マキナ

白瀬直

第1話

 小さい頃から機械が好きだった。

 それは、Aが動けばBが連動するその機構だったり、金属の鈍色の光や硬度だったり、人間では無しえない仕事を成し遂げる力強さだったり、そのためだけに作られたという専門性だったり、計算に基づく機能美だったり、そういう諸々の理由付けは後でかもしれないけど、とにかくまぁ私は機械に惹かれる子供だった。

 別に変なことではなかったと思う。


 身近にある螺子や時計、大きくしていけば車、列車、船。ありとあらゆる機械が好奇心の対象だった。

 家の近所に有った作業場に良く遊びに行っていたし、そこで働いているおっちゃん達に色々な機械や重機が動いているところを見せてもらっては大興奮してた。特に好きだったのは油圧シャベルのアームの挙動だ。たまらん。

 休日は毎週末のように遠出して列車や船でもう大騒ぎして喜び疲れ、家に変える前に体力が尽きていた。機関庫の転車台とか見たらそうなるだろうってのは今でもわかるオブわかる。


 誕生日プレゼントも最初こそミニカーとかだったけど、物心ついてからは工具に変化した。遊ぶだけじゃなくて自分で作ろうと、そういう風に欲求が変化していったのだ。

 しかも工具が揃ってからは家にあるものを色々解そうとしては怒られ、解して元に戻せなくなっては叱られた。

 そのうち誕生日に「解してもいい家電」とかを要求し始めた辺りは自分でも頭がいいのか悪いのか悩むところではある。


 私の両親は工業とか全く関係の無い教師と警察官の夫婦ではあったけれど、子供の興味に理解のあるタイプだったのが幸いした。ガレージの隅に、作業場と銘打った秘密基地を作るのを黙認してくれた辺り本当に懐の広い両親だったんだなと思う。いつの間にか空調が付いたりしていたのは多分母親の進言だ。

 本当に幸いだったのかを判定できるほど生きちゃいないけど、今の自分的には嬉しいことにのびのびと自分の好きなことをやらせてくれた。



◆ ◆ ◆



 そんなわけで、隣の家の幼馴染が土と汗の時代を過ごしていた頃、私はずっと鉄と油の匂いに塗れていた。

 最初に自分で解して組み上げた時計は今でも壁に掛かって時を刻んでる。初めての思い出の品が時計ってのがエモいなーと思ってはいるところだ。まぁ当時そう思ってやったわけじゃないだろうけど。


 周りがサッカー選手とか野球選手とか金メダルを取るとか書いてるそんなとこに発明家って堂々と書くような、機械大好き小学生がまっすぐ育ったところで友達がたくさんできるかという話。

 割とできるんだこれが。

 小学生低学年辺りはみんな秘密基地大好きだから、何人も連日見学に来るうちにウチのガレージから車の方が何台か追い出される。表に新しい駐車場を整備したときとか学年を越えて10人くらい集まって秘密基地から工事を眺めた。


 変なあだ名がついたのはその辺で、人数もそんなに多くない学校では一度浸透したあだ名と信頼はなかなか剥がれない。変わり者ではあるけど、孤立するほどでもないって所の立ち位置をキープしつつ小学校を過ごしていたんだけれど。


 ランドセルを背負わなくなった途端、急に周りが色恋だのなんだのに浮かれ始めるのを蚊帳の外から不思議に思っていたわけです。

 絵本とかおもちゃは卒業。読む本もちょっとこじゃれたハードカバーが増えてきて、CDを借りてきてアイドルの歌とかポップソングにきゃいきゃいしてる。漫画雑誌もだいぶ薄くなったなぁ。コロコロとりぼんはどこいった?

 いや、実は私が知らなかっただけでそういう話がランドセル時代にも進んでいたのかもしれない。でもちょっと抽象的な単語が増えてますね? 換喩とかそういうの。

 仲のいい友人とかはいるけど、「それ以上」ってなんだ? 広すぎやしませんか?

