設定としては、小説の作中人物が残した走り書き、とされています。でも評者は小説を読まず本作から読み始めました。大丈夫でした。きちんと独立した作品になっています。
ある一編にて、世界への嫌悪感が言明されています。そしてトーンは最後まで一貫しています。
八編を貫くのは、人々に共有されている安寧への希望に対する疑義です。
幸せになれたら。楽になれたら。その希望に常に疑義を抱く。それは精神的に体力が必要で、私たちはつい怠けてしまうのですが、作中人物は、いや、作者は、その態度を持ち続けます。
その行く末が、ありきたりな虚無に陥るのか、何かを結実させるのか。八編で完結した今では、それは分かりません。でも、のほほんと生きている人間(例えば評者)にとっては、出発点を示すだけでも意味のあることです。
[訂正]
「八編で完結した今では」と書きましたが、作者に完結したとの意図は無かったとのことです。現在も新規の節が追加されています。
この文章全体に触れてレビューをするのはとても不可能なことだと感じましたので一部分についてレビューさせて頂きたいと思います。
なぜならばもし部分的にでも理解してレビューできるとしたらそれはわたしではないだろうかと自負し、わたしがまず最初にレビューに挑まなければ他の方は評価はできてもレビューすることがとても困難だろうと思ったからです。
当然ながらこの文章を書かれた詩一さんこそが最も深い思索と人生の実践とを踏まえておられるのであって、わたしのレビューはわたし自身の浅瀬での理解でしかないということをまずお断りいたします。
わたしの触れたい一部分、それは、「誰かの不幸を知ること」という箇所です。
この部分が含まれる一節にわたしは慰められる思いすらしました。
誰かの不幸を知ってスルーできるひと、いてもたってもいられなくなるひと。
そしてわたしはこの「虚構の中の真実」というとても不思議な文章が不幸を引き受けるタイプのひとたちを救うかもしれないという希望を持ちました。
その期待はこの文章が含まれるであろう小説に対する期待ともなります。
わたしはその小説をもとても楽しみにしています。