第10話

 近くのコンビニでエコバックを購入し、邸へと戻る途中、男は二人の知り合いに電話連絡を入れた。

 一人は、無断で連れ回した若い男の、父親だ。

 話を聞いた満繁は、恨みがましい声を出したが、ながれは意地の悪い声でその言葉を制した。

「仕方がないだろう。お前の息子が、ふゆの字の大事な物の一つに、穴を開けたんだぞ。弁償させられなかっただけ、ましだろう?」

「冬の字……まさか、ながれの奴の絵を、繁がっ? 何で、そんな偶然が起きるんだっ?」

「さあな。だが、そう言う事情で、こちらの仕事を手伝ってもらって、それでチャラになるように交渉してやった。余り役には立たなかったが、連絡を入れずに帰らなかった事情を、女房に教えてやってくれ。そして、戻った時は、冷静に接してやるように」

 諭すように言い、ながれは相手の返事も聞かずに電話を終え、別な知り合いに電話連絡を入れる。

 先程とは違い、永く待たされた後に出た相手は、不機嫌そのものだった。

「何だ、下らない用だったら、承知しねえぞ」

「見つけたぞ」

 寝起きの相手に、ながれは短く告げた。

 鼻を鳴らし、相手は答える。

「そうか。なら、早く持って帰れよ。それは、オレが、責任もって管理する。もう二度と、人前に出さねえ」

 きっぱりと言い切った相手に、ながれは静かに報告する。

「中身は、入っていない」

「……何だと?」

「絵は、二つとも見つかったが、二つとも、空だ」

 唸る相手に構わず、ながれは説明を続ける。

「その内の、満繁の片割れは、とんでもないのに捕まった」

「とんでもないの?」

「ああ。……術師泣かせの、あいつだ」

 空気に咽て、相手が咳込んだ。

「な、何だとっ? そいつが、何だってその地に……」

「どうやら、近場に住処があるらしい」

 取り乱した相手は、しゃがれ声で喚いた。

「ふざけるなっ、おかしいだろうがっ。そいつ、この国のもんじゃねえだろうっ? 何で、そんな辺鄙な所に、住んでんだっ?」

「……別に、辺鄙でもないだろう。兎に角、そう言う理由で、満繁の片割れは、諦めろ。もう一つの方は……一応、探してみるが、期待はするな。もし回収可能なら、封印し直して持って帰るが、不可能だったら絵だけ持って帰る。それだけでも、有難いと思え」

 まだ何か喚いているが、ながれは構わずに通話を切った。

 邸内に入り、二人が残っていたはずの部屋に向かったが、増谷と護衛達が束縛されて転がっているだけで、その姿が見えない。

 移動したのかと、廊下に出て来た方向と逆に向かうと、すぐにその姿を捕えた。

 近づくと、金髪の若者は通話中だったが、ながれを見て隣にいた蓮と目配せした。

 頷く事もなく、黒髪の若者がエコバックを受け取り、口を開く。

 その中に、セイが猫掴みしたままの狐を入れその口を手で絞ると、蓮がその間にファスナーを閉めた。

「……何とか、窒息死前に、間に合ったな」

 一応は、気にしていたらしい。

 気にしていたのなら、あんな捕まえ方をしたまま、ぶら下げてさせていなければいいのにと、ながれはつい思った。

 母猫を真似て、人間の中にも子猫をそう言う持ち方する奴がいるが、あれは母猫だからこそ分かる加減での咥え方だから大人しいのであって、人間のそれで大人しい理由は、窒息しそうになっているからだ。

