第三章
第三章
その日がやってきた。何の日かというと、須藤有希が病院にやってくる日なのだ。本当に、敬が楽しみにしていた、心から楽しみにしていた日だった。その日、午後一番に須藤有希は予約していた。
その時間になると、診察室のドアを開け閉めして、有希が来るのを待っていた。有希は時間を守る人だったので、しっかりと、診察開始時刻にやってくる。今日もまた、紺色の着物を着て、何とも色っぽい恰好をして、やってくるのが見えた。須藤有希さんと言われて、有希は診察室へやってきた。この間のような、落ち込んだ顔つきではなく、いつものように、にこやかな顔をしているのだった。
「こんにちは、先生。」
有希は一礼し、くるくる回る患者椅子に座った。
「こんにちは、とりあえず、指のけがを見せていただけますか。もう抜糸してもいいか、一応確認させていただきますのでね。それではちょっと、包帯をほどいてみますね。」
有希の手をだいの上に置いて、敬は、包帯をほどいた。もうけがはすっかり良くなっていて、抜糸しても大丈夫そうだ。
「じゃあ、糸を抜きましょう。ちょっと痛いかもしれないですけど、我慢してくださいよ。」
と、敬は、にこやかに言って、ピンセットを使って、丁寧に糸を抜いた。
「何も痛くないわ。先生上手ねえ。何も平気だったわよ。
有希が言うと、敬は、はははと笑った。
「いいわねえ、先生は。本当にお上手ね。それじゃあ、ほかの患者さんからの、評判も上々でしょ。何だか、有名になっていく先生がうらやましいわ。先生、今は本を出したりテレビに出たり、引っ張りだこじゃないですか。それでは、本当にお忙しいでしょうね。もうトントン拍子で出世してらっしゃる。」
と、有希がそういうことを言う。
「上々何て、そういうことは、医者が判断することではありません。それは患者さんから、判断されることです。病院の評判なんて、決めることではないですよ。」
敬は、医者らしく言った。
「それでは、本当に謙虚な方なんですね。先生は、いろんな人を直していらっしゃるのに、患者さんが判断することだなんて。そんなこという先生は、なかなかいませんよ。」
有希はにこやかに笑っている。敬が、次に何をいおうか迷っていると、有希がこう言いだした。
「敬先生は、おだてるのが本当に上手だわ。でも、それを利用して、何人かのひとと、関係を持ったんじゃないの。」
有希の表情が、少し変わった。先日のような妖艶な女にまた逆戻りしている。
「先生、本当に何か関係を持ったことはないんですか?奥さんのほかにいろんな人と、関係持ったでしょ。偉い先生なら、きっと何かあるはずよね。」
「いや、そういうことはね、、、。」
敬は、何を言いだすのかというような顔をして、有希を見た。
「でも先生、そのようなお顔ですし、きっと、女のひとと関係持ったことだって、あったんじゃありませんの?先生はきっと奥さん以外の女性と、いろんなところで何かしているんじゃありませんか?ああ、私のことは気にしないでいいんですよ。私はただ、好奇心で聞いているだけですから。」
有希はそういうことを言った。そしていきなり今までの穏やかな顔から、妖艶な、売春婦のような顔に変わった。
「こう見えても私、先生のこと好きなんです。これから先生とずっとお付き合いしていきたいと思っているの。でも私、ちょっと精神的に不安定なところがあるから、お互いの事かくしてつきあうのは、やめた方が良いのではないかと思っているんですよ。だから、過去につきあったことが在る人とか、全部さらけ出してしまうことにしましょうよ。ねえ先生、そのほうが良いと思いませんか?」
「そうだねえ、、、。」
敬は、有希のその妖艶さに思わずそういうことを言ってしまった。いきなり何を言いだすのかと思ったら、そういうことを言いだすものだから。まず有希に対して、こういうことを言っておくのが一番だと思った。
「それよりも君こそ、どんな人とつきあったか、教えてくれないかな。」
敬が急いでそういうことをいうと、
「いいわ。」
と、有希は言った。
「私が一番思っている人は、いつも銘仙の着物ばかり着ている、可愛そうな人だった。でも、いまは先生の方が一番好きよ。先生はまさかと思うけど、銘仙の着物なんて御縁はないでしょうけど。その人にとっては、まさしく大事な着物だったわけ。これでどう?」