 AとかBとかCとか、うんまぁ接続だの接触だのに興奮するのは私にもわからんではない。ないがー。

 それを、その辺にいる誰それくんなりちゃんなりとしたいと、そう思っているわけですか貴様ら。


 そう、思ってはいたけれど口にはしなかった。まぁ私が理解出来ないのは本音で、そういうのを向けられても解らんからごめんと答える他ないけれども。周りが自分と違うのなんて今に始まった話じゃあないしなと、そんな風に傍から見たら達観してるような立ち位置にいたわけです。実際は機械いじりが楽しかっただけだけども。



◆ ◆ ◆



「マキナって割とモテるよね」


 そんな風に幼馴染に切り出されたとき、嫌味だとしか思えなかった。そのまんま顔に出すとそれをしっかり読み取って、


「いや、ほんとほんと。割と評判良いんだよー」


 そんな風に繋げた。

 幼馴染のユーリは中学に入ってから急に女の子らしくなった。夏場は薄い体操着なのでシャツを下に着ていても体のラインが割と出る。身体つきはシュッとしたままだけど、どことなく柔らかそうに膨らんで……あんまり見てると睨まれるのでこれ以上は割愛。

 小学校から得意だった短距離走でそのまま全国大会に出て、中1の秋にはもう有名人だった。土と汗に制汗剤の匂いが混ざった青春が始まっていて、ユーリに告白する連中なんてのは学年問わずどしどし押し寄せた。その中に一部性別を超えた層が混じっているなんて話も聞くから次元が違いますネー。


 一方、私に関しては、外からの評価は良く知らないのだった。

 正直、そういうことを私に伝えてくれる友人が今となってはユーリくらいしかいない。機械オタのレッテルが威力を持ったのはみんながおもちゃに興味を持っていた小学校までで、中学生になった途端みんな垢抜けたがり背伸びしたがり。私の周りからそこそこに距離を取り、それぞれの恋だの愛だのに精を出していた。良いと思う良いと思う。


「誰かと付き合ったりしないの?」


 たぶんユーリは本音で聞いていた。それの意味を判った上で、ちゃんとはぐらかさずに答える。


「特に、好きな人もいないしなぁ」

「そっか」


 ユーリの表情には、ほんの少しだけ影が差しているように見えた。

 お互いに、ちゃんと判っていながらも明確に言葉にしないこの感じ。家が隣なのは変わっていなくて、これからもまだ続いていくだろうって薄い期待の上に乗っかったお互いの遠慮。踏み込まないそれをお互いがお互いにずるいなって感じるようになったのはやっぱりランドセルを下ろしたからだろう。


「ちゃんと、誰か好きになれるといいね」


 笑みを浮かべて言うユーリ。

 私はそれに、返事は出来なかった。



◆ ◆ ◆



 中学の卒業式、告白された。

 正直な感想は「なんとまあ」だった。私が。

 相手はユーリと同じ陸上部の後輩だったんだけど、どこかで見た面影が格好良かっただの、打ち込む姿が凛々しくて気付いたら目で追うようになっていただの甘酸っぱさの連打。

 まあ、下駄箱手紙呼び出しなんつー手段を用いた時点でもうそういうことなんだろうとは分かっていたけれど、念のため宛名から何から間違えているんじゃないかと何度も確認した。

 それ自体失礼だなとか今になって思い返すと思うんだけども、ともあれ、


 初めての経験でどうすればいいかよく解らない。少なくとも君が好きだと言ってくれたことは嬉しい。でもごめん。今は、誰とも付き合う気が無いんだ。だから、ごめん。


 そんなことを、突っかかりながら言葉にした。

 相手の方がむしろこっちの動揺っぷりに驚いていたくらいだったけど、なんとかしっかり断ることが出来て、


「ありがとう」


 そんな風に笑顔で言ってもらえると、少しは救われるものがあった。

 噂を聞きつけた、というか事前に知っていたであろうユーリに後で聞いたところ、


「知ってたけど、別に大丈夫かなって」

「大丈夫、とは」

「ちゃんと断るでしょ?」


 信頼だった。それを受けるこっちは、嬉しさといたたまれなさが半々だ。



◆ ◆ ◆



 高校に上がってから、ユーリと会う機会はかなり減った。何より、進学先が別なのだ。

 ユーリはスポーツ特待で陸上の強豪私立へ。高校に入ってからは短距離だけでなく十種競技にも挑戦しているらしいし、なんなら1年で既に全国大会へ出ている。そういう奴だった。

