第二章

第二章

数日後、佐藤クリニックに、インターネットで、診察の申し込みがあった。こういう時世だから、インターネットで診察を申し込むのは珍しいことではない。大体の病院は、診察を申し込む数時間前に、病院にきて、番を取るのがお約束なのだが、佐藤クリニックでは、インターネットでの申し込みが主流となっていた。電話で申し込めば、声とか口調とか、そういうもので、どんな人物なのか、はっきりするのであるが、インターネットではそこがわからない。なので、とりあえず受領された予約患者は

、名前を須藤有希という、女性の患者であるというだけであった。

とりあえず、午前中に診察する患者をすべて診察し、午後一番は須藤有希ということになった。医者の佐藤敬は、コンビニで買ってきた弁当を食べて、昼食をすまし、午後にはどんな人がやってくるんだろうかとか、そういうことを話していた。

しばらくして、午後の診察が開始される時刻になった。敬は、診察室に入って、新しい患者が来るのを待った。

数分後、その患者はやってきた。赤に、緑で紅葉の柄を入れた着物を着ているその女性は、右手小指を、ハンカチで押さえながら、受付にやってきて、こういうことを言う。

「あの、須藤有希です。先ほど、インターネットで予約しました。本当は、午前中の最後にしてもらおうと思ったのですが、それはできなかったものですから。じゃあ、よろしくお願いします。」

「あの、須藤さん、出来れば病院では、和服でなく、洋服で来てもらいたいのですがね。」

と、受付はそう返したが、

「でも、小指を怪我しただけですし、触診も何もないじゃありませんか。その程度だったら、着物でも十分だと思うけど。それに、着物は大事な仕事着でもあるんです。だから、そんな言い方はしないで

もらいたいわ。」

と、有希は言った。

「そうですか。なにか舞踊とか、そういうものを習っていらっしゃる方なんですね。」

受付はとりあえずそう返して、有希に待合室で座っていてもらうように行った。有希は、はいわかりましたと言って待合室の椅子に座った。

「なんだか、昔の人が、こっちへ来ちゃったみたい。この前の、吃音者と一緒にやってきた人といい、なんだか最近変なことが続いているわね。」

と、看護師たちは、そんな有希の姿を見て、そういうことを言い合った。

「まあでも、患者なんだから、見てやらないといけないのよね。」

「佐藤先生はどう見るかしら。」

看護師たちは、待合室に座っている有希をそんなふうに言っているだけであるが、、、。

「須藤有希さん、診察室にお入りください。」

看護師に呼ばれて有希は、診察室に入った。有希は診察室のドアを開けて、一礼し、よろしくお願いします、と言って、丁寧に頭を下げる。

「須藤有希さんね。それではこちらへどうぞ。」

佐藤敬医師は、有希を例のくるくる回る小さな椅子に座らせた。

「それでは、今日はどうなさいましたか?」

「ああ、すみません。あの、今日料理をしていました時に、誤って包丁で指を切ってしまったのです。すぐに、病院に行こうと思いましたが、こちらの病院は完全予約制ということでして。それで、午後一番にさせてもらいました。」

有希は、椅子に座ってそういう事を言った。その着物の柄とかしぐさとか、なんとなく、売春婦を連想させないわけでもなかったが、、、。

「じゃあ、そこを見せていただけないでしょうか。」

と敬が言うと、有希は、

「はい、こうです。」

と、包丁で切ってしまった左手を見せた。確かに、小指に大きな切り傷があった。かなり深く切れたとみられる。それにしても、彼女の腕は、傷あとがたくさんある事に気が付いた。もしかしたら、別の科にお世話にならなければならないのではないかと思われるほどであった。

「リストカットはずいぶんやってるの?」

と、敬は、有希に聞いた。

「ええ、まあ、私には悪い癖があって、、、。」

と、有希は答えるが、その答え方もいい加減ではなく、しっかりとした答え方である。そういうことをちゃんと言える障碍者は少ないので。

「そうですか、じゃあ、そういう病院にはちゃんと通われていますか?」

と敬は、思わずそういってしまった。

「ええ、まあ、通ってはいるんですけど、薬をもらうだけで、何も変わらないのです。」

有希が答えると、

「それでは、ちゃんとしたところに通った方が良い。僕が、腕のいい先生を、探しますから、そこで治療を受けてください。」

敬は、有希に言った。

「ええ、そういうことは、私が一人でやりますから。大丈夫です。」

有希はそういうことを言うのであるが、

「一人では、ちゃんと見つからないだろう。それに、質の悪い医者に当たったら、薬漬けにされるだけで、何もならないという地獄にはまってしまうことがある。それは、どうしても避けたいじゃないか。」