「どうしても、そう言う持ち方をしたいなら、首の真後ろの皮だけ攫むつもりで、持つといい。長時間は困るし、大きい体の奴は変らんが、子ならまだましだ」

「……誰に言ってんだ、お前?」

 あれは結構苦しいからなと、頷きながら独り言を口走る狸に、蓮が怪訝な顔を向けた。

「いや、独り言だ」

 取り繕ったながれを見返しながら、セイは通話を終えて、携帯電話を仕舞う。

 黙ったまま歩き出す若者を追い、二人も黙って歩き出す。

 廊下に飾られている数々の絵画を横目に、三人は静かに歩いていたが、セイがある場所で立ち止まった。

 二階の主の寝室を出て、廊下を歩いて突き当りの部屋の前だ。

「一つだけ、気になってることがあるんだけど、訊いてもいいか?」

 誰にともなく切り出したセイの手は、その部屋のドアノブに伸びている。

「何だ?」

 問い返す蓮は、周囲をそれとなく警戒している。

「まあ、ここまできたら、どうでもいい事なんだけど……」

 前置きした若者は、ドアノブを回しながら言った。

「何で、こんな奴まで、封印を破れてるんだ?」

 問うセイの目の先には、部屋の中で蹲る者があった。

 ドアを開け放たれても動じず、その生き物は何かに食らいついている。

 その生き物の正体を見止め、蓮は口の中で呻いた。

 ながれも、その惨状に思わず唸る。

「……こっちも、ここまで、でかくなってたか」

「って、お前っ」

「これは、オレの落ち度だ。まさか満繁と一緒の所に、こいつまであるとは思ってなかった」

 この邸内で、狐のものと同じような、空になった絵画を見つけたが、一緒に持ち出されたわけではないと、男は主張した。

「ながれが死ぬ前に、こいつはなくなっていたからな。それからずっと、探してはいたんだが」

 その時にはまだ、満繁の分身がながれの手元にあったと知る、男の弁だ。

 祖父が見つからず、仕方なく自分が封印した化け猫の成れの果てが、狐の食い残しの人間の肉体に食らいついていた。

 が、食らいついた肉が、引きちぎられている形跡はない。

 先の狐と同じで、生気のみを糧として大きくなっているからだ。

「そうするしか、術がない位には追い詰めて、封印した。……冬の字と、ながれを取り合った結果だな」

「……生々しい死体がねえのは、捜査する奴らからすると、幸いか?」

 狐や猫の化け物に、みずみずしい所を全て奪われた、人間の遺体。

 腐敗は少ないが、目をそむけたくなるほどに、状態はひどい。

「死亡推定時刻が、完全に狂ってしまいそうだな」

 いなくなった時期から考えると、あり得ない程に劣化した遺体もある。

「その辺りは、適当に誤魔化してはくれないか? あんたら、この地のああいう人間たちに、顔が利くんだろう?」

「まあ、その辺りは、適当にするけど、そいつ、どうするんだ? 満繁の方は、知り合いだから何とかするけど」

「それだ」

 無感情の若者に頷き、ながれは答えた。

「楽に封印できる段階は、過ぎている。だから、ここで滅する」

 言いながら、男はコンビニでエコバックと共に購入した物を、取り出した。

「焼酎では、少し分が悪いんで、一応念のために買って来ておいたんだが、正解だったな」

 狸の持ち物も、既に今仕様になっている。

 昔は、焼き物の置物の狸の様に徳利を提げ、それを振り回していたのだが、最近は難易度が上がった。

 この男は、大概は焼酎の一升瓶を振り回すのだが、今回は清酒の紙パック入りで、振り回すにしてもそこまで難しくない。

 今からするのは、その中身をぶちまける事なので、鈍器にもしないのだが。

「え、ここでするのか?」

 無感情だったセイが、思わず目を剝いた。

「ここでしないで、どこでするんだ? チャンスがここ以外にないのなら、それ以上の選択肢は、ないだろう」

 納得はしたようだが、若者は後ずさった。

「? 逃げずに、手伝って欲しいんだが? ここまで関わって置いて、丸投げか?」

「いや、邪魔になるだろう?」

 取り繕う若者に、不思議そうに答える。

「あんたが、邪魔になるはずが、ないだろう? 有難い事に、強力な助っ人だ」

「いや、そんな事は……」

 謙遜しているというより、逃げようとしているセイを、蓮は苦笑して止めた。

「……それくらいは、手を貸してやるから、酒の匂いくらいで、そこまで警戒するな」

「……それもあるけど、そう言うことだけ、警戒してるわけでもない」

「?」

 酒の匂いを避けるのも一つの理由だが、それだけが理由で、遠ざかろうとしていたわけではないと、セイは言い切った。

「何だ? まだ何かあんのか?」

「絵画の額縁に、罅があったのは二枚。うち一つは、一匹の獣がいなくなっていただけだけど……」

 清酒の紙パックの蓋を開けていたながれが、振り返った。

「……確かに、あの絵の中にあったものが、もう一つ無くなってはいたが、あれは……」

 辻ながれの作品にしては、面白い題材だった。

 白く美しい猫が、赤く輝く刃を持つ細身の剣のむき身を、愛おし気に抱え込み丸まっている、そんな絵だ。

「剣? 何で、そんなものを、抱え込んでたんだよ、その猫は?」

「そこまでは知らん。だが……」

 ながれは、亡き友人の習慣を思い出し、顔を強張らせた。

「それを描いた奴は、時々その絵を前にして、晩酌していた……清酒で」

「……盃が一つ、あの絵には残ってる」

 描かれていた物の、どちらの為なのか。

 猫の方は、そこまで強力な存在にはなっていない。

 つまり、ながれが清酒で宥めていた物は……。

 そこまで考えた男が紙パックの蓋を閉める前に、天井から何かが落ちて来た。

 正確に、清酒の入ったパックの上に。

「う、うわっ」

 思わず手を離したそれは、死体の散乱する床にぶちまけられる。

 後ずさったながれは、落とした紙パックから流れる酒の海の中に、鞘も柄もない抜き身の剣が、一振り横たわっているのを見た。

「……? 襲ってこない?」

 心なしか、赤い抜き身の刃が、更に赤らんでいるように見える。

 不審に思った男はその視線の先で、遺体に夢中になっていた白い塊が、顔を上げたのに気づいた。

 身構えたながれに見向きもせず一鳴きし、酒に海に横たわったままの剣に飛びつく。

 ごろごろと喉を鳴らしながら、刃から丁寧に酒を舐めとって綺麗にして、そのまま丸くなり、剣も大人しく猫に抱きこまれながら、静かになった。

「……ん? これは……」

「良かったな。このまま絵に戻して、持って帰ればいい」

 どうして、こうなった?

 展開について行けずにいる男に、セイは無感情に言った。

「しかし、戻す前にまた暴れたら……」

「暴れないよ。元々、暴れてないし」

「ん?」

 酒を避けて壁際に避難している若者は、それでも眠そうに、しかし無感情に続けた。

「猫の方は兎も角、その剣が暴れる事が出来る物なら、この邸は今頃、存在しない」

 そういう類の、妖剣だと、きっぱりと言われ、ながれは目を剝いた。

「そんなもの、何だって一般の、貧乏画家だった奴が、持ってるんだっ?」

 ながれに呼び出されて行った狸は、既にその剣が絵画に描かれていたのを、知っていた。

 白い猫又を、ここに封印してくれと、場所の指定もして来た。

「その辺りは知らない。言えるのは、ここから持ち出しても、何の問題もないと言う事くらいだ」

 大人しい白猫を、罅の入った額縁を外した絵画に近づけると、驚くほど簡単に元の場所に収まった。

 しかし、その絵画に描かれているのは、美しい白猫と紅い剣ではない。

「……とんだ豚猫に、変わったな」

 狐のおこぼれを貰い過ぎて、全く別な絵と化したそれを抱え、空の絵画と共に風呂敷に包む。

 狸の動きを静かに見ていた蓮が、眠そうに立っているセイに声をかける。

「……その、満繁って奴の連絡先、知ってんのか?」

 籠っているように聞こえたその問いかけに、ながれが思わず振り返る。

 真顔の若者は、男の持つ風呂敷包みを凝視している。

「……事情を話してから、個人情報の提示の許可をもらうから、少し時間がかかる」

「そうか……まあ、そうだな」

 セイの答えに一応納得したが、苦虫をかみつぶしたような顔は、不満を表している。

 何かの問題が浮上したようだが、こちらには関係ない様だ。

 いや、今は、関係ない様だと、ながれは内心首を竦めた。

 警察が来る前に退却した狸は、風呂敷包みを抱え直しながら、誓った。

 これを今の持ち主に引き渡したら、すぐに奴らの前から逃げよう。


 地元に戻った宮本繁は、朝一でそのニュースを聞いた。

 増谷大吾が、もろもろの犯罪行為を立件され、逮捕されたニュースを。

 上野家で刑事たちに連絡は入った時にも驚いたが、瞬く間もないほど迅速な動きだった。

 その上ほぼ同時に、増谷家とつながりが深い地元の政治家や名士が次々と名を上げられ、すぐに家宅捜査に踏み切られた。

 そして、一週間後に久し振りに非番となった父親と顔を合わせた時には、あの地を牛耳る大手は、すっかりすり替わっていた。

「まあ、上が変わったところで、下の一般の市民に根付いた風習は、そう簡単には変わらんだろうな」

 父親はそう感想を述べる。

「スーパーも大きく手を広げ過ぎて、それを潰すと雇用問題が発生する。どこかの会社がそのまま引き継ぐらしいが、方針は大きく変わるだろう。それが雇用条件にも大きく影響するだろうから、この一月で失業者が増えるだろう」

