第四章
第四章
その日も、穏やかな夕方であった。秋は夕暮れというが、まさしく夕暮れの時間帯が、一番感慨深くなる季節である。のんびりした夕暮れ。それをたのしんでいるのは、人間だけではない。犬や猫などの動物も、そして鳥たちや虫たちも、ゆったりとした秋の夕暮れをたのしんでいるのだった。
その中で、製鉄所では、久々に、ゆっくりとした夕方を迎えられた。今日は、久しぶりに水穂さんが、静かに晩御飯をたべることができたのだ。
「今日はよく食べるわねえ。今日食べられるんだったら、明日も明後日も、ちゃんと食べてよ。」
と、有希が、水穂さんの口もとに、おかゆの入ったおさじを持っていく。水穂さんは、それをしっかりと口にして、吐き出すことなく食べた。
「よかったあ。完食じゃない。この調子で、明日もちゃんと食べて。明日は、白がゆはやめて、わかめのおかゆにしてみようかなあ。あ、もちろん、肉魚は一切入れないから、大丈夫。心配しないでね。」
有希は、にこやかに笑って、そういうことを言うのだった。それを、五郎さんが、心配そうに見ている。
「何か、リクエストあるんだったら、受け付けるわよ。わかめのおかゆ以外、食べたいものがあるんだったら、どんどん言ってちょうだいね。あ、其れよりも何か言ってくれた方が良いわよ。リクエスト、何かある?」
「ありません。」
有希がそういうと、水穂さんはそういった。
「なんで?そんなつまらない答えじゃなくて、何か言ってくれるとありがたいんだけどなあ。ねえ、本当に何もないの?」
水穂さんは少しかんがえて、
「いや、ごめんなさい。何も思いつかなくて。」
と言った。有希はつまらない顔をして、
「それでは、明日の晩御飯は、何かリクエストしてちょうだい。そのほうが、作る側だって、やりがいがあるのよ。何も言わないで食べるだけってのが一番つらいの。食べる側と作る側の意図が通じ合うような、そういう関係になれば理想よね。」
とにこやかに笑った。有希が、お皿を片付けてくるからと言って、立ち上がろうとすると、
「今晩は。」
と玄関の戸がガラッと開く音がして、今西由紀子が製鉄所にやってきた。お邪魔しますと言って、由紀子は、四畳半へ直行する。
「ああ、由紀子さん。このところ毎日こっちへ来てくれるから、うれしいわ。今日ね、水穂さん、夕食のおかゆを全部食べてくれたのよ。と言っても、ただの白がゆだけど、今日は、吐き出さずにちゃんと、完食してくれた。ちゃんと食べてくれてうれしかったわ。今日は眠らないで、いま起きてるわよ。少し話もできるかも。私は、お皿を片付けてくるから、一寸お話してもいいんじゃないかしら。」
ふすまを開けた由紀子に、有希は、にこやかに笑って言った。確かに、有希の足元に置かれている器には、白いご飯粒が付いていたので、おかゆが入っていたと分かった。隣にはスプーンもあるので、おかゆをたべたんだなということはわかる。有希は器をもって、では、ごめん遊ばせと言って、四畳半を出ていった。
「具合どう?」
由紀子は、水穂さんに聞いた。確かに、眠ってはおらず、ちゃんと目を開けている。
「かわりありません。」
と、水穂さんは答えた。
「変わりありません、か。変わらないということは、良かったと解釈していいのかしら?」
と由紀子は水穂さんに聞く。水穂さんは黙っていて答えなかった。
「有希さんに作ってもらった、白がゆ、よほどおいしかったようね。」
と、由紀子がそういうと、水穂さんは、一言ええ、とだけ言った。
「まあ、それならいいわ。私は、そういうことはできないし。有希さんは、お料理も上手なのね。私なんて、変なレトルト食品ばっかりだからなあ。」
由紀子は、はあとため息をついて言った。確かに自分が食べているものなんて、コンビニの弁当とか、出来合いのレトルト食品ばかりである。体に悪いというのはわかっているけれど、なんだか駅員の仕事から帰ってくると、もう食べるなんて後回しにしてしまうのだ。幾ら適材適所という言葉があったとしても、容姿もきれいで、料理が上手な有希には、自分は敵わないと思ってしまった。
「ま、まあ、いいじゃ、ない、ですか。由紀子さ、んには、でき、ること、だって、ありますよ。」
と、五郎さんが由紀子を励ましてくれた。でも、由紀子はそんな励ましも届かないような気がしたのである。水穂さんも何か言おうとしたが、その代わりせき込んで返事をした。
