終章
終章
佐藤敬は、いつも通りの患者の診察を続けていた。あれから、須藤有希という人は来なくなった。まあ確かに、彼女を診察する必要はもうなくなったのであるけれど、それではなんだか、ぽっかりと穴が開いてしまったような、、、。そんな気がしてしまうのであった。患者さんにも、先生、何かあったんですか?なんて言われてしまうほど。患者たちは、何だか佐藤先生、気合がなくなってしまったようだといった。また別の患者、特に高齢の患者たちは、佐藤先生は、なんだか優しくなったねと言い合った。きっと敬の心の中にある、気力や意気が、なくなってしまったから、そういうことになったのだろう。
その日も、佐藤敬は、診察に従事していたが、今日は、高齢のおばあさんが、診察にやってきていた。
「今日は、どうしましたか?」
と、敬が聞くと、
「ええ、なんとなく、頭が痛くて。娘からは、年のせいだと言われているんですが、私も年ですし、もうこうなってしまっても仕方ないですかね。」
いつもの敬であれば、それで結構ですよと言ってしまうと思う。でも、今回は、そういうことはしたくなかった。
「わかりました。では、血液検査をいたしましょう。」
と、にこりと笑って言う。
「じゃあ、採血しますから、お隣の部屋に入っていただけますか。」
おばあさんは、敬の態度が変わってしまったのをびっくりしてしまったようだ。敬はそれを無視して、
「はい、じゃあ、伊藤さんの血液検査をお願いします。」
と、敬は、にこやかに言って、おばあさんを隣の処置室へ案内した。
「先生。」
処置室に行きながらおばあさんは、そういう。
「先生変わりましたねえ。以前は、鬼みたいに怖くて、この病院に来るのをためらっていたのに、今は、そうしてにこやかにやっていただけるから、怖いと思わなくなりました。あ、失礼。ほかの患者さんもいますよね。それでは、失礼いたします。」
「そうですね。」
敬は、おばあさんの一言に、其れしか言えないで、おばあさんを見送った
「増田さん、増田たか子さん。」
と、敬は、次の患者さんを呼ぶ。彼女も、80を超えたおばあさんであったが、やっぱり、おばあさんらしく、医学的には根拠がなくても、体が痛いとか、息が苦しいとか、そういう事を言うのだった。以前の敬であれば、そういう話はあとにしてくれとか、そういうことを言ったはずだ。でも、今日は、それをいうことはなく、静かに彼女の話を聞く。場合によっては、あまりにも体の症状がひどい場合は、別の科を紹介するからと、にこやかに笑って言うのだった。そういうときも、にこやかに笑って話す敬を、増田たか子さんは、うれしそうな表情で見ていた。
「先生、ありがとうございます。先生がそうやって、親身になって、聞いてくれるから、私は、不自由なところがあっても、ちゃんと生きていかれます。先生が紹介してくれた病院も、きっといい所でしょう。だって、先生が紹介してくれたんだから。」
「わかりました。じゃあ、気を付けて紹介しなければいけませんね。適当に、他の科に回すわけには行きません。」
と、敬は、にこやかに笑って、紹介状を書いた。その時も、彼女の訴えを忘れないように、しっかりと書いておいたのであった。
「それでは、受付に紹介状をお渡ししておきますから、会計の時にそれをもらって帰ってください。よろしくお願いします。」
敬は、そういって、彼女にもう部屋から出てもいいと、促した。患者のおばあさんは、にこやかに笑って、一礼し、新しい病院を楽しみにしていると言って、部屋を出ていった。
そういうわけで、患者からの佐藤敬の評判は良かったが、敬自身の心の中では、何か腑に落ちないものがあるのだった。みんな優しい顔をしてうれしいと言ってくれるけれど、本当の心の中では、元の自分でいたいと思うのである。それでは、いけないと思うけど、あの時の冷たい佐藤敬でいた方が、自分らしくいられるような気がするのだった。
なんで、自分は、病気でもない高齢者に、血液検査を指示したり、精神科などを紹介したりしなければならないんだろうか。本当は、大学病院かなんかで、もっと大きな病気のひとを治療したり、何なりして、もっと活躍できるはずだったのに。以前働いていた、大病院が、別の病院に買収させてしまってから、其れからの日々はまさしく最悪だった。なんで、病院に勤めていながら、自分は、ただの平医者としてしか見られなかったんだろうか。だって、あの時の検査は正確だったじゃないか。
いまでもあの時のことは覚えている。確か、急患で、若い男性が運ばれてきたのだった。大量に出血していて、輸血が必要ということが分かった。なので看護師が、病院に備蓄されている血液を取りにいったのであるが、同時に、富士市の市議会議員も、運ばれたのであった。彼も、輸血が必要だったので、備蓄していた血液はもう空っぽになってしまった。敬は、市議会議員のほうが優先だからと言って、その若い男性のほうは後回しにしろと指示を出した。それは、今でも間違いではないと思う。だって、市議会のひとは、富士市のために働いているじゃないか。どこの馬の骨かわからない男何て後でいい、と敬はそう思っていたのだ。ところが、その若い男性の遺族が、敬たちを告訴してきたのだ。今の時代は、誰でも弁護士を雇って、自由に損害賠償を請求することができる時代なのだ。弁護士だって、誰かに役目をもらえば、喜んでそういうことをやるだろうし、、、。もうそれくらい、豊かな時代になっていて、患者が泣き寝入りするなんてことは、ない時代なのである。病院は、その責任を
とって、別の病院に買収されることになった。その責任を取って敬も辞めさせられた。医師として、誰も知っている人がいない、富士市というところにやってきて、クリニックを開業した。そして、多くのひとを診察して、テレビにも出て、一気に有名人に返り咲いたと思ったのだが、、、。また、例の何も意味のない年寄りの相手になることになっている。
敬は、大分人数の減った患者さんを相手にし終わって、雇っている看護師たちにまあ、今日もありがとうなと言って、クリニックから帰る支度をした。敬は、とりあえず、カバンを持って、じゃあ、又明日ね、と言って、クリニックの正面玄関をくぐっていく。
久しぶりにバスにのって帰ることにした。最近は、バスを使うこともなく、歩いていくことが多かった。どうせ一時間に一本しかないバスを待っていても、時間の無駄だと思っていたから。でも、その日はなぜか、そのバスに乗っていこうかと思ってしまったのである。なぜか知らないけど、その日は五分ほど待って、バスがやってきた。敬は、何か懐かしいなと思いながら、バスに乗り込んだ。バスは帰り時刻だったのか、えらく混んでいた。
「それでは、発車します。お立ちのお客様は、手すりや吊革におつかまりください。」
と車内アナウンスが流れたと同時に、バスは走り出した。敬は、座席には座れなかったので、運賃箱の近くの手すりにつかまった。運転手が、中年のおじさんではなく、若い女性の運転手であり、まだ新人だったのだろうか。何だかバスは、フウラフウラと動いて、安定しなかった。敬は、一寸酔いそうだなと思っていたその時。
「まもなく、菜の花橋、菜の花橋でございます。お降りの方は、押し釦でお伝えください。」
と、車内アナウンスが流れる。敬ははっとした。バス酔いのせいもあり、思わず押し釦を押してしまった。バスは、菜の花橋停留所に停車する。敬は、急いで、へたくそな運転手に運賃を払い、バスを降りていった。
「有希さんは、ここに住んでいるのか。」
と、敬は、一つつぶやいた。でもどのうちに住んでいるのかまではわからない。なんだか、信じられないほど田舎町だった。周りは、田んぼばかりで、そのバス停がなかったら、一人で外出何てできない可能性もある。そのような所に住んでいながら、なぜ彼女はあそこまで妖艶な女性を演じることができたんだろうか。なんだか、彼女に負けたと思っていたけど、こんなところに住んでいるのであれば、なんだか彼女は、ただの田舎娘としか見えないのである。あの須藤有希は、何も大したことはないのか。敬は、なぜか知らないけれど、人の出身地でどういうひとなのか見てしまう癖があった。たとえば高校とか大学とか、そういうところで。きっと須藤有希という人は、こんな田舎町に住んでいるのだから、きっと知能的にはさほど高くないだろう。なら、いきなり彼女の家に押しかけてもいいのではないか、と敬は、はははとわらった。
きっと須藤有希は、このバス停の近くに住んでいるに違いない。そうすれば、今までひどい目に会ったことを、挽回できるかもしれない。
多分、この辺に住んでいる誰かに聞けば、須藤有希という人がどこに住んでいるか、わかるだろう。
ふと、向こうから、一人の女性が歩いてきた。彼女は、有希のような、美女ではなかった。ああいう目鼻立ちが整った顔立ちをしていない。まあ、一般的な、女性というか、そういう女性である。別にい彼女に対して、性的に興奮するとか、そういうことはない。まあ、彼女に尋ねてみよう、と敬は思って、彼女にこう聞いてみる。