「人ごとじゃないなあ……確か、こっちの方にも、あのスーパーあったよな」

 あちらほど大きなものではないから、そこまででもないだろうが、こちらの就職活動にも影響が出そうだ。

「それ以前に、お前、ちゃんと活動してるのか? 高級な絵画に、穴を開けられるような場所を、何でうろついていたんだ?」

 嘆いていた繁は、父親の問いに声を詰まらせた。

「べ、別に、穴を空けたくて、そこに入ったんじゃないよ」

 言い訳を聞き流し、満繁はとあるビルを見上げて立ち止まった。

「ロクに、お前を絵の回収に連れて行ったと聞いた時は、肝が冷えた」

 一度は会った事があるものの、同腹の父親違いの姉や、実の姉妹たちが腰を据える、恐ろしい図式の土地は、正直、祝い事や弔いごと以外で近づきたいところではない。

 そうしみじみと漏らす父親に、息子は首を傾げた。

「ロク?」

「お前を借り出した奴の、名前だ」

「辻さんの、本名?」

 文字がかすれて意味をなさない看板が下がる建物の階段を上り、二人は二階部分の事務所へと向かった。

 こじんまりとしたテナントの一室の、扉に据えられたチャイムを押すと、中から返事があった。

「……」

 それに何故か目を見張りつつも、満繁はドアを開く。

 すりガラスの張られた仕切りの奥に、小さな応接セットがある。

 その奥に座るこの事務所の主と、テーブルの前のソファを見、男は思わず小さく唸ってしまった。

 いつもの不機嫌丸出しの顔を強張らせ、辻ながれが満繁を見止める。

「……遅い」

「時間通りだろうが」

 返すと、悔しそうに顔を歪める。

 この応接室の奥の仕切りのさらに奥に、もう何人かの気配があり、ながれの精神面が削られていたことが容易に伺える。

「……あちらが、絵に集中している間に、こっちはこっちで、話を聞いておきたいと思ってな」

 静かに、客の一人が切り出した。

 上野家で、幅を利かせていた若者だ。

 隣に座るのは、その妹と自己紹介した女で、満繁は驚いて黙礼した。

 笑顔で黙礼を返す優の隣で、鏡月は静かにながれを見据えた。

「あの絵の、抜き身の剣。あれを、どこで手に入れた?」

 目を細めて見返し、ながれは答える。

「オレが、ながれの元に来た時には、既に絵の中にいたから、実際には知らない」

 言い切ってから躊躇い、続ける。

「だが、同志の付け足しをする時に、事情は聞いた。……足元に、転がって来たそうだ」

 本物の辻ながれは、無精だった。

 それが祟って、早死にしたと言っても、過言ではない。

 だから、本当に、外に出てぶらつく事は、珍しかった。

「何かを拾うのも、その分珍しい奴でした」

 取りあえず、余っている事務デスクの椅子を二つ引きずって来て、親子はながれの向かい側に腰を落ち着けた。

 そうして、ながれの答えに満繁が付け足すように、友人の事を話す。

 剣というのが、あの赤みを帯びた物の事なら、知っていた。

「何で拾ったのかと訊いたら、子猫みたいに鳴いているように見えたと、困ったように答えた」

 子猫も、拾った事はない癖にと、当時は呆れた事を思い出す。

「得体のしれない物を、ついつい拾ってしまう、そんな奴でした」

「……絵に、閉じ込めたのは、何故だ?」

「閉じ込めたんじゃないですよ、あれは」

 寝床を作った、そう言っていた。

「それこそ子猫を養うように、寝床と適度な餌を用意した。ただ、餌は苦労したようですよ。何を与えても喜ばないんで、自棄になって与えた物が大当たりだったようで、病で入院するまで、それを一緒に呑むのが日課となっていたようです」

