居酒屋『桃太郎』にて

リペア(純文学)

本文

乾いた傘。この時雨には、傘を差そうか迷った。水気を帯びたゴムの靴底は、一歩踏む事にギュ、ギュと音を示した。


塾の帰りでは同じ高校の女友達がバイトをしている居酒屋の前を通った。そして中の様子を一瞬見ては駆け足で去ることを繰り返していた。そいつは豆腐に包丁をいれている時もあれば、スーツの酔ったオジサマを相手をしている時もあった。



今日は親に夜飯をことわった。そして塾が終わり、今八時。目の前の暖簾のれんには『居酒屋 桃太郎』と書かれている。



中のあいつが私に気づいた。厨房から戸に駆け寄ってきて、その横開きは古い音を立てて開けられた。


「えっ、ハヤトじゃん。はいってはいって。」



そそのかされて一番奥、二人用の席に落ち着いた。悪天候とあり、中は混んではいなかった。


「何食べる?」


「そっか、うーん。なんでもいいよ」


「あいよ」


そう言うとあいつは中にもどった。あいつは私の好物を知っているので、出てくるのは恐らく厚揚げ料理だ。



着ていた薄い上着を下ろす。黒色に細かな水滴が付き輝いていた。マスクも解き、店内の空気を吸った。心地の良い、馴染む空気。


スマホは濡れていて、それを上着の端で拭った。すると付いていた水は広がり、鏡と化した。



鏡面に私の顔が映った。


すぐにそれから視線をがした。



もう自分の顔、醜い姿は見ないと決めたから。




シュゥゥ……



フライパンで熱される音。少しでも飲んだことの無いお酒を飲みたい気分になる。



それはすぐに出てきた。


「はい、厚揚げ。」


「ありがと。」



厚揚げが1センチ幅くらいに切られ、皿に三枚寝ている。側面はカリカリ、豆腐の白身はプリプリ、刻み茗荷みょうがが乗るそれはいかにも美味そうに私に主張する。それに負けて飲酒に触れてしまいそう。


醤油はかけすぎないように穴をふさいで一滴ずつ垂らした。厚揚げにその色が着く度、私の腹は「早くくれよ」と催促するように音を立てた。



てか、なんでいきなり来たの?



いや、ここでバイトしてるって聞いた事あって、ちょっと寄ってみようかなって



へぇ、そういう人だったんだね、


――皿から一枚食らった。香ばしさは忽ち広がり、茗荷の作る自然は鼻を抜けた。

そいつは私の前の席に座った。



…あれ、中は大丈夫なの?



うん、さっきその店長にことわったから、休憩ってことでここに居てもいい?



…まぁ、


――二枚目を食べた。一枚目より冷めてる分、豆腐の甘みが感じられた。



なんかありそうな顔じゃん?



まぁね



どうせバレること、隠さない方がいいよぉ?



そんな大したことじゃないんだけど、



なんでもきいてやるから



…実は気になるひとが出来てね、



おっ、盛ってるねぇ男子高校生ェ。その、その人にコクろうかってこと?



あ、まぁ…そうなんだけど。



どんな人なのその人は?



んー、第一、俺に寄り添ってくれんだよな。なんでも相談にのってくれたり、なんか、俺の心をわかってくれてるんだよね。



じゃあ迷う必要なくない?



うーん、でも女子の感性も頼りたくて、

なんというか、お前のタイプを聞きたくてさ



――数か月前から考えていたこのフレーズ。思い切って言えた喉に褒美の水を一杯。



ウチの好きなタイプは、


んー…



かっこいい人かな。




…そうか。





――三枚目を飲み込んだ。無味だった。





「心が決まったよ。ありがと」




「え、ウチなんもしゃべってないけど」



「いや、いいんだ。話が聞けて良かったよ」


コップに残った水を飲み、今までをかき消した。



「厚揚げ、いくら?」


「お金はいいよ」


それでも、席を立つとき千円札を気づかれないように置いた。



「ほんとにもう帰るの?」


「もう9時だから、帰る。今日はありがと」



ここの空気がこんなにも居心地が悪いとは。ここの空気で今にも溺死しそうになってしまう。ここにいるべきでない私は、早くここから去らねば。



店の外へ足を踏み入れた。空から水滴すら落ちてこないのに、天気は未だ雨。



「またきてね」


あいつの無垢な声に、私は声なき別れを告げた。



両手でぐっと閉めた戸。


私はあいつへかよっていると思っていた糸を切った。

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