家の呼び鈴を鳴らすと、しばらくして、中から白髪を後ろに一つに束ねた老人が現れた。
「やあやあ。いらっしゃい。元気だったかね?」
にこやかな出迎えはMがこの画家に出会った三年前から、ちっとも変わらない。Mが落ちこぼれであり続けるように、この老人もいつだってにこやかなのだ。
家の中に招き入れられたMは、家に彼の奥方も子供たちもいないことに気がついた。
「子供たちを学校に迎えに行っているんだ」
彼の故郷の飲み物だというミントティーを淹れながら、画家が笑う。
Mはこの老人の話を聞くのが好きだった。
革命で国を飛び出し、人生で七回結婚をしたという彼の話は、いつだって奇想天外で、Mにはたくさん知らないことがあるんだと気付かされる。だからいつもは、いろんな質問をして、いろんな話をせがむのだけど、今日はすこし勝手がちがった。
「今日はどうしたんだい?」
「実はね、とてもヘンなことが起きたの」
Mはお茶を飲みながら、家で過ごしていたらまるで物語の中のような怪盗が現れたこと、そしてその怪盗紳士に不思議な箱を渡されたことを話して聞かせた。すべての話が終わると画家はおもしろそうに、快活な笑い声をあげた。
「あはは、それはいいね」
「そうかな?」
「いいじゃないか。一年後、その男はまた来ると言ったんだろう? ためてみればいい。なにか面白いことが起こるかもしれない」
「うーん」
まあ、たしかに。
してはいけない理由はないのだった。
Mは納得して、それから二人は他の話をすることにした。彼の子供たちが喧嘩してばっかりなこと、ある歳若い少年が政府に魔法で決闘を挑んだけれど、当然、返り討ちにあったこと。ウコンが健康にいいこと、学校の友達の話。
気がついたら、もう日はすっかり暮れていた。
「そろそろ、絵でも描きにいこうか」
画家が促し、Mは肯く。
二人は屋根裏にあるアトリエに登って、それから作業を始めた。
画家は部屋いっぱいに広がるキャンパスに油絵具で色をつけて行き、その間、Mは画家に道具を貸してもらって水彩画を楽しんだり、そこら中に散らばっている建築や絵画の資料をのぞいたり、気ままに時間を過ごす。自分がどうして絵を描くのか、どうして画家を訪ねるのか、理由なんてないけれど、このすこし不思議な時間がMは気に入っている。
ときたま、画家の作業を見守ったりもする。絵を描く作業に、魔法は必要ない。でも、絵が出来上がっていく様子は、なによりも魔法らしいとMは思う。キャンパスの上に、彼にしかできない世界が、作り上げられてく。
それにも飽きると、Mはまた水彩画の作業に没頭した。
描いたのは、どこかの遺跡だった。西の方にある、どこかの国の石でできた建物。砂漠の中に、ポツンとたたずんでいる。まだ、行ったことのない場所。窓の数がおかしかったり、構図が歪んでいるのが不満だけど、色を重ねていくのは、単純で、どんどん『らしく』なっていくのがおもしろい。砂漠だけではなんだか面白くなくて、水に沈めてみたりする。
「わあ、Mがいる! ご飯できたって!」
いつの間に帰ってきたらしい画家の娘のうちの一人が、アトリエに潜り込んできた。そして、知り合いのMがそこにいるのを発見すると、嬉しそうに抱きつく。
「わあい。会いにきてくれたの? うれしい!」
子供特有の柔らかいクセ毛がふわふわ揺れて、Mも嬉しくなって抱きしめ返す。
「今日はね、パスタだって。お母さんが呼んでる」
画家とその娘と一緒にはしごを降りて、アトリエから居間に向かうと、画家の奥さんがキッチンで料理をしていた。
「あらいらっしゃい。よかったら子供の相手でもしていて」
Mは幼い娘たちの宿題を見たり、学校でどんなことをしているのかと尋ねたりして時間を過ごした。そのうちに、夕飯が出来上がって、御相伴に預かることになる。Mはこの夕飯の招待を断れたことがなかった。うれしい反面、いつもご馳走になってばかりで申し訳ない気持ちになる。
食事中、子供たちは興奮して三回ほど父親に叱られ、そのたびに怒ったり、泣いたりして、そしてまた怒られたりしていた。それでも最後には父親に抱きついて終わる、というのがいつものパターンなので、ハラハラしたりはしない。
食事が終わり、気がついたら日付が変わりそうになっていたので、Mは家に帰ることにした。
外は室内と比べると、やっぱり気温が低くて、すこし肌寒いのだけど、ご飯を食べて体がぽかぽかしていたので、それがむしろ気持ちよかった。
勉強はまだまだ残っているし、実験だって準備しなくちゃいけないのだけど、せっかくの金曜日の夜なんだから、すこしだけ、忘れてもいいか。そんな気分になった。
帰り道、若者たちがカフェやバーで集まり、週末に向けて、楽しそうに喋り、騒いでいた。いい金曜日の夜だった。
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