第11話
どう言う理由で、増谷家に警察を入れたのかは企業秘密だが、その関係でその地の議員の殆んどが辞任し、新たに就任した議員たちは、急速な変化を市民に強要しているらしい。
「内向的な住民が多いからな。ある程度強引でないと、変えられるもんも、変えられん」
カ・セキレイの元を訪れた若者は、恐怖政治かと顔を顰める男に、そう答えた。
「住民の声を聞くのはいいが、それだけでは始まらん。特に、治安の面では」
人口が全国的に減っている日本で一番深刻なのは、折角生まれても成人するまでうまく育たない、子供の致死率の増加だ。
子供を対象とした犯罪も後を絶たず、その内でも多くなったのが、家庭内での虐待が原因での死亡だ。
昔の田舎が平和に見えるのは、錯覚だ。
悪い所が明確に表に出ていなかったから、そう見えていただけで、都心の下町の平和さが田舎も同じと思われる要因になっただけで、実際は違う。
それを指摘し、この地を変えようと訴えた市議員は、全国でも話題の人となっている。
「今は、怪しい道や市街の至る所に、監視カメラを市で取り付ける事を提案して、顰蹙を買っているな」
「? それは、逆に、今迄取り付けてなかったのか?」
「実は、殆どついてなかった」
安全を思えば、当然の提案だというのに、なぜ顰蹙を買うのかと首を傾げるカ社長に、鏡月は金の瞳を細めて続けた。
「プライバシーを、侵害する気かと、根強く反対している連中がいる」
「?」
公の場で、プライバシーも何も、ないだろうに。
耳を疑った男は、つい言ってしまった。
「そう言う連中は、まともな奴らなのか?」
「残念ながら、まともな中年や老人だ」
それに、政治や地元に興味のない若者は、流されている。
「若者の中に、もう少し危機感を持った奴が増えれば、変わるかもしれんが、まだまだ無理そうだ」
もしくは、中老年の住民が、早めにこの世を去ってくれれば、少しはましになるかもしれない。
「いや、それは極論だろう。中老年の全員が、あの地の治安を楽観視している訳でも、ないだろう?」
「だが、これからが面倒臭そうなのだ。ついつい、上野の画策に乗ってしまったが、表からの作業が、ここまで難しいとは」
嘆く若者に苦笑する男は、応接室で客を出迎えていた。
あの事件が動いて、一週間。
鏡月が、辻ながれの事務所兼画廊を訪れた、翌日だ。
「……」
軽く、あの地のその後を話した鏡月は、向かい合ってコーヒーを飲む男に目を向けて、不思議そうに問いかけた。
「お前、釘刺しの刑を受けてたんじゃなかったのか? 逃れるのが、早すぎないか?」
昨日の段階で、前日釘刺しされたと言う事だった。
なのに、若者を迎えたセキレイは、普通にソファに座って接客している。
「偶々、昨日来たお客が、すぐに開放してくれた」
「……余計な事を」
本音が漏れた若者を睨み、続けた。
「今回は、釘で皿の付け根まで刺されてたんだぞ。壁突き抜けて、隣の部屋まで届いてた。部下の一人がホラー嫌いで、失神しちまったんだぞ」
「お前の所は、バケモンしか雇用してないんじゃ、なかったのか?」
血ごときで、なぜ失神?
呆れた鏡月の前で、セキレイはしみじみと言う。
「叔父上が引っこ抜いてくれなきゃ、誰も引き抜けなかったんだぞ。大人としての矜持が、再び損なわれていたと思うと……オレは、立ち直れなかった」
一度損なわれたのなら、今更だろうに。
そう思ったが、口にはしなかった。
引っこ抜いた人物を知り、警戒してしまったのだ。
「……その、叔父上とやらは、今日もいるのか?」
「? いや?」
「なら、いい」
鏡月は小さく息をつき、表情を改めた。
「無事とは言わんが、シュウレイの子供は、保護された」
のんびりとした切り出しに、セキレイも表情を改めた。
「そうか。あんたに頼んで正解だった、という事だな」
ほっとした男は、年の離れた実の姉との初顔合わせの時を、思い出していた。
義理の息子のコウヒが、妙に見惚れてしまった姉に挨拶した後、一緒にいた鏡月にこっそりと、気になった事を尋ねたのが、今回の頼みごとの発端だ。
前に会った時にも、気になっていた。
若者が持つ仕込み杖の中身が、見知った男の作り出した物ではないかと。
今回、それを問いただしたのは、理由がある。
それが、増谷家を探っていた時突如発生した、剣の気配だ。
最近、あの男の話は、裏でも聞かない。
だから、十中八九、その剣の元は、姉の体内で作り出されたものではないかと、そう考えて焦っていた。
偶々、知り合いの細君を助けるために、シュウレイが動き出してしまったのだ。
「姉上は、あれが、旦那の所業とは、知らないんだろう。知らなくてもいい、絶対に」
「……」
気を抜いて呟く男を、鏡月は何とも言えない表情で伺う。
昨日の事を、どこまで話すべきか、悩むところだ。
「……十年以上も放置されていたら、あの男の気配も辿れない。オレとしては、未だにあの剣が作り出されている事実を知れただけで、有難い限りだったが、お前は、これで満足なのか?」
「気配はなくても、形跡は残っている。それを、辿る。まずは、それが出来るだけ、今迄よりは、はるかにましだ」
今迄は、その形跡すら、残されていなかった。
姉がいなくなった村には、村の住民のむごたらしい遺体の山と、焼き払われた住居の残骸はあったが、凶器が見つからなかったのだ。
「遠見をしようにも、それでは役に立たない」
セキレイが身を置いていた里には、遠見を得意としている者もいた。
だが、男の残した物は一つもなく、姉を探す手がかりすらも、無かった。
男が作り出した物が身近にある分、まだましだった。
「近い内に、その遠見を召喚して、訪ねてみる」
「……そうか」
確か、今日もシュウレイは、優と共にあの事務所兼画廊を、訪れているはずだ。
鉢合わせは、意外に近そうだ。
なら、鏡月があえて言う話ではない。
若者は心の中でそう納得し、口を開いた。
「あの男を見つけるのはいいが、お前で、どうにかできる奴なのか?」
「出来る出来ないで答えるなら、出来ない事はない、としか答えられねえな」
「……どっちだ」
答えになっていない。
「腕力は、同じくらいだ。能力と言われるものも、種類が違うだけで、同じくらい。体格はやや、オレより小さいが、あの精神力では、大幅に負ける」
「……」
つまり、不利、という事ではないのか?
目を細めた若者の気持ちに気付き、セキレイは眉を寄せた。
「今、失礼な事を考えなかったか?」
「確かに失礼だろうが、事実じゃないのか? お前では、勝ち目がない」
「そ、そんな事はないっ。あいつはな、自分に自信があって、どんな獲物にも物おじせずに突き進む。オレは、慎重に調べた上で、一気に突き進むのを、目標にしている」
「目標にしているだけで、実行しているわけではないのだろう?」
「実行してるぞっ。成功しているかは、半々だが」
仕事面では、成功している。
セキレイは、強く主張した。
「それに、あいつは、どんなに強かろうが、相手に触れられるかどうかが、大前提の強さだ。オレは、距離に関係なく、攻撃しようと思えばできる」
薬に強い奴が、相手でなければ。
攻撃に転じるのに気づかれなければ、こちらに勝ち目があった。
「問題は、奴が元々、うちの部下だったところだ」
大問題だ。
「つまり、薬の類に、強いと言う事だろうが」
「そうじゃねえっ。血のめぐりを調べる人員として、招いた奴で、そこまで薬には強くなかった。ただ……」
セキレイの体質も力も、よく知っている男だった。
その周囲にいる、部下たちの事も。
「だから、おいそれと気を抜いてはくれない。オレたちに見つかるような襤褸を、簡単には出さねえだろう」
手を下せる力があっても、相手が警戒していては難しい。
誰か、別な者に気を取られている所を狙うしか、ない。
「……」
苦々しく言い切ったセキレイを見つめ、鏡月は暫く無言だったが、静かに切り出した。
「一つだけ、方法は残っている。だが、それを実行するにあたって、約束して欲しい事があるんだが」
そう前置きした若者は、返事を待たずに続けた。
「その方法で、追い詰めた男を手にかける役を、オレに譲れ」
「な……オレじゃあ、役不足だって言うのかっ?」
「役不足だな、完全に。大体、一人の相手を、追い詰めた後に嬲るのも、後味が悪いだろうが。心配せんでも、跡形もなく消し去ってやれる方法もある。それに……」
細めた目に剣を帯びた鏡月は、言い切った。
「あいつだけは、この手で始末をつけたい」
その為には、誰でも踏み台にすると、そう決めた。
……それが例え、誰であっても。
「……」
完全に心を決めている若者を見、セキレイ静かに問う。
「誰かを踏み台にして、奴を見つけ出す、そう言う事か?」
「ああ。そいつとは、昨日の内に話がついた」
というより、そいつからの提案だった。
「あの男は、珍しい剣を作り出せるのなら、食いつくだろう」
移り気の多いあの男は、珍しい物に目がない。
だが、一度手に入れたらすぐに飽きるタイプでもある。
シュウレイを一度孕ませただけで、己が使える剣を作る事を止めて他の男に回し、剣を作る時だけ姿を見せた事でも分かる。
鏡月の手元の剣も、すぐに売り飛ばされて、全く別な伝手で戻って来た。
あの後、狙う気配はなかった。
恐らく、そいつを使えるのも、一度きりだ。
「そいつの血は、特殊な色をしている。単に、オレとは違って色が濃いだけだとは思うが、それでも、珍しい色合いである事には、変わりがない」
「……そいつを、囮にすると?」
「ああ」
男だから、そのまま直ぐに作り替えられる可能性は、高い。
つまり、捕まってこちらが男を捕える前に、死に至っている可能性の方が、大きい。
「それでも、構わないと言っていた」
それどころか、その方がありがたいと、知っているだろうと、微笑まれた。
昔から、そう言う考えの奴だ。
分かっているからこそ、その提案を反対できなかった。
だが、反対できなかっただけで、そいつの生存を絶望視させる気は、なかった。
「これから先、奴はその血を隠さない方向で、動く」
人間相手では通常通りにし、妖物相手の時は、敢て血を流して隠さない方向で、動く。
そうすることで噂を流し、あの男に餌をちらつかせる。
「どこで、あの男が食いつくかの予想がつかん。だから……」
「その囮に、うちの部下を付けるんだな? 死角がないように」
「そういう事だ。あの男が奴に食いついた時に、お前が、オレに知らせろ」
真顔で言い、鏡月はその囮の名を告げた。
「……は? ちょっと待て」
「説明は、難しい。だが、今いる人材の中で、最も適任なのは、こいつだけだ」
「そんな筈、ねえだろう? 体質は兎も角、血の色は普通のはずだ」
「ああ、隠してるからな。滅多な事がない限りは、ごく普通に見せている」
目を剝くセキレイに、鏡月は詳しい話をする気はない。
今日は人払いが済んだここで話しているが、それでも内密の話が長引けば、漏れる可能性も高くなる。
こんなとんでもない話、絶対に聞かせられない奴がいる。
「引き受けたのか、あいつは?」
「ああ。だから、お前に頼むんだ。うちの奴らでは、殆どの顔を知られている。お前の部下の内、あいつと顔を合わせた事がない奴を見繕って、監視に割り振れ。それから、これだけは厳守して欲しい」
畳みかける若者の顔は、先程より緊迫していた。
「絶対に、あいつの父親と、蓮にだけは、この件が漏れんように、箝口令をしけ。いいな?」
「……」
目を剝いたままのセキレイは、無言で頷いた。
鏡月の懸念は、よく分かる。
半分も事情が分からないが、囮を名乗り出た若者が、どんな奴を捕えるための囮なのかを知られたら、邪魔される事必至だ。
仕方ない事ではあるが、それでは誰の無念も晴らせない。
その無念の多さを、鏡月は若者に突かれてしまったのだろう。
だからこそ、若者の提案に乗る覚悟をした。
だが、その無念と同じくらい、その囮の事も大事な存在だった。
「分かった。あいつは、絶対に死なせねえし、秘密は守る。だから……奴を捕らえたら、オレの目の前まで連れて来てくれ。死にざまを見ねえと、安心できない」
セキレイも、誰にどんな責められ方をしようと、無念を晴らせるその時を、見逃したくはなかった。
鏡月とカ・セキレイが、手を組んでいるのではと思ったのは、昨日だ。
辻ながれの事務所兼画廊に、鏡月が訪れたのを知った時だ。
蓮が、どうやらあの剣を気にしているというのは分かっていたが、鏡月まで現れるとは思わなかった。
増谷を動かしていた狐の事は話したが、剣と白猫の絵画の話は、一言も話さなかったはずなのに、何故現れたのかと疑問だったが、あの後ながれ宅に仕掛けた盗聴器で聞いた話で、セキレイの影が見え隠れした。
だから、囮の役を買って出た後、鏡月がどう動くかも予想していた。
まさか、その時にはエン達が襲撃し、その翌日に解放される怒涛の日々を、セキレイが送っていたとは思わなかったが。
その日、山を登って来た凌が、呆れたようにエンを窘め、事情を語る気がない男が渋々謝った場面を見かけ、セイはあの人も、中々に厳しい生活を送っているようだと感じた。
だからと言って同情もしないし、簡単に監視できる人材を見つけられない画策は、させてもらう。
二人の密談は、内容を聞くまでもなく想像できたから、その画策は難しくはない。
セキレイの従業員で、信頼のおける人材には、すでに顔を知られ、自分も知っている。
セイが知らない従業員を監視に当てるとしたら、新規に雇うしか手がない程には、こちらも情報を得ていた。
どちらかというと苦手な人の会社の把握のために、情報をかき集めただけ、だったのだが、思いもよらない場所で役に立つことになった。
自分としては、囮としては勿論、おびき出せたら知らせて足止めをするつもりで、この役を買って出たのだから、鏡月も少しは信用して欲しいものだが、やはり信頼度は薄い様だ。
実力が足りないからというより、渡りに船でこの件を提案したと、気づかれているのだろう。
つい溜息を吐いたセイを見とがめ、隣で愚痴の様な説教の様な言葉を並べていた男が、眉を寄せた。
「こら、聞いているのか?」
「あ、はい。その件は、すみませんでしたと、言伝お願いします」
「……」
すぐに答えた若者を見つめ、銀髪の男は呆れたように言う。
「別に、謝れとは、言っていないだろう」
「ですが、その件は、それ以外にどう対応しろと?」
最もな疑問に、凌は苦笑した。
松本勝は、先日の事件で信じられない話を聞いた。
高野信之からすると、話の延長線上の話だったのだが、勝はそう取らなかった。
「雨樋を修繕するくらい、自分で出来ますよ。素人のDIYなんで、玄人の人から見れば雑でしょうけど」
使う竹が、山で手ごろに手に入らなかったため、塩ビパイプを購入した事を、何故か最近になって、松本建設の社長が知ったらしい。
「天然素材だったんで、定期的に変えていたんですけど、ちょっと見ない間に、この山の竹林が、太すぎるか筍や細い竹しかない程のものになっていまして。丁度いい竹が成長するまで待つより、この際永く使える物に変えようかと思い立ったんです」
「思い立ったのなら、まずは、玄人に相談してみた方が、良かったんじゃないのか?」
その相談するという発想が、思い浮かばなかったセイは、男の言に空を仰いだ。
「……やはり、世話になっている方からすると、財をうまく回す気配りが、いりますか?」
「いや、そう言う配慮じゃなく……ああ、そうだな、あいつに相談したら、非番の従業員をこっちに回して、ただ働きさせそうだな」
そういう事は、遠慮したい。
口に出さなかったのに、凌はしみじみと頷いた。
「そうだよな。いくら何でも、ただ働きさせるのは、やりすぎだな」
何だろう、何か変な話が、持ち上がりそうな気配がある。
永年、妙な思惑を持つ面々といると、ついつい、疑ってしまう。
だから、不意に思い出した事を、尋ねてみたのだった。
「つかぬ事を訊きますが、小父さんは、ヨバイをされたことがありますか?」
「ん? 何だって?」
凌が訊き返したのは、一瞬、その言葉がどういう意味なのかを、把握するのが遅れたせいだ。
片言のその言葉を、一通り区切って見て、意味を解し、目を剝く。
「何で、そんな話が唐突に、こんな場所で出て来るんだっ?」
唐突過ぎる話だというのは理解しているセイは、神妙に頷いて答えた。
「小耳にはさんだ話で、気になってしまって……どうやら、人が婚儀の後、夜にする行動の様なんですが、ある人が男にそれを行ったと言っているのを聞きまして。婚儀と言うと、所帯を持つと言う事ですよね? 男女が揃ってする事なのかとは思うんですけど、ヨバイをするのとされるのに、違いがあるんですか?」
難題が飛び出した。
「ち、ちょっと待て。その前に、何か考え方が間違っていないか?」
混乱した凌は、全く別な問題を指摘した。
「そもそも、婚儀をするほどの間柄の男女は、夜這いする必要が、ないだろうっ?」
大昔ならば、夜這うことを婚儀と同意の意とする向きもあったが、今は男女どちらがされても、罪に問われる。
「でも、そう言う趣向で楽しむ夫婦もいると、言ってましたよ」
誰だ、そう言う話だけ、面白おかしくこの子に吹き込んだのは。
丁度、茶を運んできたエンが、思わず心の中で毒づいた。
誰だと毒づいたものの、犯人は分かっている。
この世に、既にいない男だ。
恐らく、婚姻をした女の元に、こっそりと通っているのを見とがめられて問われ、いい加減な事を言ったのだろう。
思わず苦い顔になってしまうのを何とか抑え、セイの兄貴分の男が湯飲みをテーブルに置いて立ち去るのを見送ってから、凌は咳払いして尋ねた。
「色々、言いたいことはあるが、まず、何で今、その事を気にしているんだ? もしや、それをするあてがあるのか?」
「いえ。全然」
あっさりと首を振り、首を傾げた。
「最近、小耳にはさんだんです。それで、昔聞いた話を思い出して……最近聞いた話と同じで、知り合いの女が、知り合いの年下の男に、それを実行しようと思う、という話をしていたのを思い出しまして。同じように、それをすると言っていた男は、そこまで身なりに頓着していなかったのに、その女の方は、身近の女と協力して、妙に身ぎれいにして行ったので、何でそんなに男女で違うのかなと」
若者の疑問より、その男女が誰なのかが、非常に気になる。
凌がそんな事を考えて唸る中、それとなく話を聞きながら家の雑用をこなすエンは、その男女を特定していた。
「……兄妹揃って、考える事は一緒だったのか」
仕掛ける相手の方にも心当たりがあり、浮足立っていたあの頃、知らない内に起こっていたことが今、浮き彫りになった。
女の方の相手は、女の死後は更に淡白な性格となり、色事のいの字も見受けられないまでになっている。
男の方の相手は、ひ孫までいるお婆さんだ。
死人を責めるわけにはいかず、秘かに溜息を吐いてしまうエンの耳に、真面目に言葉を乗せる凌の声が聞こえた。
「そうだな……大体、大昔の感覚だと、男の方は気軽に女の元に入れた。その上、相手の承諾など考える必要もない場合が多かった。要は、力づくで事を進めればいいだけだからな」
「……」
目を瞬くセイの心境に気付かず、男は少し考えて、逆の立場の者の話を続けた。
「女の方は、力づくが難しい分、身なりを綺麗にしていく必要は、あるだろうな」
暗いから、そこまで気にする事はないだろうに、己の魅力を最大にして、女たちは挑んで来る。
正直、恐ろしかった。
「押したらすぐに倒れそうな、小さな女が多かったからな。倒れる事で悲鳴を上げられたら、逃げられない。だから、本当に丁重に、閨から追い出した。一二度、逃げられなかったが、つまらなかったんだろうな。その後は通ってこなかった」
いや、それは逆に、通われることを期待されていたのでは?
エンはついつい、心の中で突っ込みを入れた。
情を交わしたことで男に気に入られたと思い込み、自分の寝床で心待ちしていた女達が、少しだけ可哀そうな気がする。
期待をかけられる側からすると、その心境は謎なのだが。
色恋に疎いセイは、男の言葉に何の裏も見出さず素直に飲み込み、重ねて問いかけた。
「その、一二度逃げられなかった一人が、母ですか?」
答えにくい事を、平然と訊く。
「い、いや。カスミ達と離れてからは、そう言う、寝込みを襲われる事は、なかったから、その辺りは、気にしなくていい」
平然と答えているつもりのようだが、声は裏返っている。
それに、夜這いというのは寝込みを襲う事だと、しっかりと暴露してしまっている。
何だか、こちらとしては溜飲の下がる状況だ。
エンは、悪趣味と思いつつも、それとなく聞き耳を立てている。
若干、しどろもどろで答える男に頷き、セイは再び問いかけた。
「もしかして、松本さんから何か、変な申し出がありましたか?」
「こら、何で、いきなりそっちに話が飛ぶ?」
「戻しただけですけど」
にっこりと笑った若者は、何を言われても大丈夫な心の準備を、先程の質問の間に終わらせていた。
ただ単に、心の準備のための時間稼ぎで、動揺させられたと気づき、凌は一瞬唖然とし、つい低い声を出した。
「大人を、揶揄うもんじゃないぞ」
「揶揄ったつもりはないですよ。気になってはいた事です。訊いている内に、何となく分かったので、この位で話を戻そうかと、思っただけで」
何となくでは、困るのだがとエンが秘かに嘆く中、話の変化にようやく追いついた凌が、咳払いをした。
「実はな、松本建設に、古谷家から建築物の依頼があった。内密に、しかし豪華な内装の立派な建物を作って欲しいと」
「そうなんですか」
古谷家は、何人か寺の僧侶としての弟子もいる。
独り立ちさせる手筈かと、軽く頷く若者に、男は薄く笑って言った。
「どうやら、お前さんの写真を引き伸ばして、飾る計画らしいんだが」
「設計段階で、止めて下さい」
真剣な返しだった。
「図面が出来たら、手遅れです。あの人たち、手が恐ろしく早いんです」
「止めるのはいいが、その代わりになる見返りが欲しい」
崇める物が出来て、喜びに興奮する面々に、水を被せる行為だ。
その行為のショックを上回る、何かいい話をセイから引き出したいと、男は真剣に語った。
「いい話、ですか? カスミの息子の一人の分身が、害のない物になったので、めでたく本人に戻せそうです」
若者は、真顔で言った。
宮本満繁の分身の狐は、あの後寿の希望通り、雅に張り憑けた。
すると、急速に体を縮め、今では子狐大の大きさとなり、力もなくなった。
逆に、雅の色香が増えたかというと全く変わらないから、あの力は何処に消えたのかと、見届けた面々は不思議な面持ちでいる。
「そういう、お前さんに全く関係ない話ではなく。聞いた話なんだが、ここにお前さんの顔を見に来れない、顔見知りがいるんだってな?」
「見に来ない、の間違いだと思いますけど」
年末年始や盆にでも、見たいとは思わないから、来ないだけだろうという若者に、凌は神妙な顔で首を振った。
「お前さん、そんな自分本位な理由で、交流を途絶えさせているのか? いくら血縁関係はなくても、一度世話になった者には、苦手でも挨拶ぐらいはするのが礼儀だ」
逆に、挨拶しやすくするのも、礼儀じゃないのかと、男はしたり顔で、妙な事を言い出した。
「?」
「つまりな、世話になったお前さんに、挨拶できない程遠方にいる者や忙しい者にも、挨拶の機会を与えてやってはどうだ? そうすれば、偶像を拝むという思考には、ならないと思うぞ」
「……つまり、こちらから、あいさつに出向けと? なるほど、確かに、一理ありますね。年賀状や暑中見舞いが、古谷家に私宛で届くんです、大量に」
そういうものが送られて、古谷家のポストが破裂する前に、自分から訪問して挨拶をすればいいのかと、セイは真顔で手を打った。
「ん? ポストが崩壊しそうな程に、葉書が届くのか? お前さん宛に?」
「ええ。住所が不定なので、古谷家に届くんです。あの中から、古谷家の住民宛の物を探し当てるのは、大変なんです」
「埋もれている、古谷家の住民宛の葉書探しが大変なのは分かるが、他の葉書も罪はない。罪なのは、お前さんが何の反応もしない事じゃないのか?」
「成程、反応ですか。色々と、思わぬ指摘があって、驚きました。これが、目から鱗と言う奴ですね」
いつ覚えたのか、そんな言葉を出して、一人頷いている。
「今年から、年末に挨拶回りしてみます」
すぐにそう決定したその行事が、その後年末の最大行事へと発展することを、セイは知らない。
「……」
年賀状を出す顔見知りで、年始に顔を出す者以外を選っても、かなりの量になる事も、玄関先で挨拶して終わらせる訪問先が一軒もない事も、その時のセイは分かりようがなかった。
「……まあ、失敗は、何事でも経験になるから、放って置くか」
その想像がついているエンは、困惑する弟分を想像しながらも、放置することを決めたのだった。
私情まみれのお仕事 治安絡み編 赤川ココ @akagawakoko
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