「すぐに、く、すり、飲みますか。」
五郎さんが、急いで水穂さんの口元に、吸い飲みをもっていって、中身を飲ませる。中身を飲み終わると、薬には、非常に強い眠気を催す成分があったのだろうか。水穂さんは、静かに眠ってしまった。ちょうどその時、有希が、お皿を洗い終わって、戻って来た。
「はあ、最近は水も冷たくなってきたわねえ。もう季節は確実に進んでるわね。はあ、何だか季節が正常に進んでくれると、安心するわ。ほんと、今年はわけのわからないことばっかりだから。せめて季節くらいは、正常に働いてもらえるように、動いてもらいたいわね。」
有希は水穂さんに向かって話しかけていたようであるが、
「あら、眠っちゃったの?」
と水穂さんの顔を見ていった。
「ええ、またせき込み始めたから。」
由紀子がそういうと、
「ああなるほどね。良かったよかった。それではよく眠ってくれればそれで助かるわ。まあ、多分、薬は強力だから、朝になるまで、起きないでしょ。」
と、有希はからりと言った。
「まあ、いいわ。昨日、すごいこと見つけちゃった。いよいよ、潜入捜査も大詰めかしら。あの、佐藤敬っていう医者の弱点を、あたし、見抜いてやったのよ。」
「見抜いたって何を?」
由紀子は、急いでいった。
「ええ、あの佐藤敬は、以前、水穂さんのような身分のひととつきあっていたんですって。しかも、婚約者がいるのを前提でよ。そして、その婚約者と結婚することになって、その女性と別れることになったら、その女性から、塩酸をぶっかけられたことが在るって、話してたわ。ねえ、大収穫じゃないの。水穂さんのことを、手当てしてあげなかった、原因がやっとわかったわ。そういうことだったのね。まあ、きっとそれが今の奥さん何でしょうけど、奥さんがいておきながら、そういう身分の女性と付き合ってて、しかもそれに、塩酸までかけられるっていう過去があったとばらしてしまえば、もう一気にうわさが広まって、もうここにはいられないわよ、きっと!」
由紀子の問いかけに、有希は早口に答えた。それはまさしく得意絶頂という感じで、由紀子は、なんだか、有希にもう歯が立たないというかそういう気がしてしまったのである。
「で、ゆ、ゆき、さんは、それを、知って、ど、うする、るつもり、で、すか?」
五郎さんが、有希に聞いた。
「ええ、もちろん、週刊誌かどっかにこのネタを送ってしまおうかと考えているの。週刊誌は、大騒ぎするわよ。あれほど人気の医者が、そういう過去を持っていたというんだったら、もう黙っちゃいないわよ。怒涛の如く、押し寄せてきて、佐藤敬はたちまち、富士市医師会から更迭ね!週刊誌というのは、こういうスキャンダラスなネタが大好きだから!」
と、有希は一寸、妖艶な感じで、そういうことを言った。それは、五郎さんもびっくりしたし、同じ女である由紀子もびっくりしてしまった。有希さんはどうしてそんなことができたのだろうか。
「有希さん、でも、有希さんがその話をもっていっても、果たして取り上げてくれるのかしら。ただのがせねたとして、処理されてしまうのではないの?」
と由紀子は、そういうが有希はすぐに、
「そうかしら?」
と、言った。
「マスコミって、面白いことを取り上げると思うけど?一寸でも、面白いと思ったらきっと、取材に来るに決まっている。それに、近所のおばちゃんたちの力は、ものすごいものよ。それほど、ああいうひとたちの噂話はすごいものだからね。私、経験で知ってるの。うちの家だって、そういう人たちのおかげで、村八分になった経験しているんだから!」
「有希さん、、、。」
五郎さんは、有希に何か言おうとしたが、それ以上は詰まってしまって言えなかったようである。
「大丈夫。人のうわさの怖さなんて、私、ちゃんと知ってるし、それでつぶれたこともある被害者の一人だからね。そうなる手口だって、ちゃんと知ってるわよ。それを駆使して、私は、うまいことやってやるわ。どうせね、私の事、まともに見てくれる人なんて、どこにも、いないわよ。ただの、精神がおかしくなった、変な奴しか見ないわよ。だから、初めから終わりまでちゃんとやる。其れだけはちゃんと知っているから!」
有希はきっぱりといった。
「この事実、私はしっかりと、週刊誌に投稿してやったのよ。きっと私のところにも取材が来るでしょうけど、私は、ちゃんと、答えるから、心配しないで頂戴ね。」
「そんなことまでやれちゃうなんて、有希さんはすごいわね。」
有希が、そういうのを見て、由紀子はもし、水穂さんが目を覚ましていたら、なんていうだろうかと思った。水穂さんはきっと、自分のせいでそんなことはしないでほしいというに違いない。でも、なぜか、あの佐藤敬という医者を許すということはできなかった。できることなら、有希に、復讐を完遂してほしいという気持ちもあった。
その数日後。なんとなく、吉原駅に置かれていた、週刊誌を広げた由紀子は、目の玉が二つ飛び出したほど驚いた。
「人気医師の闇の素顔、患者の診察を拒否?」
という見出しの記事が載せられていたからである。その記事には、佐藤クリニックの写真が写っており、佐藤敬が、婚約者がありながら、貧しい女性と不倫していたという記事が、赤裸々に描かれていた。あの、テレビに出ている人気医師が、その女性すら救えなかったという社説もしっかり載っている。幸い、その記事を誰が提供したのかは、なにも書いていなかったが、本当に有希のもとへ取材が来るのではないかと思わせるほど、記事は具体的に書かれていた。日本の報道機関も、暇なものだ。こういう風に、人気医師のスキャンダルと堂々と描くのだから。まあきっと、日本はもっと哲学的なことを報道すればいいのにという、評論家も少なくないと思うのだが、、、。
「うまくやったわね。」
製鉄所で有希は、水穂さんのおかゆをつくりながら、そういうことを言った。
「有希さん、報道機関にそれを流して、何も怖くなかったんですか?」
と由紀子は、手際よくご飯を煮ている有希を眺めながら、彼女にそういう事を言う。
「ええ、怖くありませんでした。だって私、一度社会からつまはじきにされてるし。週刊誌にはメールで送っただけじゃないの。週刊誌の記者さんと、一寸打ち合わせしたのよね。まあ、正直に言ったわよ。あの佐藤敬先生は、絶対良い医者じゃありません、ただの、医者の恰好をした、悪人だってね。」
ということは、有希さんは、週刊誌の記者さんと、関係を持ったということだろうか?でも、有希さんならやりかねないことだと思った。
「社会から外されるとね、確かに悲しいわよ。でも、それは、おわりと考えるか、チャンスと考えるか、は、自分次第よね。あたしは、どっちかと言えば後者の方かな。つまはじきにされたんだったら、もう、世の中の基準に自分を合わせなくてもいいかなと。」
「そうなのね、、、。」
由紀子は、はあとため息をついた。
「そういう風に考えることもできるのね。」
「そうよ。それに私、犯罪者ではないし。誰かを殺したとか、けがをさせたとかそういうことではないし。でも、社会からはいらないものとされている。では、どうしたらいいか。社会で不正を働いている人を成敗すること、それが私の立場なんじゃないかなあと思ったわ。」
有希は、おかゆをかき回しながら、そういうことを言った。
「さ、熱いうちに水穂さんに食べさせましょう。今まで何もリクエストしてくれてないから、私が勝手に決めているけど、せめて食べるんだったら、何を食べたいのか、言ってもらえないものかしら。」
有希が言うように、水穂さんは、今まで何を食べたいか、何も言ってくれないのだった。それが有希も由紀子も気になるところである。
「いつもいつも、食べるものは同じ白がゆだし。そうじゃなくて、もっとバラエティに富んだものをつくらせてもらえないかしらね。ダウンロードしたレシピが無駄になっちゃうわ。」
有希がいつも気にしているのはそこだった。確かに水穂さんが食べるものは、いつもいつも同じもの。それでは確かに、作る側としては、つまらないと思ってしまうけれど。
有希が、器に白がゆを入れて、水穂さんの部屋にもっていこうとすると、
「あの、有希さん。」
と、五郎さんが、有希の前に現れた。
「どうしたの?」
有希が驚いてそういうと、
「あの、ちょっ、と、おは、なし、がある、のですが。」
と五郎さんはいつも通り、おかしなイントネーションと、変なところで言葉を切りながらそういうことを言った。
「話って何よ。これから、水穂さんにご飯食べさせるから、手短にして頂戴。」
有希が言うと、
「お、ねがい、です。これ以上、佐藤、せんせ、いに、復讐、す、るのは、止めて、くだ、さい。」
つまり、これ以上佐藤先生に復讐するのはやめてくれということだ。有希は、そんなことを言われても、何も表情も変えずにこう切り出した。
「やめってって、あたしは何もしてないわよ。だって、悪いのは私のせいではなくて、あの佐藤敬でしょ。あの佐藤敬が、水穂さんのことを差別したから、それと同じことをして、仕返ししてやっただけよ!それは水穂さんのためじゃない!だって、佐藤敬がしたことは、何も正しいことじゃないわよ。どう見ても間違いなのよ!理由はただ一つ、水穂さんが銘仙の着物きていたから?そんなことで、差別するような、あの医者が悪いのよ!それが何だっていうの!」
「有希さん。」
と、五郎さんは、静かに言った。
「そう、か、も、しれ、ない、ですけ、ど、本当に、もう、これ、以上、復讐、する、のは、止めて、ください。」
「何を言っているの。五郎さんは。男らしくないわねえ。男なら、そういう事だってやり遂げちゃうもんだけど?本来なら、そういうことを、男であるあなたが、やり遂げるべきじゃないの!本来だったら、水穂さんだって、男らしく怒ってもいいのよ!銘仙の着物をきているから、だからなに?具合が
悪いから見てくれ!って怒鳴ってもよかったの!いいえ、そうするべきだったのよ!それなのに、男っておかしいわね。自分の立場とか、地位とかそういうものに妙に拘ってしまうものなのよね。それで、結局、大事な所で話ができなくなっちゃうじゃない。其れなら、私が代理でやってやってもいいわ。それだけの事。ほんとにそれだけの事よ!全くいやになるわね!」
「ゆ、き、さんが、怖い、人間、に、なっていく、の、を、僕、は、見た、く、な、い、んで、す。」
五郎さんはそういう有希に、静かだけれど一寸強く言った。
「ぼ、くは、有希さん、に、有希さん、の、ま、ま、でいてほしい。有希、さんに、復讐、鬼、に、なって、も、らいたく、あり、ません。有希、さん、は、有希、さん、の、ま、ま、でいて、くれませんか。せんさ、い、で、やさ、しくて、綺麗な、有希さん、そ、のまま、で、いて、ほ、しい。ぼ、くは、ゆ、き、さん、そのままが、一、番、いい。どうか、その、まま、の、有希、さん、を、わ、すれないで、ください。」
「そんなこと言うべきじゃないのよ。だって、悪い人をやっつけるのは、いけないことじゃないでしょ。それは、どこの世界でもおんなじよ。あたしは、そう思って、あの佐藤敬っていう医者に、接しているだけ、それだけの事よ。」
有希は、そういうことを言いながら、そこをどいて、といったが、五郎さんは、そうしなかった。
「い、い、え、それは、本当の、有希、さん、ではありません。有希、さんは、もっと、いろんな、事に、過敏、すぎ、るくらい、過敏で、何かあ、ると、泣いて、そうやって、悲しむ、事が、出来る、のが、有希、さんだ、と、思うんで、す。悲しむ、こと、が、出来る、のは、素晴らしい、こと、です。それが、復讐、に、よっ、て、なくなって、し、まう、事は、それは、本当に、かなし、いこと、ですから。それを、なくさないで、欲し、いんです。僕は、有希、さんが、す、き、だか、ら。それに、い、つ、わり、は、何もあ、りません。」
五郎さんは、一言一言、切るように言った。
「五郎さん、あなた、そんなに私の事?」
有希がそう聞くと、五郎さんは、
「はい、もう、少し、りゅ、う、ちょ、う、に、しゃ、べ、れ、た、ら、い、い、のに。」
そう切るように言った。
「ご、め、ん、な、さい。そ、れ、で、は。」
有希が黙ったまま返事をかんがえていると、四畳半から、またせき込む声がして、五郎さんは急いで四畳半に戻っていった。有希は、急いで、五郎さんの後をついていく。まるでご飯どころではなくなってしまったほどの、せき込み方だった。有希も五郎さんも、先ほどの、ロマンティックな雰囲気は、どこかに行ってしまったような雰囲気で、二人は、水穂さんの背中をたたいたり、さすったりしてあげているのだろう。
由紀子は、五郎さんと有希が廊下でそういう逢瀬をしているのを眺めながら、やっぱり有希さんは容姿だけが取り柄というけれど、それは素晴らしい特技であるということを忘れないでほしいなあと思うのであった。同時に、容姿端麗ではない自分に腹が立ったような気がした。有希さんのように、なんでも容姿で解決できてしまう人は、やっぱり得だなあと思ってしまうのだった。
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