 一方私は高専へ。やりたいことはだいたい決まってるので特に迷ったりもしなかった。やりたいことあるやつは好きにやるっていう自由さ、何よりどれだけラフな格好でも咎められないのは本当に楽だ。制服とか無いから9割芋ジャージ。着回し用に友達から回収したのが役に立っている。たまにジャージの名前で呼ばれて反応できないことあるけど。


「今は何してんの?」

「今って?」

「授業」

「基礎数学とか、英語とか」

「勉強じゃん」

「高専を何だと思ってんだ」


 学校は違っても家が隣だっていうのは変わっていなくて、私が帰ると「作業場」の電気がついていることがままある。そんな時はいつもユーリがここにいるのだ。小学校の時に比べたら体は大きくなっているけれど、それでも十分なスペースがある。空調もついていて、私が入る頃には適度に冷えた空気が迎えてくれる。

 ユーリが何をしに来ているのかというと、何かの大会の結果の報告だったり、好きなアーティストのライブが発表されたことだったり、親から何か持って行けと渡されたり。今日は3つ目。大玉のキャベツが6つほど、白いビニール袋の取っ手を細く伸ばしたままガレージの隅に詰まれていた。あとで部屋まで持って上がるの私か? 私か。


 ガレージにはいつも自然の匂いと機械の匂いが混じって存在していた。すぐ表の駐車場は白っぽい土がむき出しになっているし、脇に行くと芝が短く刈り込まれている。小さい頃「あまり掘らないように」と怒られたそこから立ち上るのは昼の日差しで温められた草と土の匂いだ。

 作業場のすぐ外には高専に上がる春休みに買った原付が置かれて、まだそんなに弄ってはないけどやっぱり油の匂いは強くなる。それとは別に、少し前に分解したエンジンのパーツがそこらに転がっていてそっちからは鉄の匂いも漂ってくる。

 ユーリが来ているときは、それらに制汗剤の匂いが混ざって。

 それが、嫌いでないと気付いたのはいつ頃だったか。


「嫌いじゃないんだよね」


 すわ!

 思考を読まれたかと警戒したけど、私が匂いを嗅いでることに気付かれたわけでは無さそうだった。いや、別に解りやすくスーハ―していたわけではないけれども。漂ってくるくらいだけども。


「私のことさ、まだ、好きじゃない?」


 グイときた……!

 短距離走走者、距離の縮め方に度胸が見える。

 小学生だった頃は一緒にいるのが当たり前で、特に気にしていなかった。

 中学に上がって互いに意識するようになって、何となくお互いの気持ちに気付いたけれど明確に口にはしなかった。

 高校になって、離れる時間も増えて、ここらで転機を掴まないとと思ったのかもしれない。

 でも、正直なところ、私のメンタルは小学校からそんなに変わってなかったりする。


「好きなのか解んない、ってのが正しいのかな」


 優柔不断の言い訳ではないのです。経験が無いから解らんのだ。ほんと、スマンと思ってる。

 だって、私はここで、この距離で一緒にいてもフワフワせんのだ。一歩も浮き上がらない。なんかこう、感情が熱量に置換されたりとか、それが原因で感覚器に異常をきたすとか、そういう病的な何かが私の中には無いんだ。

 前後不覚に陥れとまでは言わないけども、そういう熱量とかを感じるような間柄じゃないとこの先ずっと付き合っていくとかそういうのは出来なさそう、なんだよな。

 恋だの愛だの、まあ実際の経験は無いから全部他人からの伝聞なんだけど、感覚としてそういう物を持つような相手じゃないとってところ、あるやん?

 ワクワクさんじゃなくても、ドキドキさんとかフワフワさん辺りは欲しくない?