と、敬が言った。確かに敬の言う通り、薬漬けになって、外見が劇的に変わってしまうとか、そういうことは、精神科医療にはよくある事であった。それに対して、保証しようという医者は、あまり多くない。

「大丈夫です。私は、ちゃんとやってますから。一応、家族もちゃんといて、悩みもきいてもらっているし、友達もちゃんといますから、私は、大丈夫ですよ。」

有希は、一般的な患者らしくそういうことを言った。

「それだけでは、ダメなんですけどね。」

と敬は言うが、有希は、

「結構です。小指の治療だけしてください。」

という。敬は、急いで有希の小指を見て、

「そうですね、じゃあ、かなり深く切って言いますので、其れでは、縫合しましょうか。じゃあこの、台に手を乗せていただけますか?」

と、合図した。有希は、わかりましたという。その手もリストカットの痕が多数見られ、こんな手ではなくて、もっと綺麗な手であってほしいと敬は思ったが、それを取り戻すことはできなそうなくらいだった。

「それじゃあ、一寸縫合しますから、痛いですけど、我慢してくださいね。」

敬は、急いで、有希の小指を縫合した。指を縫うのはちょっと、難しいところであるが、何とか拡大鏡を駆使して、何とか縫合を完成させることができた。本来は、簡単な縫合なので、別の若手の医師に任せてしまうのであるが、今回だけは敬が自分で縫合した。

「ありがとうございます。」

有希は、敬の前で頭を下げる。

「いいえ、幸い、簡単な縫合で済みましたので、それで、大丈夫ですよ。二週間後に抜糸をしますから、その時にまた来てください。では、帰っていただいて結構ですよ。」

敬は、有希に言った。時々、患者の中には、約束を守らないものもいるのであるが、この人は約束は守ると敬はおもった。

「それでは二週間後にまた来ます。今日はありがとうございました。」

と、有希は頭を下げ、診察室を後にした。敬は、静かに、診察室のドアを閉めながら、彼女の後姿を見つめていた。敬は、有希の文庫結びに結んだ袋帯姿を眺めながら、一瞬ぼんやりとしてしまったようである。

「先生、あの、次の診察の方が、お見えになっておられますが。」

と看護師に声をかけられて、敬はやっと気が付いたのであった。

その日、敬は、病院を出て、バスに乗って帰ろうと思ったが、ちょうどその時、バス停の前に、紫の羽織を着た、有希が立っている。確かにその着物は先ほど診察室へやってきたときの柄だったので、有希とすぐわかった。

「須藤さん。」

と、敬が声をかけると、

「佐藤先生。」

と有希は軽く頭を下げる。

「どうしたんですか?今、お帰りですか?」

「ええ、先ほど、病院の隣にある、スーパーマーケットで買い物をしてたら、時間が掛かってしまいまして。」

敬の質問に有希は答えた。

「そうなんですか。確かにあのスーパーマーケットは、いろんな売り物があって色いろ迷いますよね。一日遊んでしまいそうなくらい、いろいろありますよね。うちの患者さんでも、たまにそういうひとがいます。」

敬は、有希の言葉にそういうことを言ってしまった。確かにあのスーパーマーケットは名前のわりに大規模で、中に飲食店なども入っているため、そこで時間をつぶす人は少なくなかった。

「それにしても、偶然ですな。まさか、須藤さんと、ここで会うとは思いませんでしたよ。」

「そうなんですよね、でも、このバス、一時間に一本しかないんですよね。私、驚きました。もう、30分近く待っているのですが、一向に来ないんです。」

確かに、バスは、一時間に一本しかないのは、この地域には当たり前のことである。

「そうですねえ、せめてもう一本増やしてくれればいいと思うんですが。まあ、でもうちの前以外、ほかに乗ってくるバス停もないものですから、まあ、仕方ないですね。」

と、敬がそういうと同時に、バスがやってきた。規定時間より、15分近く遅れている。それでも

平気でいられるのは、田舎のバスならではである。

「じゃあ、乗りましょうか。」

と、敬は、すぐにバスに乗り込もうとしたが、

「あの、このバスは、菜の花橋は止まりますか?」

と有希は聞く。

「あら、意外に近かったんですね。菜の花橋の二つ先の、富士駅南で僕は、降車するんです。」

有希の質問に敬は答えた。

「じゃあこのバスは、菜の花橋に停車してくださるんですね。それではよかったわ。」

と有希は、急いでバスに乗り込む。敬もそのあとに続いて、バスの中に乗った。

「はい、発車します。」

と運転手がそう合図して、バスは走り出す。田舎のバスらしく、乗っている客はまばらで、一つか二つしか椅子は空いていなかった。有希は、いつも通り、一番ドアに近い座席に座った。すると敬もその隣に座った。