「あの、君君、須藤有希さんという方は、どのあたりに住んでいるのか教えてくれるかな?」
「ええ、須藤有希さんは、ここから壱キロメートル弱ほど離れたと所に住んでいます。」
と、彼女は答えた。
「なるほどね。それでは、彼女の家に行くのに、どうやって行ったらいいのか教えて下さい。」
と、敬が聞くと、
「わかりました。では有希さんの家にはなぜ行くのですか?」
と女性は言った。
「なぜ行くってそれは、、、。」
敬が口ごもると、彼女は表情が変わった。
「あなた、有希さんに何をしに行くつもりなんですか?有希さんは、普通のひとじゃありません。とても、繊細で、優しい人です。そういう彼女ですから、簡単に男のひとに騙されたり、そういうことは、何度もあります。だから私、有希さんに簡単に人に会わせるわけにはいきません。」
「はあ、君は須藤有希さんの訪問看護人とか、何かですか?それとも、親戚とか兄弟とか?なんだかその顔じゃ、有希さんの親類にしてはちょっと、雰囲気が違うように見えるけど?」
と、敬は、彼女に言った。彼女はそれを待っていたかのように、こういった。
「ええ、私は、今西由紀子。有希さんの親戚でも、看護人でもなんでもありません。ただ、有希さんは私の大事な親友であることに、疑いはありません。あなた、佐藤敬先生ですよね。先生のことは有希さんから聞きました。平気で人に対して、バカにしたり、ひどいことをする、変な医者だって。有希さんは、あなたのことをそう話していましたわ。さんざんひどいことをされたのに、何も謝罪の言葉もないって。」
敬は、由紀子にそういうことを言われて、自分のことはそういわれたとしても、何も平気な顔で、彼女をじっと見ていた。目の前にいる女性は、有希のようなものは何もない。だから、彼女に会った時のような感情は抱かなかった。
「そうなんだ、じゃあ、今西由紀子さん、あなたはどうして、有希さんをそんなにかばうのですか。それでは、何か大きなご恩でももらってたのですか?」
敬は、由紀子に聞くと、
「彼女は、大事な親友です。だから、彼女に、あなたを会わせるわけにはいきません。有希さんは、あなたが思っているような、ひどい人じゃありませんから。有希さんは大事な人なんです。ましてや、あなたは、有希さんに、ひどいことした張本人ですよね。そんな人に、会わせるわけにはいきません!」
「まあまあ一寸待ってくれよ。」
と敬は、由紀子に言った。
「僕は別に、君に対して何かしようとか、そういうことを思っているわけじゃないんだ。其れよりも、須藤有希さんは、どこに住んでいるかさえ教えてもらえばいいんだよ。君も、根拠がない言いがかりをつけるのはやめた方がいい。もし、君の意志に反してそういうことを言うのだったら、何か悪いところがあるのかもしれないから、医者として、何かしてもいいよ。」
「なるほど、何かしてもいい、ですか。」
と、由紀子は、敬をバカにするように言った。彼女は、有希のような妖艶な女性ではなかったので、敬は、由紀子にそういわれてもまったく怒らなかったのであるが、由紀子は怒りを込めてこう言った。
「あなた、医者であるからと言って、なんでもできるかというとそんなことはないわ。私の大事な人を、あなた、助けてくださらなかったじゃないですか!」
「大事な人って誰かなあ。医者として、患者さんは大事に見ているつもりだよ。其れは、医者であるからその通りにしなくちゃね。それは、どの医者もそうさ。」
「そうかしら!」
敬は、そう返答すると、由紀子は強く言った。
「そんなこと、絶対ないわ。あなたは、医療の知識は持っているのかもしれないけど、人としてはまるでだめよ!医者としては、開業医でそれなりに収入もあって、テレビにまで出られるんでしょうけど、あたしは、医療従事者というのは、誰でも彼でも関係なく扱える人のことを言うんだと思う。アルベルト・シュバイツァーだってそうだったじゃないの。その人と、おんなじことやっているんだったら、あなたはまるで失格よ!」
「はあ、何を言いだすのかと思ったら、君はそういうことを言いだすんだね。僕が患者を適当に扱ったと言いたいようだけど、それはどこのだれをそういう風にしたのかな?ちょっと教えてもらいたいものだな。」
敬がそういうと由紀子は、