「そうか、そういうひとは、碌なことがないから、つきあわないほうがいい。差別を促すような発言になるかもしれないが、そういう着物を着ている人は、それなりの考えしか持つことはできないからね。」
有希の発言に、敬はそういうことを言った。
「あら、先生は、そういう着物を着た人と、お付き合いされたことが、おありなんですか?」
有希が、素っ頓狂に聞く。
「先生のようなお偉い方が、銘仙の着物を着た人と、つきあったなんて意外!」
「いやそういうわけではないんだけどね。」
敬は慌ててごまかそうとすると、
「先生、そろそろ急いでくれませんか。次の患者さんが待っていますから。」
と、看護師が入ってきて、敬に一寸強く言った。
「あら、それではごめんなさい。長居をして、申し訳なかったわ。先生、次回はいつくればよいのかしら?」
有希が妖艶な女性から、普通の女性がよくする表情に戻りながら、敬にそういうことを言った。
「来週、もう一度来てください。消毒はしなければなりませんので。」
敬は初めて、有希が少し怖くなった。
「そうですか、、、。」
数時間後、製鉄所の中で、有希の「結果報告」を聞いた水穂さんは、大きなため息をつく。
「そうなのよ。銘仙という言葉に強く反応していたから、これを利用すれば、もっと決定的な弱みを握れると思うわ。そうすれば、もっといろんなことを聞き出せると思うから。私、もうちょっと、
頑張ってみるわね。」
「それにしても、有希さんはすごいわね。」
と、由紀子はそれを話した有希を見て、そんなことを言った。
「いいのよ由紀子さん。由紀子さんは、由紀子さんにできることをしてあげれば、それでいいの。由紀子さんが活躍できる時だってあるわよ。だから、由紀子さんはその時を待ってて。」
「し、かし、有希、さんは、よく、ごじ、ぶ、んの、色、気を、武器に、でき、ますね。」
有希がそういうと五郎さんが言った。
「まあね、其れしかないから。私はみんなもいう通り、ミスコンに出たことしか、社会参加したことないのよ。だから、社会に役立つスキルだって、容姿しかないの。」
有希はそういったが、由紀子は、有希さんはそれだけでも自分に自信があるということはすごいな、と思った。自分なんて駅員として働いている以外、何もない。有希のように美人でもないし、口がうまくもない。
「有希さんは、障碍者であっても、そういうことができちゃうなんてすごいわ。」
由紀子は、がっくりと肩を落とした。と、同時に、目の前で水穂さんの激しくせき込む声が聞こえてきたのではっとする。
「水穂さん大丈夫、しっかりして。」
「ぼ、ぼく、く、すり、もって、来ます。」
由紀子がはっとしている間に、有希と五郎さんは、そういうことを言い合っていた。五郎さんが、水穂さんの枕元にあった吸い飲みの中身を水穂さんに飲ませているのを、眺めながら、もう由紀子は自分なんていなくてもいいのではないかと思ってしまった。もう有希や五郎さんがいてくれれば、それでよいのではないか。自分なんて水穂さんのそばにいたいと思うのに、何の役にも立てないでいる。
数分後、水穂さんは薬が回って、眠り始めた。有希がかけ布団をかけてやりながら、
「やっぱり、安定しないわね。」
と、つぶやく。
「仕方、な、いですよ。こういう、季節、です、し。体調、も、くずし、が、ちになりますよ。」
と、五郎さんはそういった。できることなら、水穂さんにも、自分の体調を整えてもらいたいと、由紀子は、思ったが、それは無理そうだった。
「じゃあ、また一週間後に病院に行くから、もっと決定的なものを握れるように、頑張ってくる。」
有希は、自信満々という顔でそういうのであるが、由紀子は正直に言うと不安だったし、五郎さんは、何だか申し訳なさそうな顔をしていた。二人とも、それを言葉にすることはなかったが、有希だけ一人ニコニコしていた。
そして一週間後。
「須藤有希さん。」
と呼ばれて有希は診察室へ行った。敬は、有希が入ってくるのを見て、一寸びくっとしたようであった。
「こんにちは、敬先生。こないだはすみませんでした。小指の怪我なら、もうすっかり。痕になって残るかもしれないけど、まあ、それは仕方ないわよね。」
と言って有希は台の上に手を置いた。彼女が包帯をほどくと、傷は確かにしっかりとふさがっている。
「じゃあ、消毒をお願いするわ。もうしみることはないと思うの。」
「はい。」
敬はそれだけ言って、有希の怪我した小指に、消毒液を付けた。