「そういうもんよね!?」


 と、私の恋愛観を開陳したところ。


「いや、箱入り娘か」

 スパッといかれた。

「ガレージ入り娘か」

 別に上手くはない。

「正座」

「はい」

 下がベニヤなので地味に痛いんだけど、まぁ石抱ほどじゃあない。


「……結婚とかまで考えてんすか?」

 まずツッコミ1来ましたハイ。

「一生添い遂げる勢いで考えてんすか?」

 ツッコミ2来ましたハイ。

「んー」

 むず痒いような表情になっている。なんか、ハイ。あの、私なりに真剣に考えたつもりなんす。

「気が早いんじゃ」

 訛った。

「いや、考えてくれんのは嬉しいんだけど、私はそこまで求めてないっていうか。というかそういう風に求めてる高校生ほとんどいないっていうか。もっと楽に考えて貰って大丈夫ですはい」

 あ。

 そうなんすか。


「なんだろうな。あれよ。付き合うって行為がもうステータスバフなの。お互い一緒にいて悪い気しないな、くらいの相手と一緒にいることがもう幸せバフで幸せ経験値入るの。経験値溜まれば幸せ循環成功するかもしれんし。将来的に別れるとか長続きするとかは結果であって、付き合い始める前に考えることじゃないと思うんだ私」


 早口。

 言っているうちにどんどん加速して、多分私にはないドキドキを感じてるんだろうなってそういう風に眺めていたところで一旦停止。

 肩の力を抜いて、深呼吸。吸ってー吐いてー、もう一度大きく吸ってー、吐いてー。

 私の目をしっかりと見て、


「今は、好きじゃなくてもいい。多分。大丈夫。この先もずっと一緒にいれるなら、いつか、好きになれると思う。多分、ずっと、私は好きだから。いつか好きになってくれるなら、私はそれでいい。だから、付き合ってください」


 言葉を一つ一つ区切るようにしっかりと吐き出した。

 いかに「人付き合いが苦手」を公言している私でもその真剣さは伝わった。

 はじめて至近で見たその瞳は綺麗な真ん丸で、視線には強い意志が宿っていた。ほんの少し潤んでいるようにも見える。震えているわけではない。


「じゃあ、はい」


 返答。頭についている接続詞が私の弱さ。

 私の回答を聞いて即座に行動に移すのがユーリの強さ。両腕が首に掛かる。絞めようってんじゃなくて、ちゃんと回して顔を近づけるアレで。


「キスしていい?」


 問うてきた。ユーリからそんな風に感情をぶつけられるのは初めてで、ちょっと動揺する。


「そういうことしたいのが、好き?」

「私の好きは、そういうことしたい"好き"」


 言葉が終わると同時に唇をふさがれる。

 柔らかい。柔らかくて、暖かい。ということは私は冷たいんだろうな。

 そんなことを考える余裕があった。

 壁に掛かった時計がカチっと一度だけ鳴って、唇が離れる。離れた分の距離を埋めるように吐息が二人の間に掛かって、


「どう?」


 問われる。


「……嘘、吐かなくていい?」

「……そっか」


 答えないことを答えにしたら、ユーリは解ってくれた。

 自分の理解が及ばないのは仕方ないとして、少なくとも誠実ではいたかった。傷つけることになるのかもしれないと少しよぎったけど、たぶんそれを含めて受け止めてくれる。そのくらい、ユーリは強いのだ。

 背中に回された両腕の柔らかさに、「解るまで甘えてていいよ」そう言われている気がした。


「頑張るね」

「それも、なんかフクザツだなあ」


 もう一度、唇が重なって、

 その時、ユーリの匂いをはっきりと覚えた。

 変わってしまう前に、ちゃんと好きになれるといいなと、そう思った。



◆ ◆ ◆



 どうやったら、ユーリのことを好きになれるんだろう。

 そう考えるようになった。

 高1、高2と過ごして名門私立でメキメキと頭角を示すどころか世界に名を知られるようになっていくユーリの裏で、平凡な高専生として過ごす私は焦りみたいなものを感じていた。