「いやですわ。先生がこんなところにきて、誰かに叱られたりしないんですか。」

と有希がいうと、

「いやあ、そんなのは、もう当の昔に忘れているさ。」

と敬は答えた。

「とうの昔に忘れているって、いるんですか、叱ってくれる人が。」

と有希がいたずらっぽく聞くと、

「まあ、いるんだけどね。でも、何だかそういうことをしてくれそうな人じゃないんだよね。」

と、敬も答えた。

「そうなんですか。えらく冷たい方なんですね。」

有希は、わざと同情するように言う。

「それじゃあ、先生も、家にかえって、何だか豆腐にかすがいのような、日々を過ごしているんじゃ

ありません?」

有希がわざと笑ってそういうことを言うと、

「まあ、そういうことだね。夫婦の会話もなく。初めのころは似た者夫婦と言われていたけど、なんだか、だんだん会話も何もなくなってしまって。」

と敬は本音を語りだした。

「そうですか。ご家族は何をされている方なんですか?」

と、有希が尋ねた。

「まったくね、うちの家内は、大学で教えているんだけどね。何だか、生徒のことばっかりかんがえてて、自分のことなど、どうでもいいという感じだよ。自分なんて、何のためにこの家にいるのかなという感じでいる。」

「そうなんですか。」

有希は、敬の話を丁寧に相槌をうちながらそういうことを言った。

「じゃあ、ほんとうに豆腐にかすがいのような生活なんですね。それ、私もなんとなくわかりますよ。私も、家のことやってるだけで、家系的なことは、弟や、家族にまかせっきり。それでは、もう私のことはもう終わっちゃったみたい。」

敬も有希の言葉を聞いて、なぜか自分のしていることを、わかってもらえたような気がしてしまった。なんだか、二週間後抜糸してしまって、それ以降会えなくなってしまうのは、とても寂しいというか、彼女ともう少し、言葉を交してみたかった。

「まあ、そんな中で私の人生は、もう終わったようなものね。私は、何か、もう生きていなくても

いいかなあなんて思っちゃうんだけど。」

有希がそういう事を言うと、敬は思わず有希を抱きしめたくなった。それは、男としてそうなってしまうような気がする。

「まあ、いろいろ無理せずやっていくわ。じゃあ、二週間後にまた来ますから、先生、よろしくね。」

と有希はバスの座席から、立ち上がった。ちょうど車内アナウンスで、

「まもなく、菜の花橋、菜の花橋に停車いたします。お降りの方は、押し釦を押してください。」

というのが聞こえたからだった。有希は、急いで押し釦を押すとバスは、古ぼけたバス停の前に停車した。確か前年の台風で壊れてしまったようなそういう感じの古臭いバス停留所だった。せめて、修理でもすればいいのにと敬は思ったが、有希は、軽く頭を下げて、バスを降りていった。

敬は、有希の姿が見えなくなるまでじっと彼女のことを見つめていた。二週間後が来るのが待ち遠しかった。あの有希が、またやってきてくれるのが、いつになるのか、ずっと手帖を眺めてしまう。危うく、彼自身が降車する停留所についたというアナウンスが聞き取れなくて、押し釦を押すのを忘れてしまいそうなほどであった。

その有希本人は、今日の結果報告をしに、製鉄所にやってきたのだが、ちょうどこの時、四畳半で、また水穂さんがせき込み始めてしまう。急いで有希は、四畳半に駆け込み、水穂さんを横向きに寝かせ、背中をさするなりたたくなりして、内容物を出しやすくしてやった。水穂さんしっかり、大丈夫などとこえをかけてやって、何とか痰取り機を使わないようにさせてやった。痰取り機は医療従事者であれば問題なく使えるけれど、素人の有希は、使うことはできなかったのである。頑張って、と声をかけるが、水穂さんは頷くだけで、せき込み続けるのだった。