「じゃあなぜ、磯野水穂さんには、ああいう冷たい態度をとって、診察してくださらなかったんですか?誰でも平等に、診察したり治療したりするのが医者というものではないの?」
と、言ったのであった。
「先生は、誰に対しても治療を施してくれる人だと、思っていました。でもそういうことじゃないってことが、私やっとわかりましたよ。もし、私が、医療が必要になったら、人を選ぶ先生のところには、行きませんから!」
これが自分ではなくて、有希さんのような妖艶な、なまめかしい雰囲気を持った女性だったら、きっと敬の反応は違っていたと思う。敬は、由紀子が幾ら一生懸命言ったとしても、何も印象に残らないどころか、頭の片隅にも残してくれないんだと思った。
「とにかく、須藤有希さんは、先生が思っているほど、強い人ではないんです。だからもし何か彼女に
言いたいことがあれば、私が代理で伺います。そうしてください!」
「はあ、君に代理で言ったとしても、きっと何もないだろうね。それでは僕の話もここまでにしよう。君だってどうせ、こんなところに住んでいるからには、大したこともない人間だろう。まあ、せいぜい
有希さんのそばにいさせてもらえることを喜ぶことだね!」
敬は、もうあきれてしまって、由紀子にそういう言葉を言い残し、去っていった。きっと須藤有希も、今西由紀子も大した女性ではないのだ。どうせ、この二人に、何もすごいことができるはずもない。まあ、いまのは、ちょっとした女のいたずらだ。その程度にしておこうと感じながら。
敬が、どういうことを思っているのか、まったくわからないままであったが、由紀子はその姿を黙って見送った。そして、彼女自身は、踵を返して、製鉄所に向かって、歩いていったのであった。
「こんにちは。」
とりあえず、由紀子はインターフォンのない、製鉄所の玄関から声をかける。返事を待っていると、
「いま手が離せないの、上がってきてくれる?」
と、有希の声が、聞こえてきたので、由紀子はお邪魔しますと言って、玄関から中に入り、四畳半へ向かった。何をやっているのかと思ったら、いつも通り、有希と五郎さんが、水穂さんにご飯をたべさせようと、奮戦力投している所だったのである。
「ほら、しっかり最後まで食べて。途中で残すなんて、食べ物にも、作った人にも失礼だから。」
ということを言っている以上、また水穂さんは、食事ができないでいるんだろう。
「そ、んな、こと、いっ、た、ら、か、わい、そうで、すよ。もっと、ほ、か、の言葉を、なげ、か、けなきゃ。」
と、五郎さんが、そういうことを言ってなだめているが、
「食べないと力がつかないわよ。ほら、食べることが商売だと思って、最後まで食べて。」
有希は、相変わらず、水穂さんの口元にご飯の入ったおさじを持っていくが、水穂さんはそれを受け付けてくれないのだった。
「がん、ばっ、て、た、べて、く、ださ、い。食べも、の、は、栄養が、たくさん、あって。今日は、み、ず、ほさんの、す、すきな、納豆じゃ、な、いですか。有希さ、んから、聞きました、よ。みず、ほさんは、納豆、が、だいす、きだって。」
五郎さんは一生懸命水穂さんを励ましている。由紀子は、五郎さんの隣に座った。有希から、おさじを受け取って、
「水穂さん、ほら、せっかくの納豆だもの、おいしくいただきましょ。せっかく、有希さんたちが作ってくれたんだもの、頑張って食べましょ。」
と、にこやかに笑って、おさじを口元にもっていった。水穂さんはそれをやっと口に入れてくれた。由紀子はこれを成し遂げて、やっとあの、佐藤敬という人物に勝てたような気がした。銘仙の着物を着ているからと言ってやっぱり、差別的に扱うのはいけないことである。其れよりも、人間として、見てあげなくちゃ。私はそれができるんだもの、あの佐藤敬にはできないことも、ちゃんとやっているんだ。
有希さんや、五郎さんのしてくれたこともすごいけど、自分にもできることはちゃんとあるんだということを、由紀子は、改めて知ることができたという気持ちで、水穂さんにご飯をたべさせるのであった。
その日は、良い天気だった。もう十五夜が近づいているせいか、夜になっても星が静かに静かに瞬いて、小さな月が、由紀子たちを祝福するように、夜空に現れていた。月は、誰にでも、優しい光という言葉そのもののように、静かに照らしているのだった。
The 銘仙 増田朋美 @masubuchi4996
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