第4話 私ってだれなの

初めて自分の目で確かめた。若い女性だった。

「やっと目を開けたのね」

おかあさんだと思っていたこの人ってだれなんだろう。

「わかる、わたしよ」

「優茉ちゃん」

「そうよ、妹の優茉よ」

隣にもう一人。お母さんみたいなお母さんの若い時の写真そのままの人、この人って。

「初めまして、ママ」

「えっ」

「お姉ちゃんの娘のなお美ちゃんよ」

苦しいほど覆いかぶさってきた。大人の女性に泣かれたのは初めてだ。

優茉が気を使って病室に母娘二人きりにしてくれた。

「ママはこのベッドで二十年間過ごしてきたのよ。私はここで産まれた。ちょっと不思議なんだけど、ママは脳波も内臓も骨格も異常がないのにずっと目を覚まさなかったのよ」

娘だと信じられないほど大人の女性にそう言われても、私はいつも誰かと話していた記憶がある。私の中で二十年という時間の辻褄が合わなかった。

薄い肌掛け布団が濡れるほど泣いて笑顔になったなお美が流れた月日を話してくれた。

なお美は妹の優茉が育てたようだ。

小学校や中学校の思い出や女子高ではいじめられていつも屋上で雲を見ていた事、ニュージーランドに短期留学して知り合った友人とアルバイトをした店で強盗事件があった事や、その友人が女性であることに苦しんでいた事などずっとしゃべっていた。

今まで聞いていたお母さんやおばあさんの声とは違う響きがした。

それよりなにより、どうして私がこのベッドでなお美を産んだのか質問しても、この子は聞こえていないように、私を無視して自分の事ばかり話していた。

「ねえなお美ちゃん、私はどうしてここにいるの」

「その時ね、私はアイスクリームを食べていたんだけど水族館ってねママ・・・」

だめだ、やっぱり聞こえていないようだ。

私が産んだとしたら一体だれが父親なのか思い出そうとしても、浮かぶのは今井さんのおばあさんだけ。そうだ。

「ねえ、家から駅に向かって三つ目の信号を渡った左側の大きな家、なお美ちゃんは知ってる」

「立派な塀の家でしょ」

「聞こえるの、私の声が」

「何言ってるの、変なママ。そうなの、あの家の割烹着のおばあさんが病院へ行きなさいって初めて声を掛けてくれたの。私驚いちゃってろくに返事もしなかったんだけど気になって叔母ちゃんと来たんだよ。そしたらママが」

なお美の大きな目にみるみる泪が溜って落ちた。私も泣けた。つられて泣いた。

絶対に泣いていた。

なのに、目尻から耳に伝う生温かい感触が、ない。二十年も寝たきりだから感覚が鈍っているんだと思ったけど自分が泣いているのが分かったのは、なお美の話で涙する自分の姿を見下ろしていたからだと分かった。

私って寝たきりだよね、そうだよ、ほらっなお美の話を聞いているじゃないベッドで。

どうしてそれを見ているの、いったい私は誰なの、どこにいるのが私なの、ベッドの私はだれなの、あっちが私なら見ている私は私じゃないの。あれっ、何か聞こえてきた。あっ知ってるこの音。あの音だ。

竹箒でサッサッと掃く音だ。

「なっちゃん、なっちゃん」

「おかあさん」

目を覚ますと、私はまた病室にいた。

「なお美は」

「だれ、それ」

「優茉は」

「優茉ってだれ、なお美さんのお友達かしら」

妹の優茉だよってお母さんに言おうとした顔が若かった。写真で知ってるお母さんよりずいぶん若かった。

「おかあさん」

伸ばした手の指が細くて小さかった。

「おかあさん、私って今いくつ」

「どうしたの、六歳でしょ」

指の先が肌掛け布団に触れた。濡れている。

なお美ちゃんの泪に違いない。

私は冷静に考えた。

夢なのか、時間は経過しているのか、母親は生存しているのか、妹や私の娘は居るのか。

一つだけ確かな事が分かった。

記憶の中で一人だけ変わらない存在。今井さんのおばあさん。

「ねえおかあさん、外に行きたい」

窓のない白い部屋の壁におかあさんが顔を向けた。私もそっちを向くと白い壁がさわさわと揺れ始めた。あっ雲が流れている。また聞こえてきた。

サッサッと庭を掃く音。

ああ、音に吸い込まれる。目をつむって記憶が飛ばないように手を握って力をいれた。ベッドの固さを背中で感じながら。

庭を掃く音が止んだ。目を開けると、今井さんの家の鉄の門扉の前に居た。手を見ると大人の手だった。

「こんにちは」

おばあさんに声を掛けた。

「お久しぶりです」

もう一度声を掛けた。

「なお美が今朝病院へ行くように」

おばあさんが顔を向けた。いつか見た時のように、私の後ろに焦点が合っていた。

きっと後ろにたくさんの私が並んでいるんだ。

今を同時にそれぞれに過ごす私がいるんだ。

「見えますか」

思い切って訊いてみた。聞きながら鉄の門扉に手を掛けた。

「痛い」

掌が焼けるように熱かった。いや逆だ。冷え切った鉄に指が引っ付いた。痛い。身体の熱が奪われていく。指の先から鉄の門扉に吸い込まれて重く冷たくなった私は固いベッドの上で白い部屋の壁を見ていた。

「手」

両手を肌掛け布団の上に出していた私が、釣り上げた川魚のようにビクンとベッドで跳ねて自分の手を見ている私が見えた。

掌は赤黒く焼けただれている。今井さんの鉄の門扉の色。やっぱりさっき行っていたんだ。ずっと病院にいる訳じゃないんだ。

そうか、ここが病院だって思っているのはお母さんに言われたからだけど、お母さんはどこにいるの。

「なっちゃん、なっちゃん」

あれっお母さんの声と違う。

私を呼んでるこの声って、もしかして。

私は枕元にいるその人が私をのぞき込んでいる様子を見降ろしていた。

そういう事か。

ずっとそうだったんだ。

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