 いや、はっきり言って嫌いなわけではないのだ。

 ただ、自分がきちんと愛情を向けられるのか、その自信がどうしても持てない。

 丸二年ほど付き合ってこれだ。何かしらのきっかけがあるかと思っていたんだけど、時間の経過とそれに合わせてユーリとの差が開いていくのを眺めているだけ。

 こういうこと考えている時点で、私にとってのユーリが他の人と違う位置に立っているのは間違いない。他の人にそういうことを考えたことはないし。

 ただそれは、他の人より優先度が高いと言うだけで、私がユーリを好きだということとイコールじゃない。

「好き」という強い気持ちは、私の中にない。

 それが、少しだけ悲しい。


「"好きになりたい"は好きの始まりだと思うよ」


 ユーリはそう言ってくれる。

 それでも私に実感はない。「もう少しかもね」を気休めにしか思えない。それはそうだ、当事者だもの。

 小学校で一緒に遊んでいた時の好きと、何も変わっていないんだ。

 こういうこと言いたくないし、言ったらどう思われるかを重々承知だから実際に声に出したりはしないんだけど、ひょっとしたら機械の方がまだ好きなんじゃないかって思うくらいなんだよ。

 いや勿論、無機物に欲情するとかそういうことではないんだけど。

 人と話したり、何かを成し遂げたりするよか、一人で機械弄ってる方が楽しいんだよね。中免取ってからバイクいじりをはじめてそれがまたいい感じに難易度上げてる感じで楽しくてさ? 父さんの車のエンジンルーム勝手に空けたのは多少申し訳なく思ってる。けど車検通ってるってことなんで大目に見て欲しい。


 人間が嫌いか? って聞かれたらそれにはノーって答えられる。でも、ここまで、他人に興味を持てないのかってずっと苛まれてる。

 人間って、もっと人間に興味を持つものなんじゃないの。どこをどうした私。実はホモサピエンスではないのでは?

 解らない。解らなくて、解らないなりに恋愛がどういう物なのか片っ端から調べた。文字でも、絵でも、漫画でも、歌でも、人は「恋」を形に残している。それらを目に付いたものから全部吸収した。

 人が人に興味を持つきっかけは何か、どれだけ調べても現実的な回答は見つからない。抽象に抽象を重ねるだけで、感情という形の無い物の捕まえ方はいくらやっても出てこない。

 そんな風にぐるぐると思考を回した果てに、ユーリが機械だったらいいのに、と有り得ないようなことを願う。思い付いた2秒後に、何言ってんだかって自分でツッコミを入れた。


 翌日。ユーリが、事故に遭った。



◆ ◆ ◆



 廊下ですれ違った生徒たちが、目に涙を湛えながら歩いていくのを見て、後輩なんだろうなって漠然と頭に浮かんだ。この時間にあの人数で見舞いに行く案件が複数あるとは思えなかった。制服が同じだってことに気付いたのは階段で一階上がった後だった。

 リノリウムの床は西日に照らされてオレンジに色づいている。消毒液の匂いの充満した廊下を歩いて端の個室まで。私が病室に着いたとき、ユーリはもう、泣いていなかった。


「マキナ」


 私を見つけて反射的に出た声。

 木製の家具を基調にした、応接室みたいな部屋。白いベッドとに薄い青の病衣を纏ったユーリがいた。ちょうど面会も切れ目になったのかもしれない。おじさんたちも不在だった。

 頭に巻いた包帯と、吊るすように保持している左腕がまず目に入る。しかし、それらはまだ残っている部位だった。


「もう、走れないって……まあ、解るか」


 ユーリに掛けられているブランケットが不自然に凹んでいる。

 両足の大腿切断。

 右腕の前腕切断。

 私が来る前に、何度も、何度も説明したのだろう。

 そしてその度に涙を流されて、同じだけの回数泣いたんだろう。

 震える声はもう、乾ききっていた。


「どうしよっかな」


 家族も、教師も、先輩も、ライバルも、後輩たちも、一緒に悲しんでくれた。才能を失うことを、これから先の未来が断たれてしまうことを。

 でもそれは、ユーリの一面でしかない。失われてしまった、あるはずだった未来の話でしかない。

 母から連絡を受けた時点で、私はもう十分に泣いた。後悔と絶望に流す涙はもう全部吐き出した。だからユーリの前で見せる私はそれじゃない。ここで一緒に泣いてやるのは私の役目じゃない。少しでも思い浮かべてしまった私は、そのあとの話をするべきなのだ。