「ほんと、痛みがあったのはうそみたい。」
有希はまだ、普通の女性でいる。
「もう来なくてもいいかしら。先生に診察してもらって本当に、良かったと思ってるわ。私、先生にすごく感謝してるの。やっぱり先生はお医者さんだけあるわね。こんな患者もすぐ治せるんだから。先生、お別れする前に、一つ聞いていいかしら?」
「はあ、何でしょう。」
敬は、有希の顔を見ながらそういうことを言った。
「先生、この間、銘仙の着物を着た方が見えましたね。その時、診察を断ったのは、なぜです?先生は、お医者さんだから、誰でも平等に扱う義務がありますよね。アルベルト・シュバイツァーの伝記にもそう書いてありました。其れなのになぜ、その人を放置したのかしら?」
敬は有希の顔を見て言葉に詰まってしまった。こういう風に聞かれたら、もう答えなければいられないという感じの聞き方だった。それくらい有希は、妖艶な女性だった。答えなければ、何をされるかわからないような女性だった。
「うん、まあそうだね。確かにそういうことはあったけど、それをなんでそう聞きたがるの?」
敬は、有希の言葉に対し、そう聞き返した。
「ええ、私の友人がどうしても知りたいっていうの。こないだ話した、いつも銘仙の着物を着ているあの人よ。」
有希は、いきなりそんなことを語り始めた。
「なんだい、君はまたその人と付き合っているのか?」
敬はちょっとむきになっていった。
「ええ、だって、私にはそれくらい大事な人だもの。それではサヨナラって、簡単に分かれるわけにもいかないのよ。彼がね、そういうの。別れるなら、理由を教えてくれって。私は、やっぱり彼のことを大切に思っているわ。」
「それはダメだ。そんな人と付き合っていたら、君も、碌な目に会わないと言ったじゃないか。そんな人は、君を幸せにすることなんてできやしない。其れよりも、もっと健全で、健康な人と付き合うべきじゃないのかな。」
敬は有希を諭すように言った。
「そうなんですけどね。私は、その人を忘れることなんてできやしないわよ。確かに、銘仙の着物を着ていたから、とても貧しい人だったというのは確かよ。でも、それなりに一生懸命生きようとしてたし。それにろくなことがないというのなら、その理由も話してもらいたいものだわね。それを聞かせてもらわないと、私、納得いかないわ。先生、ちゃんと理由を話してください。」
「うーん、それはね。」
敬が口ごもると、
「あら、何か言ってはいけないことでもあるのかしら?」
有希は、妖艶なまま言った。
「先生、私は、先生にちゃんと別れられない理由を話しましたわ。もう一回言うけど、私の好きな人は、銘仙の着物であっても、やさしくて、なんでも私の事聞いてくれて、ピアノだってものすごく上手で、ゴドフスキーのジャワ組曲とか、聞かせてくれたことだってあったわ。その人を忘れられないいのも、私は当然のことだと思う。それほど難しい曲ですものね。あんな素敵な演奏する人は私、見たことない。ねえ先生、教えてくださらない?先生がどうしてそんなに銘仙の着物を着た人を嫌う理由。」
「そうだねえ、、、。」
敬はまた、返答に困ってしまう。
「ねえ教えてくださいません?こんなに有名になった先生が、どうしてそういう癖があるのかしら。それに話してくれれば、一寸楽になるかもしれないわよ。それは必ようなことかもしれないじゃないの。教えて、先生。」
有希はしつこく敬にいいよった。その言い回しは、いかにも妖艶な売春婦という感じがすごくした。もしかしたら言わなければいけないのではないかと思わせるような色気が、有希にはあった。
「そうなんだけどね。一度、そういう着物を着ていた女性と、つきあった事があるんだけどね。」
敬はいやいやながらもそう語り始めた。
「実はそういうところから来た女性にね。結婚することになってわかれようと話を持ち掛けたところ、ひどく激怒されて、顔に危うく塩酸をかけられるところだった。それでもう二度と、銘仙の着物をきる人とは、会わないことを決めたんだ。」
「まあひどい!」
敬がそう話すと、有希は激怒した。
「あなたはそうやって人のことを差別する、ひどい人だったのね!」
「ひどいって、それは当たり前の事じゃないか。そういう身分のひとなんだから、そういう身分の人なりの対応をとるべきだったんだろう。そういうひとは、そういうやり方しかできないんだからね。」
敬は、その通りのことを話したつもりだったが、
