第6話 ウィルスは序章だった
発生源が特定できないまま二年が過ぎた頃、世界中にまん延した感染症もワクチンがいきわたり、人々はマスクを外して街に出た。接触機会を禁じられていた反動で、対面し、接触し、密な時間に幸福感を求めた。
人口は半分ほどになったけど、経済活動を停止した影響で海水温が一度低下。気候変動のスピードがわずかに緩み、南半球のオゾン層も修復されつつあった。
二年前、今井さんのおばあさんから選ぶように迫られた無に戻る方法の最後が、ウィルスのまん延だというのは思い込みだったようだ。
おかあさんがまたため息をついた。
「ふう、また停電。でも星がこんなに出ていたのね。ほらなっちゃん、お星さまよ」
星空を眺めるだけの夜が何日も続いたけど、電気は復活しなかった。
そのうち星も見えなくなった。
雲がそこまで迫るほど空が狭くなった。その中で止むことのない稲光。
「どうしたのかしら、不気味な天気。風も無くてムシムシするわ」
南極も北極も赤道付近も日本も気温が三十二度で均等になり風が止まった。海流も消え凪の海は沼のようだ。地上の水分は蒸発し尽くし川が枯渇。雲は厚くなるだけで雨は降らない。
宇宙開発競争で各国が打ち上げた無人衛生の残がいを国際宇宙支援センターが回収し東京ドーム七つ分の塊にして帰還する途中、誤操作で月の裏側に衝突。衝撃で球体だった月が変形して地球周回軌道が大きく狂った。引力が弱まって海の活動が停止。地球は青から黒になった。
水力、火力、太陽光、風力、潮力、すべての発電システムが停止。原子力発電所では冷却水の供給がストップし炉心が融解。水素が大量に発生してさらに雲を厚くした。
湿度はほぼ百パーセント。
地上は塵や埃に埋もれた。行き場のない汚物も増えたが風が吹かないから臭わない。それでもうごめいて減っていくのは分解してくれるバクテリアの活動が加速しているからだ。
餌を求め、まだ生きている昆虫に群がり、すぐに猫や犬に目をつけ、いよいよ人間を攻めてきた。
蝕まれていく自分の肉体を見ながら死んでいく恐怖に、自ら命を絶つ人が増え始め、その遺体にまた寄生して増殖していく。
無事であることを喜んで話していたおばさんの目玉が話しながら解けるように消えたのも見た。
お母さんはとっくに埃になるまで食い尽くされて人型の綿のようになって部屋の隅に積もっている。
風は二度と吹きそうにない。潮の香りも忘れてしまった。昼なのか夜なのか分からない世界で私だけが成長している気がした。
雲に覆われて蒸し暑い外に出た。動く物が見当たらない中をあてもなく歩いてみた。微生物さえ私には寄り付かない。だけど私は確実に大きくなっていた。柔らかい胸の膨らみに手を当てる事で生きている事が実感できた。
歩いても風が流れずに空気の抵抗すら感じない。自分の足の動きを見て初めて歩いているのが確認できた。
顔をあげると、今井さんの門扉の前まで来ていた。
あらっ涼しい。どうして。
久しぶりの感覚。フッと足に風が当たった。
今井さんのおばあさんが掃いている竹箒。
「私はこれからどうなるんですか、どうすればいいんですか」
フッフッと風がきた。
今井さんのおばあさんは黙って掃いている。
私は無になる選択をしないまま生まれてしまったようだ。八百八十八番目の長女として。
私を見ていた今井さんのおばあさんの顔の向こう側が透けて見えた。
ひょっとして私も、私って存在しているの?
手を顔に寄せてフーっと吹いてみた。
その息が今井さんのおばあさんに向かった。
ウゴウゴと揺れて、はらりと崩れた。
「あっ」
塵になったおばあさんが空に吸い込まれ、雲を巻き込み穴をあけた。
丸い青い空が見えて光が射しこんだ。
今井さんの庭の道がはっきり見えた。色も戻った。
あっ風だ。
だんだん強くなってきた。えっ、どうして。何もかも風が消していく。
木も家も山も海も無くなった。
そして光も無くなった。
「これが無」
「そう何もない」
「だれ。あっ、なお美、なお美でしょ」
「そうよ。一緒に何もないのを見ているわ」
「どこにいるの、どうして私たちだけ」
「同じ所で同じ物を見ている。だけどママは無になる方を見ていて、私は無から始まる方を見ている」
「どうして分かるのよ、なにも見えないのに」
「だって私には聞こえるから」
それっきり、なお美の気配が消えた。
何が聞こえていたのかは分かっていた。
同時に、フッと自分が消えたのが分かった。
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