 何か。何かを。何でもいい。

 この決意は、多分、私の人生で二度と無い。


「ユーリ」


 顔を寄せる。両手で優しく頬を押さえ、視線を合わせる。

 いつか見た綺麗な真ん丸の瞳。乾いたそれが、少し震えてる。

 正直なところ、怖い。一度だってこんなに踏み込んだことは無いのだ。間違ってない保証はない。それでも、やらないといけない。

 言った。


「私に、助けさせてほしい」


 瞳が、ほんの少しだけ潤む。

 私じゃない。

 私に、ここで涙を流す資格はないのだ。

 私は、ユーリ何もしてあげてない。これから、今までの全部を返していかないといけない。

 私を信頼して、私を好きになってくれたユーリを、これから、一生を掛けて、少しでも、好きになっていくんだ。


「何がしたい? 何を、してほしい?」


 口元が動く。

 消え入るような声。それでもこの距離なら、耳に届く。


「キスして」


 重なった唇に、一筋の液体が届く。

 舌で舐めとる。

 強く漂う消毒液の匂いに、ほんの少し、嗅ぎ覚えのある匂いが混ざった。



◆ ◆ ◆



 退院後。車椅子を押して、久しぶりに「作業場」を訪れる。


「マキナさ」

「ん?」

「やってほしいこと、あるんだけど」


 車いすに座ったままこちらを見上げる。その瞳に宿っていたのは、いつか見た意志の強い光。


「私の義手と義足。マキナに、作って欲しい」


 技師装具士。

 国家資格だ。

 私の人生を賭けるに、相応しいと思った。


 それから、私のためではなく、ユーリのために私の全てを使った。

 三年次編入と資格取得のための勉強、技師としての技術と知識の蓄積。

 最新技術の習得と、発想のために、今まで使ってこなかった言語野を全て使った。コミュニケーションを取り、現在の最先端技術を理解するために海外へも飛んだ。

 何より、ユーリのための装具が何になるのか。来る日も来る日も考えを巡らせた。

 目の前にぶら下がったチャンスを一つ残らず掴むために、全ての準備をした。

 多分、これからの人生を含めても、この期間が私が、最も命を輝かせた時間だった。



◆ ◆ ◆



 綺麗。

 ストレッチャーに横たえられているユーリを見て、それ以外の言葉は浮かばなかった。

 ストレッチャーから抱えて運ぶ時、腕を私の首に回させて腰下を抱えた。事故に遭って以来、何度となく抱えてきたけれど、腕と脚が無いというだけでこんなに、という驚きは未だに消えない。

 安楽椅子に落ち着ける。わずかに不安を浮かべる顔も、今は美しい人形のように見えた。ここしばらく義腕の製作で眺めていて気付いたけれど、ユーリの肉体は生物としてのバランスに極めて優れている。

 胸部から腰部に掛けては一切の無駄のない体躯をしている。女性的な特徴こそ薄いが、その美しさは人間という生き物の最上位を模しているという確信があった。

 首元から鎖骨に掛けての線は稀代の芸術家をもってしても描けるものではない。肩から延びる左腕へのラインは人間という生物の理想像に近い。

 短く整えられている黒髪は絹のような光沢を放っていて、その柔らかさと流れるような感触が見ただけで想像できた。瞼の上から薄く伸びるまつげの先に至るまで奇妙な魅力に満ちていた。

 右腕と両太腿の接続面からは磨かれた鏡面のような銀が覗いている。見慣れた鈍色とは違うその色も、彼女の美しさを助長していた。

 接続面に、義腕義足を取り付ける。

 ジョイント接続。神経信号走査開始。接続時の疼痛もほとんどないはずだった。表情を変えないままに、視線を腕に向け、機械の動作を眺める。

 小さな電子音。接続完了の信号だ。


「動かしてみて」

「ん」


 右足。左足。そして右腕。

 うん。神経系の接続もエラー無し。人工筋肉と、腱の稼働も確認。問題無し。

 右手を握って、離してを繰り返し、ユーリは呟く。


「あ、すごいこれ。ちゃんと手だ」


 もちろんだ。ただの義手義足じゃない。全ての指の先まで全て人工筋肉で稼働させることが出来るし、触覚も接続している。紛れもないユーリ専用の「腕」だ。繋ぎ目すらも判らないように設計されているそれは、私の執念の塊である。