「あなたって、ひどい人ね!私のような女性には、こうして優しくしてくれるのに、そういうひとには、冷たくするばかりか、女一人でさえもモノにできなかった過去があるなんて!」
有希は敬をあざ笑うような態度で言った。
「それじゃあ大したことないわ。あなた、これを公表すると言ったら、なんていうかしら。きっと週刊誌は大騒ぎするわ。医者として、これほどすごい名声を得た人なのに、女運は最悪ということがわかったら、みんなどうするかしらね。きっと、すごいでしょうね。そんな人に翻弄されたことが在るってわかったら、黙ってはいないわよ!」
有希はまた笑った。
「まあ、マスコミが来ないでもいいように、あたし黙っていてあげようか。その代わりと言っては何だけど、、、。」
「わ、わかった。いくら出せばいいのか言ってくれ!」
敬が思わずそういうと、
「そんなものはいらないわよ!」
先ほどの話を覆すように有希は言った。
「そうするんだったら、その傷つけた女性に謝罪しなさいよ!傷つけたことを謝ってちゃんと、けりをつけるべきね。私、教えてあげる。女って、謝れば、しっかり認めてあげることができる生物なのよ。でもね、自然が解決してくれるとか、時間が解決してくれるとかそういうことを言って、放置しておくと、女ってのは、すごい手を使ってくるものなのよ。それを知らないのなら、医者としては良くても、男としてはダメね!」
「そうか、それは、その人が生きている場合だよな。其れならこっちにもちゃんと手がある。その女性は当の昔にこの世を去っている。もう、謝罪をしようと思っても、彼女はいない。その彼女に会うには、何をやってもできないんだよ!」
「殺したの?」
敬がそういうと有希は、また甲高い声で言った。
「そう。殺したのね。あなたは、人ひとり殺しているんですか。一人の患者を救えない医者に、多くの患者は救えないって、以前影浦先生がおっしゃっていたことが在りました。人を救うどころか、殺してしまうような医者では、もう、医者としては最悪ね。もういいわ、この話、しっかり公表してあげる。先生の大事なもの位、簡単に叩き壊してやるわ。先生は、医者としては確かに有能なのかもしれないけど、女性一人も愛することはできなかったということよね!」
有希は、声高らかにそういうことを言って、敬を馬鹿にするように笑い声をあげた。敬は本当にこの女性が怖くなり、彼女を何とかしなければと思うようになった。
「さて、もう次の患者さんが見えるでしょうし、私はこれで帰りますわ。先生、最後に一つ言いますけど、医者ではなく人間としてもう一回社会勉強しなおしたほうがいいわよ。女というものはけっして単純なものじゃありませんわ。機械でもなんでもありませんから!」
有希はバカにするように笑いながら、
「さて、今日は薬はもらえないのかしら?」
といった。
「いや、もうけがは治っていますので、来なくてもいいです。」
敬が小さい声で言うと、
「そう、ありがとう。じゃああなたも、もうちょっと、世の中の事を勉強してちょうだいね。私は、答えを出してくれるのをいつまでも待っていますから。それでよろしく。」
有希がそういって、診察室を出ていくのを、敬は恐ろしい女にあってしまったという思いで見つめた。
「本当に怖い女性だ。ああいう女性は、テレビドラマでしか見たことがないと思ったが、まさか本当に現実にそうなってしまうとは、、、。」
一方、有希のほうも今回は相当疲れてしまったようだ。こんなおかしなセリフを言い合うなんて、まったくすごいことをやってしまったような気がする。
「それにしても、妖艶な女性を演じることができて楽しかったわ。」
有希はそう思いなおすことにした。自分は間違ったことなどしていない。だって五郎さんと水穂さんのためだもの。そのためにはあの医者を完膚なきまでに叩きのめしてやることが必要なんだ。もうそれを完遂させなくちゃ。もうそれでいいことじゃないの。そうやって人間生きているんだから。
有希は、薬ももらうことなく、会計に行って診察代を払ってきた。そして、丁重に受付係に礼を言い、バスに乗って帰っていった。さて妖艶な娼婦を演じるのはやめて、いつも通りの須藤有希のままでよいやと思いつき、菜の花橋のバス停で、彼女はバスを降りた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます