The 銘仙
増田朋美
第一章
時々思うことが在る。人間って、どうして考えたり悩んだりするものだろうか、と。そしてそれは、誰のために、することなんだろうか、と。
答えは色いろあると思う。人のためであったり、自分のためであったり、本当に色いろだと思うけど。例えば、この人の場合はどうなのか。ちょっと考えてみたい。
その日は、さわやかな秋晴れで、お洗濯日和というのがぴったりの、ちょうどいい日だった。そういうわけで、磯野水穂さんと、有森五郎さんが、バラ公園へ散歩に出かけた。別に悪気があるわけではない。ただ、水穂さんが布団の中にずっといるのは、体がなまってしまうと思ったので、散歩を提案しただけの事である。それだけの事である。ほかに、何かを画作したとか、そういうことは一切ないのであるが、、、。
「きれ、いです、ねえ。水穂さん。」
と、五郎さんは、水穂さんに言った。池の周りには、もみじの木が植えられているのであるが、もみじの葉は、少しずつ赤くなり始めてきて、ところどころ風に乗ってハラハラと落ちてくるのだ。それが池に落ちればなんだか絵になるみたいだし、それに並行して泳いでいる、マガモたちの姿もかわいらしいものである。時々、マガモがおしりをあげて、餌である池に生えているもをたべている仕草を見せるので、子供たちは、それを見て、面白いと声をあげるのだ。そのうち、ご飯よという声が聞こえてきて、子供たちは、帰っていった。
「マガモが、か、わ、いい、ですね。ほら、そのうちに、オオハクチョウとか、ほかの鳥たちも、やって、来ますよ。そうしたら、白鳥の、湖、みたい、になりますね。それでは、あの、バレエみたいな、きれいな、風景が、みられ、るかな。あ、ご、め、ん、なさい。ちょっと、変なこと、を言ってしまって。水穂さん。」
五郎さんは、そういって、水穂さんに返答を求めたが、返答はなかった。何があったのだろうかと水穂さんのほうを見ると、水穂さんは、胸を押さえて苦しそうな顔をしている。
「水穂さ、ん、どうし、たん、ですか?」
五郎さんは、そういったのであるが、水穂さんは答えない。答える代わりに、水穂さんは、激しくせき込んだのであった。いつもの咳で返事をするというのとは、また違う、激しいせき込み方と同時に、赤い液体が、口元から、あふれる。どさっという音と同時に、水穂さんは、その場に倒れこんだ。五郎さんは、ああ、これは大変だ!と言って、急いで水穂さんを背負って、走り出した。とにかく近くの病院へ連れていかなければと思ったが、富士市の中央病院は、走っていくには遠すぎる。大きな病院を頭に思い浮かべてみるが、どれもここから行くには遠すぎるのだった。タクシーを呼ぼうかと思っても、吃音の自分には電話をかけることは難しかった。どこか、小さなクリニックでもいいから、介抱してもらわないと!と思った五郎さんが周りを見渡すと、「佐藤クリニック」と書かれた、大きな看板があったのに気がついた。そこでその看板の指示通りに走ってみる。とにかくこの道を直進すればいいんだと思った五郎さんは、とにかくまっすぐ走ってみる。走ってみると、メインの大通りにたどり着き、そこにも佐藤クリニックの看板があって、この信号を右と書かれているので、五郎さんは、急いでそこへ向かって走っていった。二、三分走ると、五郎さんの目の前に、大きな建物が建っていた。そこに佐藤クリニックと書いてある。診療科は、内科、総合診療科と書いてあったので、とにかく何かしてくれるだろうと思い、五郎さんは、その建物の中へ飛び込んでいった。
「す、すみません、あの、この人、を、何とかして、やってく、ださい。あの、バラ公園を、一緒に、散歩して、た、んですけど、急に、せき、こ、んで、倒れて、しまっ、たです。お、ねがいし、ます。何とか、してください!」
五郎さんは必死に声でそういうことを言ったが、発音は相変わらず不明瞭なままだし、変なところで言葉を切ってしまう、吃音者であることは何も変わらなかった。看護師たちは、彼のその声に気が付いてくれたようだけど、
「なんですか、もうちょっとちゃんと話してください、一体どこで何があったのか、ちゃんと話してもらえないでしょうか!」
何て五郎さんに言うのである。
「だ、だから、バラ、こ、うえん、を一緒、に、散歩、し、てい、たと、き、た、おれちゃ、ったんですよ。早く、な、んとか、して、くれませんか。お願い、し、ま、す。」
と一生懸命五郎さんは説明しようと試みるが、どうしても看護師に通じなかった。看護師は、一体この人何を言っているのかなという顔をして、顔を見合わせる。それに、背中に背負っている水穂さんの着物が、葵の葉を大きく入れた銘仙の着物であったことを見ると、さらにいやな顔をした。
「あ、の、お願い、です!なんと、か、して、やって、くれませんか。せ、め、て、薬、だ、け、でもいただけ、ないでしょうか。」
と五郎さんは一生懸命訴えた。すると奥の部屋から、眼鏡をかけたちょっと大柄な
男性が出てきて、
「なんですか、午前の診察受付時間は、とうに終わりましたよ。それに、まだこんなにたくさんの患者さんがいるのに、のこのこ入らないでもらえないでしょうか!」
と、言った。この人が、たぶん、医者の佐藤先生だろう。五郎さんは、急いで、
「せ、ん、せ、い。おねがい、です!水穂、さ、んを助けて、やってく、ださい。バラ、こ、うえんの、池の周り、を歩いていたら、急、に、苦しみ、だして、動かなくなって、しまっ、た、です。おねがい、し、ま、す!彼、を、た、すけ、て、やって、ください!」
と真剣な顔をして訴えたのであるが、医者である佐藤敬先生は、いやそうな顔をした。五郎さんがこれだけ訴えても、何を言っているのかわからないという顔をしている。
「失礼ですが、ここには見なければならない患者が大勢います。ほかをあたっていただけますでしょうか。」
と、佐藤敬は、そういうことを言った。
「多分、不治の病と言われていたのは昭和の初めくらいまでです。今は抗生物質もあるし、すぐに何とかなると思います。だからわざわざうちへ来ないでも結構ですよ。じゃあ、私どもは、これで。」
「そ、そん、な、んじゃ、ありません!み、ず、ほさんは。」
と五郎さんは説明しようとしたが、
「いいえ、こんな派手な症状を起こすのは、昭和の初めくらいなら多くみられましたけど、今は全く見られない、過去のものになっています。それを、こうして大っぴらに出すなんて、まったく不衛生にもいい君ですな。大丈夫ですよ。ほかの病院でもすぐ何とかなります。じゃあ、これで。」
と、佐藤敬は、そういって診察室に戻ろうとする。
「ま、まって、ください。く、す、り、は、も、らえんのでしょう、か。何か、く、すりだけでも、出してやって、く、ださい。」
五郎さんが、そういっても、佐藤敬は看護師に、変な名前の薬の名前を言って、そのまま診察室へ戻ってしまった。五郎さんは思わず、
「ま、待って!」
といったが、佐藤敬は後ろを振り向かなかった。看護師たちも、ほかの患者たちも、銘仙の着物を着た人物がこっちへ来たなんて、なんて間が悪いんだろうなんて言っている。仕方なく、看護師ではない、便所掃除をしていた中年のおばさんが出てきて、
「ほら、これのみな。」
という口調で、水穂さんの口元へ液体の薬を流してくれた。これが効けば、きっとせき込まないで済むとおばちゃんは言う。五郎さんは、
「あ、り、が、とうございました。」
とだけ言って頭を下げようとするが、おばさんはそそくさと離れて行ってしまった。周りの患者たちも、看護師も、みんないやそうな顔をしているので、五郎さんは急いで、製鉄所へ向かって走っていく。なんでみんな、ああいう風にばかにするんだろう、と、悔し涙を流しながら。
数時間後。もうお天道さまは、西に傾いてきたころのことである。
すごいスピードで由紀子が車を走らせてきた。そして、製鉄所の玄関をふさぐように車を止めると、駅員帽をかぶっていることを忘れて、由紀子は、四畳半に猪突猛進に走っていく。
「水穂さん!水穂さんは大丈夫?」
由紀子がふすまをばあんと開けると、枕元に座っていた須藤有希が、指を口に当てて、静かにするように促した。
「ごめんなさい!水穂さんが、公園で倒れたと聞いたものですから!」
由紀子が自分の息を切らすのを忘れてそういうと、
「大丈夫よ。病院でもらった薬が効いて、血は止まってくれたわ。今は、眠っているから、目が覚めるまで起こさず静かに。」
と、有希は、由紀子に落ち着いてもらうように言った。
「あ、病院に行ったの?」
と、由紀子が聞くと、
「ええ、五郎さんが、公園の近くにオープンしたばかりの佐藤クリニックに連れて行ってくれたらしいの。そこで、薬をもらって、何とかなってくれたんだけど。」
と、有希はそこまではいうことができたようだ。
「佐藤クリニックって、確か、テレビで見たことあるわ。あの院長の名まえは佐藤敬よ。確か、医療関係のテレビ番組で解説してたわ。バラ公園の辺り開業医というと、あの佐藤クリニックしかないからよく覚えている。」
由紀子がそういうと、五郎さんが、涙を流してこういうことを言った。
「じゃあ、あ、の、い、しゃは、ゆう、め、い、人だったんですか!」
「ええ。テレビにも出ているし確か本も出版されているはずです。確か、こないだ書店でサイン会やってたのを、私、見たことが在りました。」
と由紀子が答えると、五郎さんはさらに涙を流して泣くのだった。
「どうしたの五郎さん。」
と、由紀子が聞くと、
「ええ、そこの医者がね、本当にひどい医者で、診察も手当も何もしてくれなかったんですって。周りのひとたちも、水穂さんが銘仙の着物を着ているので、すごくいやな顔をしていたようよ。」
と有希が言った。
「そんな、、、ひどいこと、何てひどいことを、、、。」
由紀子は、悔しそうに涙をこぼして、その場で泣き始めてしまう。
「でも、幸いのところ、五郎さんがそうやって病院に行ってくれたから、何とかなってくれたじゃないの。それは、良かったと思うことにしましょうよ。大丈夫、目を覚ませば、普通に話しかけてくれると思うから。」
有希は眠っている水穂さんを見た。
「せ、め、て、中央病院、に、連れていく、ほ、うが、良かったのでしょうか。そうすれば、み、ずほさん、もっと良い医療を、うけ、るこ、と、ができたのでしょう、か。」
と五郎さんは、ポロリと涙をこぼす。
「いや、行かないほうがよかったわよ。もし、中央病院に行ったら、同和地区のひとを扱うなんて、とか言って、たらいまわしにされるのが落ちよ。とにかく、あなたのおかげで、水穂さんは助かったんだから、自分を責めないで。」
有希がそういうが、五郎さんは、申し訳なさそうな顔をした。
「それに、救急搬送されるにしても、同じことでいろんな病院を回って、その間に終わってしまうかもしれない。そうならないようにするには、こうするしかないのよ。」
と、有希がそういうことを言うけれど、五郎さんは、はいと申し訳なさそうな顔をした。
「そんな、落ち込まなくてもいいのよ。まったくね、有名人になると、態度がでかくなるわよね。そうして、こういう小さい存在をバカにしたり、さげすんだりするようになるのよね。」
有希は、五郎さんを励ましたが、由紀子はそれでもまだ泣いているのだった。
「でも、水穂さんが助からなかったら、、、。」
「大丈夫よ、由紀子さん。水穂さんは、ちゃんと眠っているから大丈夫。それに、目が覚めたら、帝大さんを呼んで、診察してもらおうと思ってるから。」
有希はこういう時にはしっかりしているものである。いつもはパニックになって大暴れということも多いが、しっかりと彼女は、そういうことを言うのだった。
「じゃあ、あたし、帝大さんに電話をしてみるわ。できるだけ今日中に来てもらうようにするけど、今回の発作は大きかったから、一寸薬が増えるかもしれないわね。」
有希は、急いでスマートフォンをとった。五郎さんも、由紀子もまだ涙をこぼして泣いている。由紀子は、水穂さんの腕をとって、静かに泣きはらすのだった。
「帝大さん、すぐ来てくれるって。診察してもらえるから、あたしたちは退散しましょ。」
と、有希がスマートフォンを置くと、五郎さんが、由紀子に隣の部屋へ行こうといった。由紀子は、帝大さんが来るまで、そばにいたいと言ったが、五郎さんは水穂さんの眠りを邪魔してはいけないと言った。五郎さんに促されて、由紀子は四畳半を出、食堂に行く。
「こんばんは。」
もうすっかり暗くなってしまったころ、帝大さんがやってきた。出迎えは有希がした。とりあえず、今日あったことを、かいつまんで説明すると、帝大さんは、わかりましたとしっかり応答してくれた。そして、まだ眠っている水穂さんのいる四畳半にいき、布団をほどいて、着物を脱がせ、聴診を始める。そして、一つため息をつき、これを、また目を覚ましたら飲ませてください。と言って、また液体の薬を枕元に置いた。
「しかし、よく、手当てしてくれましたな。もし、血がたまったままだったら、危なかったですよ。」
と帝大さんはそういうことを言っている。ということは五郎さんのしたことは、けっして間違いではなかったということであるが、それは、有希も由紀子も納得できなかった。
「じゃあ、あと、二、三日は、安静にしていてください。しばらく外を出歩くのは、危ないですよ。しばらく、寝たきりになりますが。」
と、帝大さんは言った。
「わかりました。じゃあ、ご飯なんかも、寝たままで食べさせればいいのね。」
有希はそういうのであるが、それは何とも言えない、つらそうな顔つきであった。四畳半の隣の食堂で、由紀子は帝大さんの話を聞きながら、まだ泣いていた。五郎さんも、まだ、申し訳なさそうな顔をしたままである。
「五郎さん、私どうしたらいいのかしら。」
由紀子はぽつんとつぶやいた。
「私、水穂さんに何もしてやれない。」
「そ、う、です、ね。ぼ、くも、同じですよ。そ、れ、は。僕も、びょう、いんには行ったけ、ど、それだけ、し、かで、きません、もの。あとは、お、医者さん、とか、そう、い、うひと、に、任せ、な、いと。」
五郎さんは由紀子を励ました。
「そ、れ、でも、僕、も、みず、ほ、さんに、もう、しわけ、な、いことをしました。だって、てきせ、つ、な、医者を、呼び出して、あ、げ、ら、れな、かった。」
「そうね、でも、五郎さんが、そういうことを言わなくても、ちゃんと病院に連れて行ってあげられたんだから、それでいいでしょうが。私は、それをしてくれた五郎さんに、感謝しているわ。」
由紀子は、五郎さんにではなく、自分に言い聞かせるように言った。
ちょうどその時、ありがとうございました、という声がして、有希が帝大さんを玄関先まで送っている声がする。帝大さんは、くれぐれも安静にさせてやってくださいと言って、製鉄所を出ていった。そして、有希は由紀子と五郎さんのいる食堂へ戻ってきた。
「よかったわ。もう心配ないって。発作が大きかったから、しばらく安静にしてなきゃならないけど、そういうことは、あたしがやるし、もし人手が必要なら、ほかのひとを頼むわ。理事長さんにも、言っておくから。」
有希が、そういうと、由紀子がまた、
「あたしは、結局何もしてあげられなくて、何もできないのね。」
と言ってまた静かに泣き出した。
「ゆ、きこさん、それは、し、かた、ない、じゃないですか。ただ、いの、るしかないときって、あ、りますよ。それはどの、ひと、に、も、そうです。だから、その通りに、し、なきゃ、なら、ない、んです。」
と五郎さんが由紀子を励ますが、由紀子は、泣くばかりだった。
「由紀子さん、泣かないでよ。あたしも、しょうがないと思うわよ、いくらバカな人間で、いろいろ他人に文句を言われているけどさ、でも、どうしようもない時ってあるのは、あたしもちゃんとわかる。」
と、有希が励ますが、由紀子は、泣き続ける。
「ゆ、きこさん、どうしよ、う、もないことは、どうしようも、な、いんですよ。」
と五郎さんは一生懸命そういった。
「でも、由紀子さんの気持ちもわからないわけじゃないわ。」
と、有希は不意にそのようなことをいいだした。
「ゆ、き、さん。何をし、ようというのですか。」
と、五郎さんが吃音者らしい変な発音でそういうと、
「あたし、容姿なら自信あるのよ。だって、高校時代、校内のミスコンで、優勝したりしたことあるの。だから、それを武器に何とかすることだって、きっとできる。」
と有希は答えた。
「ちょ、っと、ま、って下さい。有希、さん。まさか佐藤ク、リニックに、の、りこむつもりです、か。それは、危険です、よ。それは、いけない。そんな、こ、とし、たら、もしかした、ら、警察の、お世話になって、し、まうかも、しれない。それは、やめ、たほうが、いい。」
五郎さんは、そう心配そうに言うと、
「いいえ、そんな事はしないわよ。もっと別なやり方があるの。あたしは、一応、障碍者ということになってるけど、容姿だけなら自信があるって言ったでしょ。だから、大丈夫、何とかしてあげる。だってその佐藤という医者は、本当に最低な医者ですもの!」
有希は自信たっぷりな目つきでそういう事を言った。五郎さんは、心配そうな目つきをしているが、有希は、もう何か決めてしまったようだ。由紀子は、そういっている間にも、水穂さんのことが心配で、開かないふすまを眺めていただけであった。有希の事や、五郎さんの言っていることについて、何にも反応することはできないのだろう。それを、彼女より年上の有希は、保護者のような目つきで由紀子を見つめていた。
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