第2話
からり、と窓を開けた。
何ヶ月ぶりだろうか、新鮮な空気が沈黙の肺と部屋全体に吹き込まれた。
まるで命が宿ったようだ。
春のにおい。
彼は空を見上げた。
今日は珍しく晴れている。この町で太陽を拝めることなどあまりないのに。
いつものように鯨は空に在った。
悠々と自由のひれをなびかせて泳いでいる。
そこにいるだけの、途方もなく広くて大きくて、そして空虚なモノ。
この世の何物とも関係せず、生も死もないそれはもはや存在という言葉の定義すら揺らしているのだが、しかし確かに、彼には見えるのだ。
沈黙の胸に揺れている笛は歯のような暖かい白の陶器でできている。
安いチェーンでつながっていて、沈黙が動くたびにじゃらじゃらと音を鳴らした。
それを指でつまみ、唇に当て静かにふうと吹いた。
なんてことはない、ただ単純に彼は話し相手がほしかったのだ。
犬笛と同じでその音は彼の耳には聞こえない。
でも、それは彼だけが持つ白鯨とつながる会話の合図。
ぬ、と大きな鯨の口が突然彼の前に現れた。
存在感が風となって沈黙の薄い灰色の髪を揺らした。
「くじら、」
透き通るような声で窓枠越しに話しかける。
「僕を乗せてってよ。」
白鯨は浮いている体を少し落として、沈黙のいる窓の横に体側をつけた。
沈黙は窓を乗り越えてはだしのまま庭に降りた。
ひれをステップ代わりにして、広大な背中に乗る。
そのまま、音もなく垂直に高度を上げた。
彼の家は、一瞬で豆粒みたいになった。
全てが青く、終わりなく広がっている。
全世界を見る目を得たかのようだ。
時折、雲とすれ違ってはそのからだを通り抜けた。
白い鯨は紛れて見えなくなった。
鯨の背中に乗ることを彼は好む、体重がなくなって世界と解け合ったような感覚になるから。
身体感覚がひどく曖昧になって、少し心許ないようで、ああ、こいつはいつもこんなふうに世界とつながっているのかと思う。
鯨は感触も曖昧で、わずかに雲のような柔らかい何かに触れているだけで、時々何もなしに自分の体だけが宙を進んでいるようで恐ろしくなる。
こんなにも柔らかい肌で、白鯨は世界を感じている。
自分だったら、寂しいだろうな。
それでも、この寂しさを感じるのが好きなのだ。
海の向こうの、顔も知らない彼女にもこの感覚を知ってほしかった。
自分だけの秘密を、誰かと共有できたら、どれほど素晴らしいだろう。
しかしおそらく、それは永遠に叶わない。
いつの間にか、彼らは沈黙の家の上空に戻ってきていた。
赤い夕日が世界を支配して、昼と夜の交代が始まっている。
鳥たちが羽を休めに群れをなしてねぐらへと飛んでいく。
白鯨の白い体も夕日に照らされて赤く染まっていた。
今度はゆっくりと、鯨は地面まで降りてきた。旅の終わりを惜しむように。
「ありがとう」
するり、滑るように庭に降りてささやかな礼を言う。
鯨はじっと彼を見つめると、音より早く空に戻っていった。
それがお互いの、簡素ではあるが最大限の敬意だった。
時の戻った彼の家は柱の時計が現在の時刻を告げていた。
毎回、鯨に乗ると全てが夢だったように思える。
しかし彼が今晩書く手紙の内容はすでに決まっていた。
「お元気ですか。変わりありませんか。
今日は鯨の背中に乗りました。空がきれいな青でした。
あなたも是非乗せてあげたいです。」
何度書いても、おとぎ話にしか見えない。
彼は苦笑しつつ丁寧に封をすると、ベッドにもぐり込んだ。
白鯨と花曇 なとり @natoringo
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