 それが、清酒だった。

「奴の場合、晩酌するにも殆ど酒しか口にしなかったからな。しかも、医者にかかる事も、しなかった」

 倒れて緊急入院するまで、病気一つ気にかけていなかった。

「オレと同朋の白いのが、奴にちょっかいをかけて来たのは、その病が進行して、最期の入院生活に入る直前だった」

 主を死ぬ迄守り、その死後の体を貰い受ける猫。

 既に、その猫を従えている人間に、その白猫はちょっかいをかけた。

 そして、返り討ちになったのだ。

「本当は、あのまま消してやるつもりだった。他の猫又は知らねえが、オレとその白いのの一族は、横槍がご法度だ。掟破りには死が妥当だった」

 それを止めたのが、当のながれだった。

 貧乏画家は言った。

「オレが死んだら、そいつの世話をする奴が、いなくなる。いつまで養ってやれば、独り立ちするかも分からないが、寂しい思いは、させたくない」

 ながれは、あの剣をあくまで子供と言うより、子猫の様に扱っていた。

 だから、あの白猫に切り出したのだ。

「あの剣が寂しくないように、寒い思いをしないように、一緒にいて欲しいと。白いのは当初、嫌々ながら封印を了承したんだが」

 どうやら、愛着がわいたらしい。

「まさか、額から飛び出した後、剣を探すために、徘徊していたとはな」

 その合間に、ついついおこぼれにありついてはいたが、人を直接襲った形跡はなかった。

「……画家の手元にあったはずの絵画が、どう言う経緯であの家にやって来た? 売ったのか?」

「いや。ながれの入院のごたごたが収まった時には、無くなっていた」

 管理すると約束した傍から失くしてしまったと、慌てて知り合いの狸を頼った。

「あいつに、白いのの封印を頼んだんでな、見つけるには最適な人材だったんだが、満繁の片割れと一緒に見つかるまで、所在が知れなくなるとは思わなかった」

 黙ったままそれを聞いた客二人は、顔を上げて仕切りの奥の方を見た。

 小さな画廊になっているそこから、二人の人物が出て来る。

 小柄な若者と、さらに小柄な女だ。

 その二人を見て、満繁はついつい天井を仰いだ。

 母方の兄弟たちには何度か会っているが、こんな所で父方の兄弟どころか、その子供にまで会う羽目になるとは。

 心の中で嘆く男に構わず、女の方はぼんやりと歩みよって、鏡月たちの座るソファの向かいに、テーブル越しに腰を落とす。

 若者の方も静かにその隣に腰を下ろすと、ながれを見据えた。

「あの絵、いくらで売ってくれる?」

「……売りもんじゃねえ」

「だが、お前の主人の作品でも、無いんだろう? 金で売れるだけ、ましとは思わねえのか?」

 若者、蓮の不敵な言い分に、ながれは鼻を鳴らして返した。

「こっちの足元を見て、言ってるつもりか? だが、生憎だな、ながれの作品じゃねえから、売りもんじゃねえって、言ってんだよ」

 きっぱりと言い切って、続けた。

「あの絵が無くなる前に、しつこく売買を強要してきた奴と、同じことを言ってんじゃねえよ」

「……買いたいと言ってきた奴が、いたの?」

 ぼんやりとしたままだったシュウレイが、男の言葉に反応した。

「どんな奴だ?」

「知り合いか? 色男だったからな。最も、オレが気になったのは、そいつが連れてた奴らだったが」

 連れは、一族の生き残り仲間たちだった。

 親を皆殺しにされた子供たちは、それぞれ散り散りになり、あるものは故郷の地で猫に紛れて生き、あるものは他の猫又の一族や力のある者にすり寄って生きる事を選んだ。

 その数匹の猫又を従えた男は、色白の、血のように赤い目が印象的な、長身の若い男だった。

「話にしか聞いたことがねえから、あの時まで現存しているとは思ってなかったが、血を自在に操るバケモン、だろうな」

 何で、そんな奴があんな絵を欲しがるのかは知らないが、蓮が口をついた言い分で、ながれに迫った。

 が、貧しく無精だった割に口は達者だった画家は、あっさりと揚げ足を取って追い返したのだった。

「……その後だったな、ながれの症状が急変したのは」

「ああ」

 ながれの数少ない知り合いたちは、そう確信していた。

 宮本満繁は、溜息を吐いて隣の息子を見た。

「繁、ながれは、お前の伯父に当たる人だ」

「へ?」

「お前の母さんの、実の兄貴だ。爺さん婆さんが離婚しているのは、知っているだろう? 苗字が違うのは、そのせいだ」

 親子が会話している間に、妙に重苦しい空気が室内に漂った。

「……そう、そこまでして手に入れたのに、早々に手離したんだ、あいつ。本当に、どうしようもない奴」

 やんわりと、シュウレイが呟く。

「取り出し方が、分からなかったんだろう。血を操るだけでは、封印を解ける術はないからな」

 鏡月も、手元の仕込み杖を握りしめながら、のんびりと呟いた。

 そんな二人を見て、蓮が目を細めてながれを見る。

「あんたが持っていても、別段構わねえとは思うが、出来ればこちらに引き渡して欲しい」

「売れとは、言わねえのか?」

「売らねえと言ったのは、あんただろう?」

 不機嫌そうなながれを見ながら、繁が人知れず小さく唸る。

 見知っている辻ながれとは、中身が違うようだ。

 そう感じた息子を肯定するように、満繁が呼びかけた。

「フユ」

「何だ?」

 不機嫌そうに見返す男に、満繁はゆっくりと尋ねた。

「この人たちの前に、客はなかったか?」

「……あった」

 図星を指され、眉を寄せながら答えるながれに、男はゆっくりと言った。

「なら、その客に言われたことを、交換条件にしてみてはどうだ?」

 唸る男を見据え、蓮が尋ねる。

「それを呑めば、あの絵を手離してくれるってのか?」

「……呑んでくれるのならば、な」

「まあ、話し次第だな。言ってみろ」

 頷いてから、若者は目を険しくした。

「まさか、聞くからには受けろとか、言わねえよな」

「言わねえよ。受けねえなら、絵を渡さんだけだ」

 返す男も、目を険しくする。

 そうして、切り出した。

「条件は二つ。一つは、あの剣の正体の説明だ。猫の方は知れている奴だが、あの剣に関しては、変った妖刀という認識しかねえ。だからこそ、ながれもオレも、あんな状態で見張るしかなかった」

 沈黙が走ったが、それは説明を渋ってではなく、その説明が難しいと感じたせいらしい。

 四人の客たちが唸り、優が口を開く。

「私たちを含む哺乳類が、体中に常に流している血液。それが、あの剣の材料よ」

「あ? 血、だけで、あんなもんが作れるってのか?」

「血液に含まれる鉄分、それに目を付けて、大昔、かどわかしを大量に行っていた奴がいた」

 あの当時は、血の味と鉄の味が似ている、そんな安易な理由からだったと思われる。

「一番量を得る為に、心臓は勿論、体中の血管から搾り取って、一つの剣を作り出す。そんな悪趣味な奴が、存在する」

 質の悪い錬金術師と言う奴だと、鏡月は言った。

「初めはね、血が多く流れていそうな、血気盛んな男が狙われていたんだけど、いつからか全く逆の人間が狙われ始めた。それが、母親のお腹の中に宿って、もうすぐ生まれる頃の、胎児、だった」

「胎、児? じゃあ、あの剣は……」

 顔を引き攣らせたながれに、蓮がきっぱりと言った。

「この人の、実の子供だ」

「……多分、私の自我が崩壊していた頃の子、だね。守ってあげる事すら、出来なくなってたから」

 刃が赤いのは、血の色だ。

 青褪めた親子の向かいで、ながれも顔色を変えて唸る。

「初めは、それこそ、赤の他人の妊婦を、狙ってたらしいんだ」

 そんな三人に構わず、シュウレイが説明した。

「でも、一回使うだけで、すぐにばらけてしまう。まあ、証を残さない凶器ってことで、それはそれで、高く売れてたらしいんだけどね」

 その方針を変えたのは、シュウレイと会ってからだった。

「あいつと、所帯を持って暫くして、めでたく身籠った。初めは喜んでくれたんだけど、お腹が大きくなってくると、全く別な表情を見せるようになった」

 それは、何か頭の中で画策しているような顔で、その目が生まれて来る子供への、愛情以外の思いのように感じて、しかしそれがどういう感情なのか分からずにいたのだが、臨月に入った頃、それが唐突に分かった。

「あいつ、私が誰の子か知っていたからなのか、セキレイの怪我が急速に治ったのを見た事があったからなのか、私が、腹を裂かれても致命傷にはならないって、そう考えてたみたい」

 油断したシュウレイを押し倒し、腹を裂いた男は、妙に手慣れた手つきで臓器を避け、胎児だけ取り出して見せた。

 へその緒がついたままの胎児が目の前で、抜き身の刃物に変わった時、流石のシュウレイも混乱した。

「……あいつが言うには、大概のこの手の剣は、母親の血の色をしているんだって」

 我に返った女に、男は満足げに剣を掲げ持って見せて、続けた。

「もしやそうなのではと今回試したけど、血の繋がった者が持って使うと、その分長持ちするって……それを、試すために、初めて授かった子が……」

 剣に作り替えられ、村の民を斬り捨てた。

 怒りでまた我を失ったシュウレイだが、その時には何かの術で、身動きが取れなくなっていた。

 それからは、本当に自我が崩壊してしまうまで、誰とも知らない男に弄ばれ、子を宿しては生まれる前に奪われる、そんな歳月を送っていた。

「……」

 優が、鏡月を一瞥した後に、優しく妹に尋ねた。

「その男の名前、憶えてる?」

「本名かは知らないけど、一応は。旦那だった男だからね」

 頷いて言ったその名に、鏡月は小さく鼻を鳴らした。

「隠す気、ゼロだな」

 短い言葉で話を収め、難しい顔で黙り込んだながれを見た。

「もう一つの条件は、何だ?」

「……」

 嫌悪感と全く別な何かの感情が入り交ざった状態で、声を出すのに時間がかかるながれの代わりに、満繁が静かに切り出した。

「私が、この地に引き取られることになった理由は、昔からこの地を縄張りにしていた偉大な妖怪が、弱い者を守ってくれると、知られていたからのようです」

 父親の弁ではない。

 母親が、その話の信ぴょう性を調べて、この地に養子に出すと決めた。

 そう聞いた蓮は、思い当たって頷いた。

「ああ、この地だったか? あの自堕落な、爺さん狸がいたのは?」

 社会面でも、弱者を守ろうと考え戸籍の獲得を試み、最近失敗が確定した。

「よりによって、森岡家に引き取られちまったからな」

 だから、その方向での手助けができる日は、まだまだ先だ。

 苦笑して説明する蓮に頷き、ながれも言う。

「ああ、ロクの奴にも、そう聞いた。その原因が、あんたらの行動だったってのも」

 勿論、あんなあからさまな、目立つ刑事事件を起こされては、遅からず明るみになっただろうが、一時期姿を見せなかった頼りの爺さんが、まずい状態になっていると知り、焦っていた。

「その事件の弁護を終えてから、不自然でないように弁護士を消し、再び孤児院の前に子供の姿で転がるところから始めないといけないとなると、それまでの社会面での安全が危ぶまれて、不安定過ぎる」

「私に、その不安を払しょくできる技能があればよかったんですが、手先が器用と言うだけで、あまり役に立たない男でして」

 力なく笑う満繁を見て、鏡月は再びながれを見る。

「つまり、どう言う事だ? はっきりと自分から切り出して欲しいんだが」

「ああ。つまり、せめてゲン爺が社会面での基盤を整えるまで、この地の我らの事も、気にかけて欲しい」

「いいよ」

 即答したのは、シュウレイだ。

「その代わり、あの子をあのまま置いててくれる? 時々、見に来るから」

「へ?」

 思わず、ながれにしては間抜けな声を出した。

「いや、持って帰らねえのか?」

「持って帰ったら、セキレイに色々知られちゃうもの。あの子には、只一人の旦那には、愛されていたって、思っててほしいから」

「親父は、その男の事を、知ってんのか?」

 意外そうな甥っ子の問いに、シュウレイは素直に頷いた。

「連れ攫われる時に、殺されたって話してるから。自分の子供を剣に変えて、それで村中の人間皆殺しにして回ったなんで、今更言えないでしょ。……叔父上にも」

 寂しそうに付け加えた言葉に、優は顔を伏せた鏡月を一瞥し、少しだけ声を明るくした。

「セキレイちゃんは、今日も別行動なのね」

「ああ」

 答えたのは、その様子を目を細めて見ていた蓮だ。

「昨日、ミヤに釘を刺されちまってな、暫くは動けねえ。だから、その隙にと連れて来た」

「そうだったの。意外に早く、面会できたのね」

「……弟が連れて来る女を、楽しみにしていたんだろうに。ご愁傷さまだな」

 当然のごとく、話を収める義理の兄と腹違いの姉に、シュウレイは顔を顰めた。

「えー、何で疑問を一つも抱かずに、そう納得できるの? 物理的に釘刺すの、そちらの常識では、当然だったの?」

「当然だろう? 少なくとも、エンの感覚では、そうらしいからな」

 驚く驚かないより、新鮮味がなくなっていてつまらんと返す鏡月に、蓮も頷く。

「あいつの考えそうなことだからな。まさか、あんなでかい釘を調達してこれるとは、思わなかったが」

 二人で力合わせて、ハンマーで釘を打ち付ける、共同作業だったとその場を見ていた若者が教えると、優がくすりと笑った。

「夫婦での初の共同作業、みたいね」

「所帯を持った後なら、微笑ましいんだがな」

「えー、ケーキ入刀と、同じ扱い?」

 内輪での話が盛り上がり、ながれと向かいに座る親子の存在は、忘れ去られたかのような空気が流れた。

 よそでやられるならいいが、ここはながれが所有する事務所だ。

 男は咳払いして客に存在を思い出させ、表情を改めて切り出した。

「こちらに置いて置くくらいは造作もない。戻って以来、出てくる様子もないし、白いのも大人しいからな。だが……その、あれを盗んだと疑わしいあの男、あいつがまた狙ってきたら、どうする?」

 一度、取り出すのは諦めて手離したようだが、何かの拍子に再び狙ったとしたら……そんな、漠然とした不安を小さく笑った鏡月は、笑いを残したまま、のんびりとシュウレイに呼び掛けた。

「シュウレイ」

「はい」

 名を呼ばれて驚いたシュウレイは、思わずいい返事を返して姿勢を伸ばす。

「あの剣に、名をつけてやれ。どんな剣になって欲しいか、強く願いながらな」

「え? 名前?」

 きょとんとする女に笑いかけながら、若者は手元の仕込み杖の柄を、宥めるように叩く。

「あれは、名付けた者が願う形に、成長する剣だ。血の繋がりがある者であれば、最良の成長をするだろう」

「……」

 きょとんとしたままのシュウレイを優が促し、立ち上がって再び仕切りの奥へと向かって行く。

 それを座ったまま見送った蓮は、静かに鏡月を見やった。

「何だ?」

「いや。親族問題がほぼ解決したと思ったら、妙な話が舞い込んじまったな」

「別に、お前がそれを、気にする事はない」

 大昔、それこそ数か月かけてようやく、その糸口をつかんだ程、存在感の薄い男だ。

 しかも、囮に引っかかったあの男を、間髪入れずに襲った当時の群れが、結局取り逃がしてしまった程、逃げもうまい。

「あの剣も、ああやって絵画の中に保護されていなければ、見つけることは出来なかったはずだ」

 恐らく、そうでなければ、既に存在していなかったであろう、シュウレイの子だ。

 一度手離した物に執着することが、命取りになると分かっているあの男は、二度とあの絵には近づかないはずだから、ながれの心配は杞憂だと、鏡月はのんびりと言った。

「……そこまで、存在感が薄い奴の作る、質の悪い物の事を、何であんたは、そんなに詳しく知ってんだ?」

 ながれが、奥を伺いながら静かに問うと、鏡月はあっさりと言った。

「オレも、持っているからな」

 空気が咽て咳込んだ男の向かいで、やっぱりと満繁が天井を仰ぐ。

「……そちらにある、杖の中身、ですか?」

「そうだ」

 当時かどわかされていたのは、若いうぶそうな娘だった。

 囮にするには、当時若い娘は大事にされ過ぎていた。

「今でも、あれは仕方がないと思ってはいるが、中々骨がいった」

 女の姿で適当な村に住み込み、目の色を変える男たちを適当に振り払いながら、只の盗賊にかどわかされないように気を配りつつ、その時を待った。

「あの時は、その内情が余り知られていなかった。あの馬鹿親父は、意図的に隠したんだろうが」

 もし知っていれば、戯れでも婚儀の真似事などしなかった。

「婚儀の真似事?」

 その数か月前、妹たちや従兄の前で、鏡月はあの時初めて、女の姿を披露した。

 驚き喜んだ従兄が、ちょっとした悪巧みを考えたのだ。

「それが、女のオレを着飾って、ある男の所に夜這いをかける、今考えると後悔まみれの所業だった」

「……」

「オレとしても、嫌いな男に手慰みにされるかもしれない不安があったからな。その前に、気に入った男の情を、この身に受けておきたかった。だが、それが、あんな事態になるとはな」

 鏡月本人も、気づかなかったのだ。

 あの男が腹から掻きだした上で、剣に変えるのを見るまで、その子供の存在に気付かなかった。

「ミズ兄が駆けつけてきたところから、暫くの間の記憶がない。オレにしては珍しく、完全に取り乱してたんだな。ずっと、とられた、とられたと泣いていたらしい」

「……取られたって事は、それは、誰かが取り戻したんだな?」

「ああ」

 取り戻してくれたが、それを喜ぶ暇はなかった。

 黙って一人行動していた水月みづきが、妙な呪いを受けて戻って来たのだ。

「あの人は、方々にいた女を頼ってあの男に行きつき、これを取り戻してくれたが、代わりに呪いを掛けられた」

 都合のいい時だけ使うから、女に恨まれたんだと、水月は笑っていたが、女の死が確かめられた後も、その呪いは消えなかった。

「ミズ兄が死んで、形見分けの時になってようやく、オレはこれを思い出した。あの人が持っていた仕込み杖の中身は、只一人の弟子に持ってもらって、オレは外側だけもらった。その時に、戯れと言うか気まぐれに、名前を付けた。そして、願った」