「頑張って。ほら、吐き出すのよ。しっかりして。」

有希がそういうと、水穂さんの口元に当てたタオルがやっと赤く染まってくれた。同時に五郎さんと由紀子が、心配そうな顔して、四畳半に入ってくる。

「ま、またですか。」

と、五郎さんは、心配そうに言った。

「ええ。水穂さん、ちっとも容体が良くならないのよ。もうどうしてだろう。あたしたち、薬だって

ちゃんとあげているのに。」

「そうなのね。」

由紀子は、水穂さんの顔を見ながら心配そうに言った。

「悪いけど、頓服の薬飲ませるから、由紀子さんたち、手伝ってもらえないかしら?」

有希がそういうと、五郎さんが、

「あ、そ、う、いう、こと、なら僕が。」

といった。

「それじゃあ五郎さん、お願いするわ。」

有希に言われて、五郎さんは、枕元にある吸い飲みをとった。

「こ、これ、で、い、いんですね。」

と、有希に確認して、水穂さんに中身を飲ませる。

「水穂さんしっかり。」

由紀子もそう声掛けをして、水穂さんは、何とか中身を飲んでくれた。よし、これで大丈夫ねと有希は大きなため息をつく。やがて、薬が回ってくれたのか、水穂さんは、静かに眠り始めた。五郎さんが、水穂さんを布団に寝かせてやり、かけ布団を静かにかけてやる。

「よかった。眠ってくれたら大丈夫。静かに眠らせてあげましょう。」

有希に言われて、由紀子たちは、食堂へ移動した。由紀子はまだ、水穂さんのそばにいてやりたいと

思ったのであるが、有希に止められて、それはできなかった。

「今日は、あたし、あの馬鹿医者のクリニックへ行ってきたわ。」

食堂に入ると有希は、そういうことを言った。

「わざとガラス瓶を触って指を切って、水穂さんのことをバカにした、馬鹿医者がどれくらい能力があるか、確かめたかったのよ。」

と、有希は包帯し指をしっかり見せた。

「でも、心配しないで。私は、容姿以外とりえもないし、それを売りにして潜入捜査をすることは、得意なのよ。」

「でも、有希さん。」

と五郎さんは、一寸心配そうな目をしてそういうことを言った。

「それでは、有希、さ、んが、危険な、め、にあって、しまう、かもしれ、ない。」

「大丈夫よ。そのあたりは私、うまくやるわ。その辺は、あのバカ医者を痛い目に合わせてやりたいのよ!」

と、有希はそう強く言った。

「で、も、有希さん、そんな、危ないこと。」

五郎さんは再度そういうが、

「大丈夫、大丈夫。あたしは、ほんと、日常生活では何も役に立たない障碍者だけど、こういう時は、容姿を生かして役に立って見せるわ。それに、バカ医者の日常生活だってつかめたのよ。あの医者、表では偉い人だと思っているようだけど、家に帰れば、奥さん一人からも相手にされていない、ダメな男なのよ。それで、医者やって、いい顔してるなんて、本当にばかとしか言いようがないわよね。水穂さんのことを、バカにしたって、何も偉くなんかないわ。」

有希は、カラカラと笑った。なんだか、それを聞いて由紀子は、一寸安心したというか、本当に偉い人でなくて良かったというか、そういう気がしてしまうのだった。

「二週間後にまた病院に行くことになってるの。その時はもっと決定的な弱みを握ってやるわ。それをネタに脅かせば、幾らでも仕返しはできるから。水穂さんに楽しみにするように言っておいて。」

有希は、そういって、その妖艶な顔でまた笑うのだった。由紀子は、そういうことができる有希が、うらやましく見えてしまうのだった。自分のように顔に大きなコンプレックスがある人間は、絶対

有希さんがするようなことはできないだろうなと思う。こういう時にも適材適所という言葉があるんだろうが、自分に代わって、そのようなことをやってくれる人物がいてくれれば、それでいいやと思うようになった。

「でも、ゆ、き、さん。」

と五郎さんは、なんだか心配そうな様子で言った。本当に有希を心配しているような目つきだ。由紀子は、有希に復讐を完遂して欲しいという気持ちと、なんだか本当にこれからどうなってしまうのだろうか、という不安で、いっぱいだった。

その日も、日が暮れるのは早かった。墨を垂らしたような夜が、彼らを取り巻いている。水穂さんだけが、静かに眠っているのが、幸運と言えるかもしれなかった。その日は秋なのに、星が出なかった。

なぜだろうと思っても出なかったのであった。







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