 血が通うような色の肌はわずかに光沢を帯びている。陶器のような艶やかさと暖かさが共存していて、指の形、爪の大きさ一つまで機能美で覆った。

 両の大腿から接続される脚部は、今のユーリに合わせて筋肉量を調整している。高校時代からほんの僅かだけふくよかになったそれは柔らかさよりもしなやかさに重点を置いた筋量配分。人の、どんな動きも再現できるよう造られている。


 確かめるように地に足を付け、掴む。薄いスポーツウェアを纏っただけの姿で鏡の前に立つ。

 ユーリにとっておよそ10年ぶりの五体満足。左右の手を同時に開閉させてその差異の少なさを実感し、両足を屈伸させた。

 縮める。伸ばす。縮む、伸びる。

 左右の伸脚。

 軽く駆け足。

 そして、跳躍。高く飛び上がって、右手がガレージの天井に触れる。ざらりとした触感を作り物の掌を通して感じ、自由そのもののその動きに、ほんの僅か目に涙が浮かぶ。


「私の腕だ……。私の、脚だ……」


 その時に流れた涙は、悪いものではなかったと思う。

 その泣き顔があまりに綺麗で、思わず抱きしめてしまった。

 頬が熱い。何だろう、笑いがこみ上げてくるのに、目頭も熱くなってる。足元がふらついて、ユーリを抱いたまま床に倒れて、肘を強かに打ち付けた。


「あ、あはあははは」


 痛いのに、笑いが止まらない。おかしくなってしまっている。解らない。

 解らないけど、ユーリが目の前にいるだけで口角が上がってしまう。解らない。

 解らないけど、頬を擦り付けたくなってしまう。解らない。

 解らないけど、


「あのさ。キス、していい?」


 言った。

 ユーリは面食らってる。


「それ、本気だよね」

「ん、なんだろ。今、すごく、ドキドキしてる」


 嘘じゃない。演技でもない。心臓が早鐘を打っていて。恐らくすごい勢いで寿命を消費してる。


「なんかさあ」

「ん?」

「ちょっとだけ、フクザツ、かな」

 あ、やっぱり?


 ユーリの右手を取る。軽く握って、指を絡める。これはユーリの指だけど、本物じゃない。理想が形になったものだ。

 愛おしい。

 そう感じているのは嘘じゃない。

 どうなんだろう。

 私の好きは、どこを向いている物なんだろう。

 彼女が義手義足になってしまったから好きなのか。それとも様々な経験を経ていつの間にか彼女に向けて芽生えたものなのか。

 自分の感性を知っているだけに、後者だと断定できない辺りが情けない。


 でも多分、「誰かのために」を本気でできたあの時期が、それをもたらしたんじゃないかと、そう思うのだ。


 本当のところは解らない。

 でも私だって人なんだし、機械みたいに01はっきりさせるんじゃなく、たまには自分の信じたいことを信じていいように思う。

 少なくとも、私は今、ユーリのことを好きでいる。

 そしてこの気持ちは、恋を通り越して愛に変わっている。

 それは、紛れもない事実なのだ。



◆ ◆ ◆



 日差しを受けて、肌にジワリと汗が滲む。

 ゆるい風が肌を撫でて、滲んだ汗をさらっていく。

 電子の号砲が響いた。

 トラックを駆ける。

 地を噛むスパイクの歯。ふくらはぎが肥大しつま先が地を蹴る。前に押し出された勢いで上体が少しずつ起き上がり、視線は前へ。

 手を開き、腕が前後に振れる。

 流れる景色とともに、風を切る。

 芝生の匂い。金属の匂い。そして、制汗剤の匂い。

 汗が落ちる。

 青春が、走り出す。

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マキナ 白瀬直 @etna0624

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