 刺したものを、残らず食らって糧にしろ。

 呪いも病も、どんな薬まみれの体も、残さず己の力にして、思う存分大きくなれ。

 そう言って、その剣を突き刺した。

 形見分けされた後の、水月の体に。

「そうしたら、この形に落ち着いた」

 のんびりと言い、鏡月は仕込み杖の鯉口を切って、その中身をのぞかせた。

 白みを帯びたその刀の刃は、僅かに金色の光を滲ませる色合いになっていた。

「シュウレイが、どう望むかは知らんが、これで少しは、気が済んでくれればいいと思う」

「……あんたは、気が済んでねえんだろ?」

 真っすぐな若者の問いに、鏡月は珍しく微笑んだ。

「済んでなかったら、どうなんだ? お前には、関係ないだろう?」

「関係はないが、どんな拍子にその男と相まみえるか、分からねえだろう? 存在が薄いのなら、気づかないうちに、会っているかも知れねえ」

「会っている可能性は否定できんが、気づかないと言う事は、お前に害はなかったという事だ」

 あの男は、徹底していた。

 自分を知る者の前には、姿はおろか気配すら、伺わせない。

「この国では、律もオレも、目を光らせていたが、あの剣の存在が分かって初めて、シュウレイを追い詰めたのがあの男だと、分かったに過ぎない」

 しかも、本当に偶々、カスミが息子の様子を見に行き、絵画に収まったあの剣を見つけたからというだけで、男の気配は欠片も残っていなかった。

「見つけるだけでなく、罅を入れてくれるのが、親父の余計な所だ……」

 剣が自由になったのは、恐らくはごく最近だと、見つけてきた狸は言っていた。

 そうでなければ、あれを探すために同じように絵画から出ていた白い猫又が、あの絵に入り切る大きさで留まっていたはずはないと、変な力説をしていた。

 そう報告した満繁に、鏡月も頷く。

「ただ生気を吸っていただけでも、何年も続けていれば更なる脅威が出来上がる。いずれ、昔の姿とは違う猫又になっていたかもしれんな」

 そう話を収め、若者は戻って来た優を引き連れて、事務所を辞した。

 蓮も立ち上がって、戻って来たシュウレイを促し、後に続く。

 四人の客が去った後、残った三人は深い溜息を吐いて、体中から力を抜いた。

「こ、怖っ。お袋の非じゃない、威圧感だ」

 満繁が、素直な感想を呟いた。

 今迄、父親からは、圧を感じた事がない。

 だが、それは単に、自分が普通に人間として生きているのを考慮して、そう感じさせないように気遣ってくれていたせいかもしれない。

 あの父親の性格からすると信じられないが、姉である女二人と甥にあたる若者に会った今考えてみると、何となく尊敬したくなってしまう。

「あんな面々を前に、こんな事をさせたんだ、相応の対価はもらえるんだよな?」

 ながれが、忌々し気に己の手元のティカップを持ち上げ、話しかけた。

「本当に、ばれてねえんだよな?」

 その様子を見た満繁が青褪め、繁が思わず叫んだ。

「え、まさか、盗聴してたのかっ?」

「盗聴じゃねえよ、オレの部屋で、オレが仕掛けたもんだからな。得体の知れねえ奴を相手取るのも恐ろしいが、あの連中を敵に回すのも、冗談じゃねえぞ」

 そう言った時、固定電話が着信を告げた。

 立ち上がって、すぐに受話器を取ったながれは、咳払いした。

「……何だ、中継で聞いてたのかよ。……いや、今のは……」

 受話器に向かって言い訳を始める所を見ると、盗聴器の向こう側に誰かがいたらしい。

「ま、最悪な事態にはならなかったようで、良かった」

「……親父、あんたの分身って、そんなに質悪い奴だったのか?」

 力を抜いた父親が、息子に問われて顔を引き攣らせた。

「そんな事、親として答えられないな」

「いや、答えて欲しいんだけど? オレ、危うくその餌食になりかかったんだよ?」

「餌食、言うなっ」

 思わず怒鳴ってから咳払いし、満繁は声を抑えて言った。

「小さい頃はな、そこまで厄介じゃなかったんだ」

 時々、バス停で通学バスを待っている時に、真後ろで一物を振りながら励む、変なおっさんに行き会ったり、下校途中、変なお姉さんに部屋に連れ込まれる位で、そこまでひどくはなかった。

「……え、それが、最小被害だったの?」

「余り、害はないだろう?」

「そう、か?」

 父親の感覚が、自分とは大幅に違うのを、繁は初めて知った。

 戸惑う息子に、満繁は思春期を迎えた頃の事を話した。

「誰かに好意や悪意を持つと、それはその誰かに影響するようになってな。危うく、死人が出そうになった」

 ある時は好いていた女に、郊外で裸で言い寄られ、ある時は嫌った女に泣かれて謝られた挙句、目の前でナイフで自刃しようとされた。

「ちょっと好意を持つと、その人がストーカーみたいにつけ回し始めて、恐怖を覚えるとすぐに自刃沙汰を起こす。もう、頭がおかしくなりそうになった」

 そんな思春期時代に、ながれ兄妹と会い、その友人だった狸と知り合い、その祖父の厄介になった。

「絶対に、あんな奴は世に出しておきたくないってのに、うちの親父は……」

 さっきの尊敬の念は何処へやら、思い出した迷惑話で改めて駄目親父のレッテルを貼る。

「結局、あの金髪の人が、持ってるんだろ? 一体、どうするんだろ?」

「悪いようには、しないでくれるはずだ」

 先程まで話についていけなかった分、繁は説明されたあの狐の行く末が気になった。

 父親は、妙にあの若者を信じているようだが、害のないような対処をしてくれるのだろうか。

 心配ではあるが、相手の事を知らない男には、これ以上どうすることも出来なかった。

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