第1話
白鯨の下る花曇りの木曜。何でもない日の昼下がり。
沈黙の座る小さなソファに、憂鬱な空気が積もるように降りた。そのうち温かな雨が新芽を濡らし、孤独なモラトリアムに縫い付けられた沈黙はそっと嘆息した。
指先一つ、動かしたくなかった。
今は鯨を呼ぶための笛も鈍く光るだけのオブジェだった。
ふと脇を見ると、机の上にもう随分昔に放置したままの書きかけの手紙には埃が積もっている。
陶器でできた笛は墨色の共鳴啌を覗かせて彼の胸に揺れていた。遠くで時折水滴の滴る音が聞こえる他は本当に静かで、他の生き物の気配など感じられない。
煤けた柱の時計はもうずっと4時を指し示したまま止まっており、彼の時間感覚を狂わせていた。騙されている、と思うもののそれを正す機会には恵まれず、だから彼は今日もそれをちらりと横目で見遣るだけですぐに興味をなくした。
外は相変わらず鯨の好みそうな雲行きだった。
静か過ぎて耳が痛くなる。
鯨は…、やはり変わらず空を優雅に泳いでいた。
あいつ僕の気も知らずに。
文句の一つも言ってやりたくなったがきっと彼の前でそれは無意味だろう。
彼は余りにも広く余りにも大きく、自由そのものと言ってしまっても差し支えなかったから。
自由の塊とも言えるだろうそれに惚れたのは沈黙の方だったのだから仕方がない。しばし窓の外を悠然と泳ぐ鯨を眺め、さて、と目を戻すと、不思議なことが起こっていた。
あの柱の時計が、動いていた。
今まで止まっていたことなどどこ吹く風の小気味いい音を鳴らして。
慌ててもう一度窓辺を見ると、置いてある鉢植えの芥子がぽちりと一つ花を咲かせていた。
…やってくれる。
急に可笑しさが込み上げてきて、くすくす笑いを抑えることができなくなった。渇き切った身体の底から滲み出るような笑いだった。本当に、やってくれる。
久しぶりに彼女に手紙を書いてみよう。
止まった時間と共に忘れ去っていた、長らく書きかけの手紙を。
日付は、まだ書き入れていないはずだ。時候の挨拶は改めた方がいいかもしれない。
そして今日こそ、大事な事を伝えよう。
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